ずらしの美学 テクノロジーの憑依に抗して 今、再考すべき伝統の作法
はじめに なんとも言えない居心地の悪さ
安部元総理大臣撃たれる、との一報を聞いて国際的、組織的陰謀の可能性を疑った人も多いだろう。ところが犯人は単独で、宗教団体への恨みとはいえ、犯行自体にイデオロギーや政治的力学が働いた形跡はない。組織的な背景はなしにあくまでも個人的復讐として要人の殺害を実行した。無謀なテロ行為である。その半年ほど前に大阪の心療内科で多数の患者を巻き添えにして焼身自殺をした男やアニメーション・スタジオにガソリンを撒いて放火した青葉慎二被告のことも思い浮かぶ。
彼らは経済的、社会的システムから脱線して落伍者となり孤立を深め傷ついていたと思われる。自己を肯定する価値基盤が見当たらず、生きていることに意味が感じられない。自分を認めようとせず排除、あるいは無視しようとする者たちへ恨みをはらそうとした。他人を殺して自分も死ぬしかすることがない。それ以外に耐え難い現実から離脱する方法がなかった。こうした事態を社会問題として指摘することには意味があるだろう。視野を広げればアメリカ各地で頻発する銃乱射事件などとの対比も必要かもしれない。
しかし別種の違和感もある。
彼らは誰からの指示でもなく、また、従うべき思想信条によるのでもなく、金銭の簒奪などの目的もなしに、情報を収集、計画を立案した。相談や援助を求めることなくただ一人で凶器の準備をすすめ、周到に下見して場合によっては事前テストまで試みながら機械装置のように常軌を逸した犯行に及んだ、ということである。
身近で観察していた者がいたならば「まるで憑きものの仕業だ」とでも言ったのではなかろうか。
襲撃事件のおよそ三週間後には2008年6月8日、秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、無差別殺人を行った加藤智大死刑囚の刑が執行された。加藤の動機は「ネット上での書き込みに耐えられず」犯行に及んだということであった。子供のころは勉強もスポーツもできて将来が有望だったはずなのに成人してからは不安定な生活を送った。裁判記録や数々のジャーナリストの取材から母親の教育方針や家庭環境に問題があったことがうかがわれる。出身地の青森から、宮城、埼玉、静岡など職を変えながら転々とし、最後は自動車工場の期間工として働きながらも、定着できなかった。犯行の前年には車上生活をしていたこともあったという。そんな彼が自分の居場所として見つけたのがインターネット上の掲示板であった。経済的、社会的に追い詰められた男の最後の砦だった。辛うじて自分らしさを遠慮せずにさらけ出せると感じた。ところがそこにも障害があらわれる。なんと偽の自分が現れたのだ。そして「自己を奪われたことが犯行動機である」と主張する。彼ほど鋭敏な形ではないとしても、わたしたちの日常生活では今やネット空間が重要な位置を占めている。メール、SNS、チャットなど使用しているツールによって度合いは様々だが、現実での対面と同等かそれ以上の影響を個人に対して及ぼしている。江戸時代までなら歩いて行ける範囲の顏の知れた人間が「世間」であった。明治になると新聞がその範囲を広げ、大正以降は映画やラジオ、そして戦後はテレビといったマスメディアが「世間」を表すようになる。平成にはインターネット空間が登場し、令和の現在はスマートフォンの普及により、個人が直接アプローチできるさまざまなプラットフォームが大小多数の「世間」を形成している。そこにはあらゆる種類の市場が結合され、世界展開を前提にビジネスが拡大し、巨大な企業グループが顧客獲得にしのぎを削る場でもある。
世界中に張り巡らされた通信網、それに付属するカメラやセンサー、計算機の性能向上と通信容量の拡大で膨大な個人情報が二十四時間体制で収集され、さまざまなデータ処理を経てフィードバックされてくる。ある意味、データベースは個人が知っている以上にその個人を知っている。情報は利便性に貢献し、経済効率にも資する一方、「憑きもの」として個人を束縛する。
四半世紀ほど前、「二十四人のビリーミリガン」に代表される多重人格のフィクションがはやり、臨床現場でも症例として着目された。これは多様化、高速化する社会の変動に「固有の自己」が追いついていけないことによる適応障害であったとも考えられる。現在では電子メディアの普及により仮面を効率的に使い分ける対応がごく日常的に行われるようになり、人格を切り替える暇すら喪われている観がある。
小説家の平野啓一は「分人」という考え方を提唱している。本当の自己などない。人は常に相手に合わせてさまざまな顔を使い分けている。多重人格ではないし単なる仮面でもない。人格は相手との関係、そのあわいで生じている関係性であり常に変動している。人格は自己の所有物ではなく関係性である。相手と共有しているわけである。平野が指摘しているのは人格を唯一無二、不変なものとして実体視することの問題である。決して自己同一性を否定しているわけではないが、現代の憑きものはこうした「分人」機能が不全となった際、制御できなくなった人格として現れるのかもしれない。
グーテンベルクの活版印刷が、貴族や教会が独占していた書籍の一般人への普及を通じて、読書で得られる知恵や知識を開放し、やがて王侯や僧侶の権威を突き崩し当時の統治体制を揺さぶったように、メディアの変動は社会に大きな影響を及ぼす。メディア、単数形ならばメディウムであるか、その原義には巫女、霊媒といった意味がある。単に情報を媒介するだけではなく人に憑くのだ。
メディアにどっぷり浸りながらも、ときにわたしたちが違和や居心地の悪さを感じるとしたら、その要因は物理的な居場所との関係であろう。
たかだか二畳ほどのマンガ喫茶であれ、自宅の居室であれ、オフィスであれ、通信回線さえ十分に確保されていれば仮想空間に没入することに影響は少ない。問題は映画「マトリックス」のように仮想空間に移転しない限り、現実世界に帰還しなければならないということである。そのとき感じる仮想と現実の落差が眩暈を引き起こす。仮想空間のレベルが高いほどにその衝撃は大きくなる。
いったい自分はどこにいるのか?
