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われわれはどれだけ進歩したのだろうか
経験を重んじ、そのうえで自分の感覚を大切にせよ。しかし、経験の味わいなんて、すぐには解らないものだ。すぐに分かるのは、大した経験ではない。
小林秀雄が「経験」について言及するのは、実際に経験すれば、それは実証に使えるのだ、科学的なデータがあるのだから、この考え方は正しいのだ、という似非ロジックが、『私の人生観』の当時も蔓延していたからだ。
私がここで、特に言いたい事は、科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と験証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方というものとは関係がないという事です。
『私の人生観』の講演から70年あまり後の現代日本においても、科学的な物の見方、実証やエビデンスの有無が問われている。「私はこんな経験をした」となれば貴重な〝証言〟となり、「知人からこんな体験を聞いた」ということすら、重要〝証言〟と化すこともある。ネット経由で出所すら不明でも、信憑性のある〝証言〟が量産され、拡散される。この70年間で「科学」は大きな進歩をしたはずだが、「科学」に対する見方は、どれだけの進歩があったのだろう。
経験科学ということを言うでしょう。ああいう言葉が非常にまどわしい言葉なのです。(中略)科学的経験というものと、僕らの経験というものとは全然違うものなんです。今日科学の言っているあの経験というものは、合理的経験です。大体、私達の経験の範囲というのは非常に大きいだろう。われわれの生活上の殆んどすべての経験は合理的ではないですね。そのなかに感情も、イマジネーションも、道徳的な経験も、いろんなものが這入っています。それを合理的経験だけに絞ったのです。(中略)科学というものは、計量できる経験だけに絞ったのです。
似非科学論者はいう。○○は間違っている。△△は効果がない。それらは実際のデータが示している。といいつつ、そのデータを提示しなかったり、データの出典が不明だったり、Youtube動画だけだったりする。つまり、事実と解釈を混同しているのだ。はじめから区別する気すらない場合もある。
そして収集や分析はもちろん、解釈および価値づけも批評に含まれる以上、数字に躍らされ、我こそは正しいのだと主張する物言いは、本当の批評とはいえないと小林秀雄は説く。
批評力とは判断力である、判断力とは未知の事物の衝撃による精神の弾性ではないか。
70年前の講演・文章が現代にも通じる。この70年で、われわれ自身も、どれだけの進歩があったのだろう。その一方で、小林秀雄や『私の人生観』が、もはや古典であるならば、古典とは何と豊饒で役に立つのだろう。小林秀雄が晩年、本居宣長から多くを学んだように、われわれは小林秀雄から多くを学んでいる。
(つづく)
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