「私」を消し去る「線」とは——大竹昭子のカタリココ『高野文子「私」のバラけ方』(その3)【書評】
(承前)
この対談のはじめから、大竹昭子は高野文子の「線」に着目している。
大竹のこの指摘から、高野は「自己をはがして他者のなかに入る」「時間限定で、描いているあいだだけ分身をつくって入っていって、終わったらペタッと閉じる」という、今回のタイトルにもなった「『私』のバラけ方」について語るようになる。
その一方で、高野の作品『ドミトリーともきんす』について、寮母のとも子と娘のきん子の二人には太い均一の輪郭線、朝永振一郎や牧野富太郎といった4人の科学者については、強弱のつく筆のようなもので描かれ、その違いによる印象や効果が興味深いと大竹は語る。
事実、高野によれば、実在した人物を客観的事実として描いても、むしろ「私」が入ってしまう。これは客観的だという判断こそ主観的だというものだ。実在の人物だからこそ、あえて漫画では作り物のトモナガ君として強弱のある線にしたという。他方、「とも子さんのいる次元ではじまって科学者さんが登場する」という設定なので、場としての寮、案内役としてのとも子やきん子は、太さの均一な製図ペンを用いたのだろう。強弱のある線、太さの均一な線の両方を用いて、高野は「私」を消し去っている。
やはり、『ドミトリーともきんす』は静かな漫画である。そして、カタリココ文庫『高野文子 「私」のバラけ方』も、文庫本サイズで、奥付を含めても40ページあまりの小さな佇まいに、対談の熱気と、語り口と視点の冷静さが共存している。希有な一冊である。
(了)
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