夢から覚めた浦島太郎のように自分の居場所が不明となるのだ。そのため現実的な場の確定はこれまで以上に重要になってくる。土地、建物、部屋など。さらに社会的な立ち位置も重要だ。家族、友人、知人、所属組織など人間関係。役職や資格、経済的な地位。だが最後には自分が自分であるということ、端的には身体の問題となる。
身の置きどころがない。
こうした状況を疎外と呼ぶ。古い用語に感じられるし、疎外の回復のために政治的発言力や経済的平等、文化的多様性などを勝ち取ろうとするのは間違いではない。しかし今、襲いかかっているのはそれ以前の問題である。ウイルスの流行や戦争の勃発で身体の危険は再認識されているが、別の脅威が電脳空間を通じてじわじわと押し寄せる。
ヴァーチャル空間が普及すれば現実の居場所の役割が減ずる。どこにでもいられる代わりにどこにもいられなくなる。より正確にはどこにいてもそれは自分の居場所ではなくなる。常にある種の「居心地の悪さ」がつきまとう。すでに都市では居場所は都度、対価を払って確保するものとなりつつある。時間的、空間的に期限を定めて利用権を確保する。契約が終了すれば退去しなければならない。サブスクリプション・サービスはその最たるものである。物事を独占的に所有するのではなく共有し、真に必要とする者が都度利用する。人口の増大と文明の進展による浪費は地球環境を破壊し、自然による回復力の限界を超えてしまったため、限られた資源を最大限に効率よく活用する現代の知恵である。
一見、固執からの解放、ある意味、仏教的な解脱ととらえられなくもない。キリスト教でもフランスシスコ会の「清貧」に見られるように地上の富はすべて神からの借りものだから、独占せず必要最低限なだけ利用するのが良いとの考えもある。ただし彼ら宗教者の場合は、そこに到るまでに徹底した求道のプロセスがある。修行で鍛錬された身体だからこそ耐えうるのだ。全裸なって衣服を父親に返そうとした聖フランチェスコのような覚悟は一般人にはない。カプセルホテルやマンガ喫茶のような画一的な空間に閉じ込められ、出口を失う。メディアに囲まれて暮らしている現代人にとっては決して他人事ではない。誰でも多かれ少なかれなにかに憑かれており、突然、身の置きどころのなさに襲われる可能性がある。
はたして憑きものを落とし疎外を解決する方途はあるのだろうか。
1 メディアが呼び起こす違和感
近代社会に特有のこうした居心地の悪さを引き起こした媒材としてまずは写真がある。
ベンヤミンは「写真小史」において複製・コピーによって「アウラ」、つまり「いま、ここ、これ」といったものの固有性、一回性や独占的な価値が失われてしまうことへの危惧を表明した。あたかも分身が登場したかのような気味悪さを感じたのではないのか。
写真が登場した時代に降霊術が流行したことに留意するべきである。
写真を撮られることに抵抗を覚える者も多かった。魂を奪われるから、という拒絶の仕方は一つの例だが、人々はそれまで見ることのできなかった自己の姿が露わにされることによって自己が侵害されているような感覚を覚えたのだ。写真という新しいメディアに対するアレルギー反応のようなものであろう。
デジタル化で「アウラ」はますます希薄化している。携帯電話に搭載されたカメラはもはやファインダーを持たない。このことはアナログ時代のカメラが物理的性質として持っていた「まなざし」の機能が薄れ「暗い部屋に自らを秘匿しながらのぞく」という原初の構造に特有の主体と客体の峻別から遠ざかったことを示している。かつて撮影者はファインダーをのぞき、写される画面を確定してからシャッターを切った。フィルムのコストは高く、現像、焼き付けの工程を経るまで画像が確認できないという事情があった。ここにはまだ画像に対する作家性と一回性があった。しかし現在ではスマートフォンの液晶に表示される「画面」を簡単に記録し失敗したら何度でもやり直せる。物質的媒材が不要になったことでコストはゼロに近づき画像の量は飛躍的に拡大した。撮影された画像はデータとして流通する。
このときカメラが「見る」尺度は人間の感覚と異なっている。高速度シャッターを用いれば数千分の一秒の瞬間も写る。気がつかなかった相手の表情がはっきりと刻印されている場合もある。いつの間にか人間を追い抜いているのだ。デジタル化によって恣意的な選択や加工も容易になり画像が現実の写像かどうかの境界も曖昧になった。ボードリヤールがシミュラークルと呼んだオリジナルのないコピー、シミュレーションの段階である。
もはや観察者としての主体と客観的対象という視座の維持は難しい。乱発されるシャッターは主体の特権性、個性、作家性をはく奪し、誰もが似たような画像を流布するようになる。データ上は真実も虚偽も等価でありインターネット上には玉石混交の画像が氾濫している。見ることの自由、見ることの多様性がかえって視野を不明瞭に曇らせる。
映画や蓄音機も発明当初は「不気味」と感じられていた。リンカーンや芥川龍之介も見たという「ドッペルゲンガー」現象や交霊術、千里眼の流行などからそのことがうかがえる。ある種の超常現象が類推され、人々はそれまでにない体験に興味を覚えつつも居心地の悪さを感じたのだ。伝説として語られている「ラ・シオタ駅への列車の到着」の上映会では、映画の父とされるリュミエール兄弟が蒸気機関車の接近してくる映像を見せたところ、観客が逃げ出したとされる。当時の粒子の粗いモノクロ映像に比べてはるかに解像度が高く、さらには3Dのような特撮技術を駆使してリアルな画像表現を追求した映画に接している現代の観客からすればとんだ笑い話だが、その違いは単なる慣れだろうか?
おそらくここでは「見ること」の態勢が影響していると考えられる。リュミエール兄弟の観客は「映画とはなにか」を知らなかったのだ。正確にはそれは「映画」というよりも、ある種の映像体験であり、動くイメージに対する免疫が一切なかったため観客たちは耐えがたい不安を催したのだ。だからといって蒸気機関車が実物であると勘違いしたとは限らない。「動画」が得体の知れない経験だったのだ。一方、現代の観客はスクリーンの前に座る際、二時間前後の物語を見せられることを予測している。それはエンターテイメントでありどんなスペクタクルもフィクションという額縁の中に納まっている限りにおいて不安を呼び覚ますものではない。
新しいメディアの体験に接した人々はある種の防衛機制を働かせたのだと考えられる。映画が主体に向き合うスクリーンとして対象化され、ある種の「窓」として定位されると観客が逃げ出す必要はなくなった。
撮影、現像、プリント、編集、上映という過程に長い時間を必要とした映画と異なり、放送では生中継が可能となった。映画では動画内の出来事と観客の間に一定の時間経過があり、物語化によって生々しい映像の違和感から距離を取ることができたが放送には同時的な出来事が含まれている。
ラジオ放送で起こった珍事を挙げれば、千九百三十八年、アメリカで起こったH・G・ウェルズ原作の「宇宙戦争」の事件がある。火星人が攻めてくるSFがドラマとして放送されていたのだが、突如中断され「宇宙人の来襲」が緊急ニュースとして報道されるとこれを事実と取り違える者が現れ、中には「もう地球はおしまいだ」と全財産を売り払う者までいたと伝えられている。劇中に生放送に偽装したニュースが挿入されるという紛らわしい演出で、現在の放送基準では許されないものだが、注意深く聞いていればフィクションだとわかったはずだ。それでも人々が早とちりしてしまうほど真に迫った緊迫感があったのだろう。
テレビ放送が始まると、ケネディ大統領暗殺の瞬間やアポロの月面からの中継が即時に地球上を駆け巡るようになった。日本においてHUT(ハウスホールド・ユージング・テレビジョン)、テレビのついている割合が最大値になったのは昭和四十七年二月二十八日と平成元年二月二十四日の六十二・八パーセントで、前者はあさま山荘事件の警察突入、後者は昭和天皇の大葬の礼の中継だった。編集の作業を経て放送されるドラマやバラエティ番組に比してニュース、スポーツなどの持つ同時性がテレビの最重要な特性であることを示している。
ここには物語化の猶予はない。
視聴者はいやおうなく現場へと連れ去られる。そのとき受像機の前に身体は置き去りになる。しかしながら身体が消えたわけではない。視聴者が没入し注視している画面が主題だとしたらその背景、図に対する地として身体は存続している。テレビジョンとは「テレ=離れて」「ビジョン=見ること」であり、必要なのは起承転結といったコンテクストに対する理解ではなく、放送波に対するチューニングとそこに流れてくる情報の速度への同期である。
2 見ること・見られることの同期
視線には欲望が含まれている。例えばカメラ(部屋)という言葉の原義が示すように身を隠して穴からのぞく行為はそのことを浮き彫りにする。一方、見られることも欲望である。視線を感じた瞬間、見られた者はなにがしかを奪われる。このとき欲望は打ち返される。のぞき穴から隣の部屋を盗み見ていた者は穴から目を離すことができない。見られた者は見せる者へと変貌しヘゲモニーは移転する。見られる者には見せることへの快感に打ち震えながら返戻の合図を送る余裕すらあるかもしれない。
のぞき見する者が最も恐れており、それでいながら期待しているのはこのことなのだ。つまり相手がのぞきに気がつくこと、そしてついには自分を見返してくること。その結末をできうる限り伸ばすのが倒錯的な快楽なのだ。
この段階で主体、客体関係は目まぐるしく入れ替わる。
露出症はさらに複雑な症状である。コートの前をはだけて目の前にいる相手に裸体を見せつけるという行為は、主体としての加害者が客体としての被害者を辱めることによって快楽を得る行為と解することもできるが、被害者からすれば、彼・彼女が恥ずかしいと思うのは、加害者に対してではなく、状況を把握した第三者に対してなのである。すべてを見て楽しんでいるのはこのどこかにいるはずの第三者ということになる。加害者は快楽の主体ではなく、むしろ見られている自らを被害的立場に擬すことによって、被害者を見る主体として立て、どこかにいるはずの第三者、世間の視線、ラカンの用語でいうところの「大文字の他者」が両者の感情の動因となる。
この第三者は現在、社会的に実装されている。
エレベーター、コンビニエンスストア、駅のホームや高速道路などいたるところに設置されたカメラで二十四時間体制の監視が行われ、宇宙からは軍事衛星が偵察している。プライバシーの侵害として問題にされることもあるが、セキュリティの観点で概ね正当化されている。技術の向上で精度が上がり中国ではすでに顔認証システムが稼働し、買い物もできる。
見られる側に即しては、例えば店舗の営業終了後にアルバイトの店員が什器や商品で悪ふざけしている画像を投稿する「バイトテロ」のような現象が発生し、まなざしの抑圧を快楽の道具として反転、利用する事象も発生した。
こうした挙措は無数に公開されており、見ることを迫ってくる。彼らはまるで露出を強制されているかのようであり、見る者を嘲るような馴れ馴れしさ、偽の親しさ、厚かましいまでの近しさ、底の知れない気味の悪さが感じられる。
欲望の赴くままに見ているだけではない。
見たい、見ている、その先がある。見たことが忘れられない。見なければよかった。見たくない。見たくないけど見なければならない。
文明が大量の情報や快楽の道具を提供し、インターネット上に往来することによって欲望にも変位が起こっている。特にそれは見るものと見られるもの、主体・客体の関係を相対的なものへと変化させている。
受け手が同時に送り手になる可能性が開かれているためだ。技術の進展によりテキストデータや画像、動画の生成、加工はもちろん、個人が制作、公開できるようになった。一方の受け手側も変化している。素人が制作したいわば同人誌的な作品をやりとりして楽しむことに目覚め、必ずしもコンテンツの品質にこだわらない。現段階では、こうして開かれた送り手側の自由がどのような帰結をもたらすのか見通せない。
発信・受信のステイタスの変化だけでなく、デバイスの変化も大きな要素である。書籍、新聞、映画館、ラジオ受信機、テレビ受像機といった変遷を経て現在はタブレットやスマートフォンといった携帯端末に主たる領域が移りつつあり、視聴環境は映画やテレビとは異なっている。テレビが登場した際、映画になかった重要なファクターは画面と視聴者との同時性であった。さらに映画では不可能な食事をしながら、掃除をしながら、などの「ながら」視聴がテレビの特質となった。ネット時代では、これらに加え、過去のアーカイブを検索することで大量のコンテンツを瞬時に呼び出し比較視聴できる点、そして携帯性の高まりで「ながら」に代わって電車の待ち時間なども含む常時視聴が増大していることであろう。こうした環境を反映してYouTubeのような動画投稿サイトやAbemaTVのように地上波放送に擬したネット上のリニア配信などさまざまなサービスが登場した。重要なのはサービス形態の差異ではなく、いずれもが依拠しているデータ管理システムにある。
ユーザーの個人情報には履歴に基づいてさまざまなタグがつけられ、それに基づいて次に「見るべき」コンテンツが提案される。ユーザーの特性はそれまでに同じコンテンツを見た別のユーザーから類推され、さらにその提案の成否はデータベースにフィードバックされ、判断の精度を高めていく。
それと意識しないうちにテキスト、画像、音声などメディアを通じて伝播される情報に個体の意識は絡め取られチューニングされる。その速度と精度は日々改修されており、情報の伝播を示す「拡散」という用語が示している通り、分子のブラウン運動のように意図や意味を離れた自動的なプロセスとして進行している。
ベルナール・スティグレールはこうしたインターネット上の働きが社会に大きな影響を及ぼしていることから「シンクロニゼーション=意識の同期化」と呼び、それまでテレビ放送が果たしてきた大衆の社会的時計という機能の根源的な組み替えであると指摘する。
同期化されることによってユーザーは常に「欲望しろ」という強制に晒され、楽しむよう仕向けられているわけで、これこそが現代に特有の欲望のコントロールである。
かつて欲望は禁忌と結びついていた。
もっとも代表的なのは性的欲望であろう。自由な性行為は禁じられており、フロイト的な「父」、近親相姦を抑制する「超自我」など社会のシステムを維持するための権力によって封印されていた。だからこそ法を侵犯したいという欲望にエネルギーが備給され、そのプロセスとしてのセクシュアリティが成立したのだ。
ところが高度資本主義を背景として社会体質は変化した。価値観の多様化により自由度が増し、硬直化した「父」は複数に分裂してしまった。そして各自の内部に偏在するようになる。イデオロギー、法秩序等も衰退し禁止の力は薄れてしまった。結果としてセクシュアリティは機能不全に陥り新たな体制へ移行せざるを得なくなった。 ジジェクが「猥雑な父」と呼んでいる暴力的で直裁的な父が登場する。この父は欲望の同期を強要するデータの番人である。コンプライアンスなどのルールに囲われた状態で全員が数値目標によって例外なく享楽へと駆り立てられる。
3 伝達の加速
最近、電車の車内や駅で執拗に遅延の告知や理由の説明が繰り返されうんざりしている乗客も多いはずだが、この現象が示しているのは「遅れ」に対する過度な拒絶反応である。本当に「遅れて」いるのは電車ではない。乗客ひとりひとりなのである。そのことに我慢がならないのだ。追いかけているのが将来の理想なのか、失った過去なのか、あるべきだった現在なのか、その位相にはさしたる意味はない。すべては同時的にデータベースの内部で計算されているからだ。とにかく全員が自己を追求するよう強制される。好むと好まざるとにかかわらず追及し続けなければならないのだが、実は自己に追いつくことは不可能である。不思議なことに追いついたと思った瞬間、それは消えてしまうからだ。
達成すべき目標があり、さまざまな障害が発生し、それを乗り越えてハッピーエンドに至る、というような物語形式は古いものとなった。むしろなるべく複雑なプロセスは省略し目の前の対象を直裁に消費する、その達成量とスピードを競うゲームに人々は巻き込まれている。いったん走り出すと降りることは難しい。落伍者の烙印を押されるのを恐れるあまり走り続けることになる。競争の激化にともない速度は加速し、障害の克服は際限のない効率化に取って代わられる。
ポール・ヴィリリオはこの状況を速度が唯一の意味であり、速度だけが情報になった「走行光学の時代」と措定している。彼によればこれまで人類の歴史は、他者の速度をはく奪し、獲得することで進展してきた。速度の定義は遠くのものを近くにする、ということでありそのために利用してきた乗り物は、動物、鉄道や自動車、飛行機、ロケット、カメラ、映写装置などであるが、現代においては電子的情報装置(インターネット)だと述べている。ちょうど自動車の運転席からの眺めのように、デバイス上で目まぐるしく遷移する画像が最大の速度を提供する。特にメディアによって提供される画像は特殊な効果を及ぼす。それは現実からの後退だ。速度は遠方にあるものを暴力的に接近させるが、そのことがかえって現実感覚を遠ざける。映写装置や電子的情報装置はそれ自体の位置は動かないが眺めを次々に送りつけることによって主体の位置を希薄化し、後退させているというわけである。
乗り物の速度が上がると相対性理論で推測されたとおり乗客が経験する時間は遅延することが実証されている。そしてもし光速に達すれば理論上、時間は停止するはずなのである。つまり光速の世界とは時間ゼロ、距離ゼロ、世界が一体化して消滅する地点なのだ。そこに到達するまで、つまり死に至るまで、人々は自分の背中を追跡する宿命にあるというわけである。
ところがヴィリリオの指摘するように現代の乗り物が「光学」、つまり情報通信網であるならば、光と同様に電磁波である電子の伝達速度は光速であり、すでに人類はこの速度に追いついてしまっていることになる。
距離ゼロ、つまり対象に密着してしまえばもはや見ることは不可能になる。時間ゼロ、つまり認識の猶予がなければやはり見ることは不可能である。結果として、自己は内容を喪失し、残像、幻影、あるいは幽霊となっている。幽霊とは触れることができないものだ。存在を確かめることはできない。見えたと思ったら消えてしまっている。自己が自己と一致したのに手触りすらない、これは正にぞっとする状況に違いない。
焦るあまり今度は他者の手触りを確かめようとする。
電話、インターネットなどを通じてのコミュニケーションは速度と量において対面での会話をはるかに凌ぎ、選択肢の増大と効率化をもたらした。それにも係わらずこうした情報伝達手段は必ずしも人々の相互認証の支えとはなっていない。むしろ前述のインスタグラムや頻繁に交わされるメール、SNSなどが自己措定の要請を強化し、それ自体が目的となるに及んで過剰な焦燥を煽る。量と速度が増大することで内容は希薄化している。見なくてもいいものを見て、見せなくてもいいものを見せ、会話することがなくても会話する。通信状態は常に保っていなければならない。「スマホに依存している」と感じるようなスマホ依存症の自覚者は七割にも達するという調査もある(MMD研究所調べ 2021)。
消費者は瞬間ごとに新しい「今」を求めて自己を脱ぎ捨て着替える。つまり自己とは「今」なのである。内容ではなく形式であり、内容は都度入れ替えられていく。
ここで問題となるのは新品を購入するためには同時にこれまで使用していたものを処分する必要があることだ。実は往々にして買うことよりも捨てることの方が難しい。かつて公認会計士の書いた「捨てる! 技術」という本が大ベストセラーになったことからもわかるように、猛スピードで判断を下すためには、それなりの知性が要求される。
速度に不適応な人間は例えば「ゴミ屋敷」の住人となる。彼らは捨てることができない。モノに対する過度な執着は、潔癖症と同じく異常と診断され病人扱いされる。しかし、速度に適応している健常者の方がよほど異常だという見方もできなくはない。
ゴミ屋敷の主人は自分から「所有」が切り離されることを拒絶しているのだ。主体性を維持するために必要な最後の一線としてどこまでも所有にこだわっている。大切なのは所有されているものの価値ではない。所有という行為自体であり、方法として不適切であるにしても彼はあくまでも古典的な主体を維持しようとしている。他人にはゴミと見える品物も主体・客体関係の対象であり、つまりは主体を支えている基盤なのである。ゴミ屋敷の主人たちは往々にして社会から孤立している。彼らは職場や家庭といった人間関係が希薄であり、疎外されている。時間の経過と共にそれらは破壊されてしまった。どこにも拠って立つ場がない。だから辛うじてモノたち(ゴミ)との共棲を継続しているのである。
万が一ゴミを強制的に捨てられれば彼らの自己は崩落する。
スピードに対応しつつ、捨てる・捨てないの煩悶を避けたいのであれば、最初から購入しなければいい。所有ではなく「借用する」のが解決策となる。こうした生き方を選ぶ人間は、二輪車に乗っているかのように速度の維持を重視する。ゴミ屋敷の主人とは逆に速度こそ主体の維持に必要なのである。止まった瞬間、彼はバランスを逸失し転倒してしまうからだ。
走り続けること。追いつかれないように常に加速していることが必須である。
4 没入
ノルウェーの国営放送局NRKが2015年に放送を開始したテレビドラマ『スカム』は現地で話題となり多数の賞に輝いたほか、欧米各国でリメイクされた。十代の少年少女の赤裸々な日常で、同性愛や人種・宗教問題、アルコールやドラッグとの関わりから恐喝や強姦までも描き共感を得た。ネット上にはこのドラマに対する視聴者の書き込みがあふれ、瞬く間に拡散されたという。スカムとは「恥」という意味だが、厳しい現実に翻弄される若者たちの青春群像がまるで自分のことのように感じられる、ということで若者に支持されたらしい。
斬新なのはドラマの内容ではなくその発信方法である。ネット上に配信される短い映像や、SNSに書き込まれる劇中人物のやり取り、インスタグラムに投稿される写真などがリアルタイムに展開し、あたかも身近にドラマの主人公が実在し、暮らしているかのような錯覚を感じられるよう演出が凝らされていた。さらにサイト上へのユーザーの書き込みがドラマの進行、演出にフィードバックされるケースもあったという。テレビは週に一回、二十分程度の短いものが「まとめ」として後追いで放送されるに過ぎない。ここで映画は二時間、テレビドラマは一時間というような標準的な形式は破壊されている。ストーリーではなく断片と化したネット上のコンテンツをユーザーが自由に組み立てるのである。動画配信は隙間時間の視聴が多いため、平均連続再生時間は十五分から二十分程度とされており、その状況に対応した結果である。
NRKの意図は、テレビ離れが激しい若者をつなぎ止めるための、放送とネットを融合した新しい形式の模索であったが、その意味で見事に成功を収めた。この作品は劇場や映画館、テレビがそうであるように窓(舞台・スクリーン・液晶画面)から第三者的にのぞかれるものではなく、自らがその中に立っている時空で起こっているかのように制作されている。
いわゆる動画に限らず、エンタテインメントの世界ではこのように作り手(見せる側)と受け手(見る側)の立ち位置が根本的に変わりつつある。ネット上では既存の画像がユーザーの書き込みによって「汚されて」いる様は容易に観察できる。画像を提供する側も著作権侵害を訴えることは少ない。マンガの同人誌から始まったコンテンツのこのような楽しみ方は「二次創作」と呼ばれ、ビジネス上もメリットがあるとされている。年二回、お台場で開かれるコミックマーケットと呼ばれるイベントには五十九万もの人々が世界中から押しかけ、こうした二次創作物を販売、購入、交換し合っている。
ユーザーはこうした場にのめりこんでいく。
インスタグラムによる画像の頒布も同様である。全世界で五億人以上が利用しているこの写真共有アプリケーションでは、投稿した写真で「いいね!」と喝采を浴びるために命がけの撮影に挑む者もいる。彼らにとって画像はただの視覚像ではない。画像は自己の存在理由であり、自己そのものであり、自己以上かもしれない。現象があり、画像がその表象として二次的に生み出されるとは限らないし、主体としての自己が客体としての対象を撮影しているわけでもない。画像自体が現象であり、画像が現象の存在理由なのである。
メルロ=ポンティは、
「見る者と見られる物体の間にある〈肉〉の厚みが、見る者の身体性を構成すると同時に、見られる事物の可視的を構成する。この厚みは見る者と見られる事物の間の障害物ではなく、その交通の手段である」1)
と述べている。可視性は肉に依拠し、またそこに相互性があることも主張しこうした関係をキアスム(絡み合い)と呼んだ 。見ることは見られたものに見られることであり、触ることは同時に触られたものから触られることでもある。
この場合の〈肉〉とは単なる物体ではなく常に環境と相互的に生成変化している状況を指している。モノではなくコトである。これが音楽や絵画と言った芸術の受容から例示される。例えばセザンヌの絵画は、
「生まれつつある秩序、現れつつあるオブジェ、わたしたちの目の前で集まろうとしているオブジェの印象を作り出すことにある」2)
と説明される。主体に対して定立した対象がカンバス上に描かれているのではなく、見る作用が働いている場を含めて、遠近法に疑義を呈しながらも、その生成を静止したカンバス上で表現しようとのぎりぎりの試みなのである。
「人間が立っている非人間的な自然の土台をあらわにする。セザンヌが描く人物が見慣れない印象を与え、人間とは異なる種の生き物が見た人物のように見えるのはそのためである」3)
ロラン・バルトが写真について述べているのも写真による事実の再現性ではなく、写真が捉えた現象としての神秘についてである。
「消滅してしまった存在の写真は、あたかもある星から遅れてやってくる光のように、わたしに触れにやって来るのだ。 ・・・ 私にとって重要なのは、撮影された肉体が、つけ足しの光によってではなく、その本来の光線によって私に触れにやって来る、という確かな事実なのである」4)
つまりすでにいない誰かが写っている写真は、その人物を照らしていた光の痕跡であり、その光が今、写真を見ている自分のところにまで届けられている。画像が本人の姿を正確に記録しているとか記憶を呼び覚ますということ以上にそのことが重要なのだ。形象をなぞる表象ではなく、そこにあったということ、現前性が彼を感動させている。
日常、「見ること」はなんらかの必要性、場や状況のコンテクストに制限されているが、そのことは忘れられている。というのも視覚を含む感覚は一般に多様な外界からある要素を抽出し単純化するものであり、いわば多から一をとる作用だからである。生きていく上で必須な情報のみを得るための必然である。得られた情報を知識として集積することもできる。しかしすべてが把握できるわけではなく、あくまで相対的なものに過ぎない。ところが人間は文字を発明し書物に代表される外部記録装置にこうした知識を固定し、いつしか学問や技術といった文化的産物をあたかも実在そのものの図式と取り違え、過大に評価するようになった。
背景にはキリスト教文明の基礎となる一神教の図式がある。
神は一人。真理は一つ。善や美についても至高の正解を一つに定めようとする。しかし現実は常に多様で結論を一つに絞ることができるとは限らない。しかも状況は常に変化している。ユダヤ教に発する一神教的な思想は、多様性の背後にただ一つの普遍的かつ不変な真理=神を仮定する。そのことによって現実を把握する効率は上がり独断的に物事を決められる。それが一神教の強さであり西洋文明が世界中を席巻した理由でもある。日本も例外ではない。わたしたちは子供のころから学校の授業で原則的に単一の「正解」を強要され、その極みがマークシート方式の試験である。しかし、例えば量子力学の検証が確率的なものとしか定められないことで示しているように、こうしたドグマはすでに受け入れられない。
多を多のままに感覚することはできないのか?
おそらくそれが〈肉〉なのである。
宇宙全体は常に拡散傾向にあり、一から多へと進む過程である。
浜辺に作った砂の城がいつか波にさらわれるように、構築物はどんなに堅固なものであれ喪失は免れない。それでも繰り返し作り直すのが生物の特性であり、人間の文明も同様である。
西洋文明が依拠してきた主体が崩れつつあり、あらゆる思想にしみついている人間中心主義、あるいはすべてが人間の認識と結びついて判断される相関主義を離脱すべくして新実在論が勃興している背景にはこうした状況がある。
人間が認識しなくても、あるいは人間がいなくてもものは存在している。新実在論の提唱者の一人マルクス・ガブリエルは「なぜ世界は存在しないのか」という挑発的なタイトルでこのことを示した。「世界」は一つの総体としては存在しない。それは人間が「多」の現実から生み出した概念に過ぎないからだ。しかしそれ以外のものはすべて存在している、と。
まるでこうした意見を論証するためであるかのように現在、世界中に大量に配置された監視カメラは二十四時間体制で自動的に撮影、録画を遂行している。映像は自動的に解析され、いずれ人工知能がさまざまなデータを自律的に判断するようになるだろう。見ることは人間の特権ではないし、人間的な主体が視覚の前提でもない。こうした推測を疑うにしても、疑う基盤としてのデカルト的な主体や理性が先に存在しているというわけではない。まなざしはバラバラであり相対的である。
この観点で立ち返ると、「表象」という近代的な主体と客体の関係を司るはずの写真や映画などのメディアもその本質においては必ずしも対象を客観的に描写する道具ではないことがわかる。
3D映画やハイビジョンテレビといったメディア技術によるリアリティの増大は、対象の精密な描像を目的としたものではなくむしろ観客・視聴者にそれが画像であることを忘れさせるよう働きかけることに力点を置いている。すでに近代的な主体がそこにはいないことを映像のリアリティが覆い隠している。こうしたメディア装置には近代的な認識の枠組み、主体による客体の表象とは異なる機能がある。初期の写真や映画に接した観客のリアクションも驚きであった。現実の模写ではなく、新しい現実の登場だったのである。
それはある種の幻影、ファンタスムである。
存在しないものが映し出されるのが幻視だが、映画も幻視である。ヴィリリオによれば技術の本質は速度であり、映画の特性は一秒間に二十四コマという映写方式にある。原理はパラパラ漫画と同じで二十四枚の静止画が一秒間という短い時間に投影されるため、あたかも動いているかのように錯視されるわけである。網膜上の残像効果が動画に見える条件である。つまり映画のスクリーンは実は映画館にあるのではなく観客一人一人の網膜だというわけである。
書物、絵画、彫刻、写真といった媒材は手で触れることもできるし物体としてはっきりと存在している。しかし映画にいたって映像は支持体を失い、人間の網膜に現れるファンタスムとなったのだ。主体に対して客体が立てられているわけではない。画面・スクリーンもない。あえて言えば網膜がスクリーンなのである。
この状況をさらに進展させようとしているのが前述のVRである。ゴーグルをかけ、手袋状の装置に腕を入れ、椅子や台のような形状の機器に乗って仮想空間を経験する際、スクリーンに該当するのは肉=身体なのである。外部に支持体があるのではなく、自らの身体が支持体なのである。つまり、ファンタスム、現象を存在させているのは自分自身なのである。
このことは日常生活の中で「まるで映画みたいだった」という表現が多用されるようになったことからもうかがえる。湾岸戦争、9・11、東日本大震災のような大事件、災害に際して、その映像のスペクタクル性がハリウッド映画を思わせることから、現実が映画のようなファンタスムになってしまった、あるいは現実はもはや虚構を超えている、というような評論が多くなされてきた。ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込む様子は全世界に即時に配信され衝撃を与えた。そのことによって人々の現実に対する感覚に変化が萌していることは間違いないだろう。むしろ現実のほうがスペクタクルに迎合している。朝鮮中央テレビが映し出す極彩色の軍事パレードはまるでアニメ映画のようにのっぺりとしているし、プーチン大統領が着座する長大なテーブルは芝居がかって見える。本物らしさ、リアリティは希薄だがこれはまぎれもない現実なのである。
重要なのはテロリストたちが犯行計画に当たって映画を参考にしていたとか、反対に事件が映像制作に影響を及ぼしたとか、現実とフィクションの境界があいまいになったのかどうか、というような議論ではない。
常にこうした映像、ファンタスムが参照されるようになっている状況が現実なのだ。
テレビ放送が全盛期だった千九百七十年代、ネッシー、超能力、UFOと宇宙人、雪男などの怪異現象がたびたび取り上げられ高視聴率を稼いでいた。その頃、画面に映し出されていた映像はあくまでも「対象」だった。不思議な出来事の証拠として、物語的に提示されたものだった。
これらと比べれば、現代のファンタスムが持つ没入性が明らかになる。
福島第一原子力発電所が爆発する映像が戦慄をもたらしたのは決して爆発のすさまじさのためではない。放射能という目に見えない危険物が知らない間に身体に影響を及ぼすかもしれない、という否みがたい臨場感のためである。視聴者は外部から眺めているのではない。そこに立ち会っているのである。それも自ら望んで。映像を見るだけではなく、映像に映され、あるいは映されていることを意識し、そのことによって現実感覚を維持しているのだ。
携帯電話依存症が多いことも同様に説明できる。
まず主体があって客体を立て、認証するのではない。むしろファンタスムの内部に没入し、そこで見ると同時に見られるという相互的関係性によって主体が成立するのである。
そしてそのために重要なのは常に変化している状況に対応して速度を調整すること、同期化することである。周波数がずれていればなにも見えない。これが幻影=ファンタスムの特性である。こうした幻視としての「見ること」への没入からは逃れられない。それは「見られること」と同時的であり、しかも恣意的に対象を認識する以上の機能がそこでは動いている。
二千十六年に流行したポケモンGOはこうした状況を反映したゲームである。それまでのゲーム機の歴史はプレーヤーの利便性を高める方向に働いていた。当初は機器が設置されている店舗に出かける必要があった。それが次第に小型化し、家庭のテレビに接続する形式、電池で駆動し持ち歩くポータブル、さらには携帯電話に搭載されいつでもどこでも遊べるようになったが、あくまでもプレーヤーの側が遊んでいる主体であり、身体の位置に関して主導権を持っていた。ところがポケモンGOではプレーヤーは特定の場所に出かけなければならなくなった。プレーヤーの身体を動かしているのはゲームのほうである。ゲームが人を遊ばせているのである。
AR(Augmnted Reality 拡張現実)と呼ばれ現実環境の一部をCGなどの映像技術の力を借りて改変する。プレーヤーは携帯電話を手にポケモンを探すことになる。ゲームが参照しているのはGPSデータで、店舗や寺社など現実の場所に関連したモンスターが仕込まれており、ARモードでは景色の中にモンスターが現れるさまを見ることができる。データは固定されているわけではなく常に変化が施されているため、プレーヤーは絶えず追跡しなければならない。必死になって動き回り視覚の構築に参加するのだ。このときプレーヤーは物理的現実において動いているが、彼らの身体は仮想現実に没入している。
5 憑依
近い将来、自動運転の実現により、自動車は文字通り「自動」、つまり運転者のいない状態で走るようになるだろう。このとき車の前方を注視しているのはカメラであり、画像はデータサーバーに送られて人工知能が見ているわけである。
ホテルの受付嬢やペットに採用され始めたロボットも同様で、眼球に埋め込まれているレンズから送られた画像データを人工知能が処理し人間への応対を指示する。アマゾン・エコーやグーグル・ネストのような家庭用音声・画像認知装置が進化すれば、いずれ家全体が有能な執事ロボットとなって利便性が高まる半面、家族全員の会話はもちろん、一挙手一投足すべてがクラウド上のデータサーバーに送られ、年齢、性別、職業などの個人情報から食べ物の嗜好や睡眠時間、健康状態、交友関係や悩み事まであらゆる情報が把握されることとなるだろう。
そこにいるのは人間ではない。あくまでも機械である。いや、正確には主体的な「機械」がいるわけですらない。それにもかかわらずなんともいえない不気味さ、居心地悪さを感じないだろうか。人工知能に「あなたにおすすめの商品です」と示されたとき、それを拒絶できるだろうか。「これが好きなはずです」「こんなものもあります」「これが人気となっています」「あなたに似た人はこれを買っています」など好みを判断するのは膨大な情報を瞬時に計算できるデータサーバーの役割になってしまい、意志の所在は曖昧になってくる。誰が決めているのか、誰の好みなのか、本当に自分の好みなのか。いや、そもそも自分はどういう人間なのか。
主導権が奪われてしまうのではないか、という疑問が生ずるのも当然だ。主体に対する侵害が原因なのだ。古来、メディアの影響は人々の意識を同期化し、コントロールしてきた。言語に始まり、書物、新聞、レコード、映画、ラジオ、テレビ、そしてインターネットと媒体や速度は進展しており、こうした外部要因とまったく連携しない純粋な主体性など存在しない。しかしながらあらゆる権威が喪失し、速度との同調のみが強要される中で意識を束ねる力が弱体化しているのは事実だ。
引き裂かれた主体は多重人格の様相を示すのか。それともデータベース上のアバターとなって新たな自己を形成するのか。少なくとも大量に行き交っているSNS上のコミュニケーションでは主体性のあり方が情報の力学によって変化しているのがうかがえる。記号に置き換えられることによって他者は戦略的な仮面を被り、相手の内側へ侵入しようとする。短い文言でやり取りされるメッセージにはゲームのようなテクニック性が感じられ、あっという間に勝敗が決してしまう。
写真に撮られることで魂を失うかもしれない、と考えた明治の人々と同じように、猛スピードで進行しつつある技術革新にわれわれも不安を抱いている。いずれAI(人工知能)が人間を凌駕し、私たちを支配するのではないのか。こんな不安が主体を逃避へ駆り立てる。
では今、わたしたちが初めて映画を見て驚いた人々のように逃げ出そうとしている場所はどこなのか。そこにたむろしている幽霊の正体はなんなのか。まだ判然とはしない。しかし単純にこれを厄払いすればいいというものでもない。逃避するためにすべての電子回路を遮断したとしても以前の状況に戻ることはできない。深山にこもり、仙人のような生活をしたとしても、一度は接続されてしまった以上、ファンタスムから逃れることはできないのだ。試しにいつもつけっ放しになっているテレビや携帯電話のスイッチを切ってみればわかる。そのほうがはるかに怖いはずだ。
データベースとの常時接続がもたらすのは情報の流入だけではなく吸い出しの面もある。スティグレールはパピルスに始まる記録の歴史を外在化と捉えている。人は記憶を保持するために外部の媒材を利用し、これらが共時的かつ通時的に、つまりは世界的に世代間の知識の継承をも可能にして文化の発展に寄与してきたのは事実だ。
書籍がフィルムやレコードとなり、蓄積した量が膨大になるにつれ、これらを整理することは大きな課題となった。さらにはデータとして圧縮され、保管されるに及んで個人の把握能力をはるかに凌ぐ。かつては例えば図書館や古書店で棚の間を巡りながら自分の望む資料を探すのが通常であった。また回遊中に、想定とは異なるタイトルに出会いそこからインスピレーションが湧くこともあったろう。案内人として司書や書籍商もおり、専門的な知識で迷った折には助けてくれたはずだ。現在、その役割を果たすのはさまざまな階層で働いているプログラムであり、検索エンジンやECサイトのアルゴリズムである。ユーザーに合わせ人工知能がお勧めの情報をピックアップしてくれる。さもなくば朝から晩まで押し寄せて来る情報の大海に溺れてしまう。
情報過多は昨日今日に始まったことではないが、スティグレールの指摘する外在化とヴィリリオの言うような加速により、さらにはメディアの多様化による伝送系統の輻輳もあり、人々は情報漬けとなっている。情報なしの状態には耐えられない中毒症状すら呈している。
考えている暇はない。選択する暇さえ惜しむのだから。
個人はちょうどレコードプレーヤーのように、アーカイブから取り出されたデータを再生するデバイスとなってしまった。いわば自分自身からの疎外である。しかも自己は日々奪われ続けている。行動も意識内容もデータとして吸い上げられ、フィードバックされる。そのどこからどこまでが固有なのかはっきりしない。
この状況をスティグレールは「象徴の貧困」と呼んでいる。
象徴とは、あるものを別のもので表すことであり、異なるもの同士を結び付けたり切り離したりする際には想像力を働かせねばならない。デジタル化によりすべてが一対一対応で切り分けられてしまうと新しい組み合わせを生み出すのが困難となり、創造的な作用が衰退してしまうということになる。ストラテジックマーケティングに乗せられて流行の商品を追い求める消費者はいわばデータの操り人形である。
その際、選択の基準となるのは強度である。
より強い刺激を求めて生きるしかない。自動運転車や受付ロボットと同じデータ・ドリブン、これはある種の憑依である。
このような憑きものが付け入る隙を与えているのは近代的モダニズムの終焉とポストモダニズムの相関主義である。
プラトンのイデアやキリスト教の三位一体のように絶対的な普遍性を備えた理想的世界の措定、永久に静止し真理と美と善が一致した超越的な理念が西洋の歴史において主軸を支えてきた。不可視の理念を可視化することが芸術の役割であり、アリストテレス以来のミメーシス、模倣が技法の基礎となる。現実は不完全だが漸近線のように少しずつ高まっていく、これが古典美学の枢要である。そのために必要な調和と均整が貴ばれ、規律が定められさまざまな技法が編み出される。
神話的なもの、聖なるものに代わって科学と技術が支配する現代においてこうした外部支点は失われている。学問としての科学は現実を離れることはないし、道徳的、美的価値を定めることはできない。「神の死」を持ち出すまでもなく超越者は不在となり、物語の喪失が言われて久しい。崇高の理念はやがて恐ろしいもの、おぞましいもの、アイロニーなどに変遷した。それでも「意味づけ」をやめることはできない。
外部が喪失した環境でわたしたちは自ら価値を生み出さなければならない。価値とは他との差異であるから差異を産む仕掛けが必要となる。まず始まったのは破壊である。これまで作られてきたのを壊す。そのことに新しさがあり、差異が生ずる。
既存の文化体系が倒壊した後、価値の探索がひたすら内部に循環する過程で、空虚なリフレインが繰り広げられる。内容はもはや問題ではなく、形式がもたらす刺激だけが辛うじて残された生き延びる方法なのである。強弱の刺激だけが差異として生き延びている。表面的な変異や速度の変更、リズムなど限られた策略が電気的、あるいは電子的な様々な技術を駆動しながら生み出すスペクタクルが現代の産物である。
要求されるのはより強く、より激しく、ということであり、麻薬中毒にも似て、この状態は持続できない。反復により感覚は鈍化し、刺激はますます強化される。そのことがわかっていても逃れることはできない。破滅するまで突っ走るしかない。
刺激のコントロールに個人がうまく対処できなければ外部のサービスが代行してくれる。それも心地よいフレーズをまとって。ある時はお得、簡単、無料、最速などサービスのうたい文句として。またはスキルアップ、資格取得、ランク付与など承認欲求をくすぐるオプションで。さらには弱者救済、環境配慮、文化の多様性など道徳的な仮面を装って。
個人はもはや一人一人が「キャラクター」である。あんぱんマンにドラえもん、ポケモンにスーパーマリオといった日本が得意とするビジネスだ。実在するアイドルやタレント、俳優、歌手などのいわゆるセレブ、有名人に自らを擬することも同じである。さらにはそうした人々のファンとなり彼らを応援する「推し」と呼ばれる活動をアイディンテティとする者もいる。ともかくこうしたキャラクターは自律の必要がない。キャラクター、つまり性格が定まっているわけだからコンテンツ内で定められた役割とルールに従いゲームをプレイすればいい。当然、技術の習熟度により優劣はあるし、勝ち負けも発生する。それでもクリエイションは必要ない。対策は常に選択肢として与えられる。行き詰まった場合の展開は自動的に割り振られる。ゲームオーバーとなるまでは。
死を迎えた際に初めて人は自己に追いつく。
このことは古来、さほど変わらない。「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことは夢のまた夢」と辞世の句を詠んだのは豊臣秀吉であるが、いかなる行路を歩んでも死は避けられず、一人で向き合わねばならない。ただ少なくとも秀吉には、夢のようだったとしても「浪速のこと」があった。ゲームオーバーとなったキャラクターには獲得ポイントのランキングくらいしかない。
もし道が間違っているのなら早めにリセットしたほうが害は少ないはずだ。それでも人々は現状維持を選ぶ。そのほうが楽だからだ。まだ大丈夫だろう、と考える。リセットするとそれまでの成果も喪失することになる。自らが被る損害を想像するとゲームはやめられない。いずれなんとかなるだろう、と日を過ごす。放置すれば破綻が訪れることは薄々知りながらも不都合な真実からは目を逸らす。よく引用される茹でガエルの譬えがある。
熱い湯にカエルを入れればたちまち飛び出すが、ぬるま湯につけたまま少しずつ温度を上げると飛び出すタイミングを逸し、熱さに耐えがたくなって脱出しようとした際にはもはやその体力もなく茹ってしまう、というものだ。
地球温暖化による気候変動、新型コロナウイルスの世界的な感染、ウクライナやガザの戦争、資源や食糧価格の高騰とインフレの進展、為替変動と株価の乱高下、世界各地の暴動。日本では少子高齢化、財政赤字、国際的競争力の低下、円安の進行と格差の拡大に至るまで想像を超えた速度と範囲で事態は進展しつつある。
じわじわと湯の温度は上がっているのではないか。今こそ、飛び出す瞬間だとしたらいったいどのような方途があるのであろう? 覚醒するための処方が必要である。
際限なく増大する情報
変化の加速と同期
保管場所の外在化
没入
刺激追及のエスカレーション
気づかないうちにわたしたちはこうした先行きの困難な隘路に踏み込んでいるようだ。とり憑いている情報の連鎖をすべて祓うことは不可能である。また一概に憑きものを否定するべきでもないだろう。平野の「分人」説が示すように社会的に不可避な形態となっている面もある。ただし没入をコントロールする余地を残すことは必要であろう。真面目な態度ほど危険であるが危険度を客観的に判断する基準はない。憑きものを落とす単純で万能、かつ便利なまじないはないということである。
従って批評機能としてある種の美学を要請する必要が生ずる。
ここで言う美学とは、芸術的な「美」を対象とするのではなく、バウムガルデンの原義の通り、広く感性の学であり、合理的判断のみではない思索も含む営みである。芸術学の哲学の前に哲学の芸術学が必要だ、と言ったのは美学者のエチエンヌ・スリヨであるが、価値基準をも左右する態度のことである。
6 アナロジーという方途
美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない
とはよく知られた小林秀雄の一説である。観念のまやかしを指摘したととれる。あたかも「美」が実体として存在し、それが世阿弥の教えである「花」と一致するかの考え方を告発したのだ。むしろ逆に考えなければいけない。
秘すれば花。
世阿弥の言葉を小林は彼らしい諧謔をこめて繰り返したのであろう。花は秘することによって花になる、つまり美しさを獲得するのである。「美」は花の外に存在しているわけではない。美に限らず、真実、善、あるいは花でも良いがこうした概念は変化せずに固定された名辞としていわば普遍的に用いられる。これらはあくまでもヴァーチャルな存在であり、言語活動に伴って措定された恣意的な体系であり、必ずしも現実と一致しない。個物、つまりは現実のすべてをそこに還元することはできない。科学万能主義の現代では、往々にしてこのことを等閑に付し、あたかもどんな現象でも説明できると考えがちである。科学が説明できるのはほんの一部の、ほんの一面の因果であり、そのつど発生する価値が複雑に絡み合った出来事を解きほぐすことなどできようはずもない。
個物は常に謎である。
全体を把握することはできない。なぜなら捕まえたと思った瞬間につるりと逃げられてしまうからである。繰り返しになるが「世界は存在しない」とマルクス・カブリエルが主張するのもこうした意味であろう。世界と呼べるような一般者は観念上の仮説に過ぎないということであり、存在しているのは個物なのである。存在は名詞ではなく常に変化が絶えない動詞としてのみありえるのであって、静止した物体はなくすべては現象、関係であり、日本語の言いまわしを用いれば「モノ」ではなく「コト」である。
例えば生命については動きが止まることが死を意味する。生きているとは恒常性を保つことであり「動的平衡」と呼ばれる。代謝作用で必要な要素を取り入れ、不要となった廃棄物を排出することで生体を維持している。ミクロのレベルまで降りて行けば生体に限らず、素粒子ですら固定した「粒」ではなくなにがしかの変動要素であると量子力学により解明されつつある。
奇しくも仏教の縁起説に近い。
無数の因果が複雑に絡み合い、互いに影響を及ぼし合っているため、完全な把握はできない。部分的に解明できたとしても「風が吹けば桶屋が儲かる」式の恣意的な言説とは度合いの違いがあるだけである。
もちろんだからと言って概念を放棄してしまえば際限のない混沌が生ずるだけであり、肝要なのは限界を意識しつつ概念と言語を使用し思考することである。すなわちソクラテスが言う「無知の知」である。言葉は真実を言い当てられない。しかし近似的に示すことはできる。謎を、つまりは外部に超越した存在を追い続けることのみが誠意ある選択肢なのである。
近代的社会システムはこうした超越を慎重に排除する。
例えばその一つが死である。死者は葬儀によって生から遠ざけられ墓碑として固定される。他人の死は情報の一つに過ぎない。死そのものは極力日常から排除され目に触れないところに隠匿される。死と結びついていた宗教も衰退の一途を辿っている。
地方では寺院の荒廃が伝えられている。現代人が神、仏を信じないわけではない。ただそうした超越的な存在を身近なものとして共有する公の機会が減少しているのである。歴史的には日本人は生者だけではなく死者を社会の一部として親密に感じていたという指摘がある5)。神仏、先祖、そして集落を取り囲む自然、とりわけ動植物は仲間であった。キツネ憑き、などで分かるとおり憑きものもそうした異界に接した者の姿と言えよう。
衰えたとはいえ神の存在は尚、消滅したわけではなく人々は正月に参詣し、地鎮祭を行い、戸口に魔除けの札を貼る。科学的には説明がつかなくとも効力があると感じているからだ。ことさら日本の神は西洋のように個人が対峙する絶対的存在ではなくコミュニティの成員が共同で奉る公のものであり、社会の緩衝材としても重要な役割を果たしていた。
近代的ヒューマニズム、人間中心主義がこうした価値観を転換し、生活は合理化して豊かになった一方、徹底的な現世主義が彼岸を切り離し死は暗黒の闇へ葬り去られた。弔いが済めば死者は消え、家族の紐帯を強める作用をもたらす先祖も次第に忘れられて墓地は放置される。
しかし失われた外部、すなわち超越を取り戻そうとする力動はマグマのようにたまっている。例として新興宗教があり、オウム真理教は最も極端な例である。伝統的な宗教に科学的知見を接木しようとして失敗、教理を裏付けるために無謀な犯罪を繰り返した。スピリチュアルや精神世界と称されるようなジャンルに携わる者たちもなんとか新しい超越を生み出そうと試みる。
ペットやゆるキャラのブームも同根である。
例えば奈良県の公式キャラクター「せんとくん」は鹿の角をいただいた大仏を模っている。両者が奈良市を代表する観光資源であることに異論はないが、キメラを思わせる奇妙な外見であり「かわいい」という形容詞からはほど遠いことも事実である。毎年、開催される「ゆるキャラグランプリ」に出場している多くのキャラクターは多かれ少なかれこのように古色蒼然とした象徴作用による異様な相貌であり、喪われた超越を回復することの難しさを告げているとも考えられる。
古い皮袋に新しい酒を盛ることだけでは両者を喪う結果になる。合理主義によっていったん排除され消えた超越的価値を復権させるに、非合理的な信仰や暴力をもってするのは退行でしかない。いかにして破壊的な結果を招かずに外部に接するか。怪しいもの、異なるもの、不可解なものを一概に排除するのではなく、はたまた誤った形で概念化することなく接するのはどのように可能なのか。
現実的な解の候補としてアナロジーがある。
ゆるキャラブームは一段落したが、日本人のキャラクター好きは変わらない。市場規模は二兆五千億円とも言われる。また、マンガやアニメに関連したキャラクター商品は世界に展開している。
斉藤環は欧米のキャラクターと日本のキャラクターを対比しそれぞれ隠喩的・換喩的と位置づけている6)。隠喩的とは人間の似姿と言うことで、ミッキーマウスに代表されるように、感情表現が豊かで物語の主人公として活躍する存在である。一方、換喩的とはそれとは対照的に、自己主張しないでそばにいるだけの存在である。斉藤はキティちゃんに口がないことを指摘している。しゃべる必要はないし、しゃべらないほうがいいのである。こうしたキャラクターはヒーロー、ヒロインでもなく、ただ安心させてくれる存在で日常的世界においていつも癒してくれる。
超越が見えなくなった結果、まるで逆襲するかのように現れた「ゆるキャラ」はまさにこうした換喩的キャラクターである。彼らは概ね冒険物語の主役ではない。その主たる居場所はアニメーションや動画でなく、Tシャツ、タオル、鞄など身につけるものや弁当箱、携帯電話のストラップ、文房具といった日用品である。なぜならキャラクター商品は神仏やご先祖様の役割を肩代わりしているのであり、お守りとして常に持ち主によりそうことが求められているからだ。
海外でも自治体や都市がマスコットを持つことはあるし、それぞれ草花、動物などをマークとして掲げることはある。しかし「ゆるキャラ」のようなデフォルメされたキャラクターが競われるという事態は日本独自のものであろう。そこにはこうした文化的背景がある。
百花繚乱ともいえる「ゆるキャラ」以外にも大量のキャラクターが存在していることは秋葉原に出かければわかる。日本の二次元アニメが世界的に評価されていることはよく知られているが、元々電気部品の問屋が集積していた秋葉原がオタクの街に変貌した結果、そこに集合しているのはアニメに留まらず、ゲームソフト、フィギュア、鉄道模型など多様なジャンルの店舗である。
ショーケースに飾られている品々を眺めているとジャンルが異なっても共通の傾向があることに気がつく。表象操作としての、縮小、再現である。
縮小作用にはある種の解釈が伴い、これこそ日本文化の特性であるという説もある7)。大陸から渡来した文化を咀嚼する過程で生ずる、込める、折りたたむ、削る、詰める、構える、凝らせるなどの手法をあげている。ミニチュアについて三島由紀夫の「金閣寺」では下記のように描写される。
私はまづ硝子のケースに納められた巧緻な金閣の模型を観た。この模型は私の気に入った。このほうがむしろ、私の夢見みてゐた金閣に近かった。そして大きな金閣の内部にこんなそつくりそのままの小さな金閣が納まつてゐるさまは、大宇宙の中に小宇宙が存在するやうな、無限の照応を思わせた。はじめて私は夢みることができた。この模型よりさらに小さい、しかも完全な金閣と、本物の金閣よりも無限に大きい、ほとんど世界を包むやうな金閣とを。
この照応関係は仏教、ことに華厳の本義であろう。
インドに発した仏教は中国を経て日本に伝わり、ギリシャ彫刻の影響を受けたとも言われる仏像も百年単位の歳月をかけて渡ってきた。古仏として薬師寺の三尊像を持ち出すべきであろうか。あるいは中宮寺の観音だろうか。ともかく千年以上の歳月を経た今でも多くの仏像が寺院に祭られている。インドや中国はもちろん、他の仏教国でもこれほど多量の仏像彫刻が保管されている場所はない。
仏像は信仰の対象であるが、同時に彼岸への憧憬も表現していた。典型的なのは宇治の平等院である。鳳凰堂を中心に浄土を模した庭園が造営され、寺院全体が阿弥陀曼荼羅をなしていると解釈される。また東寺の羯磨曼荼羅のように大日如来以下、多数の仏像の配置が宇宙の構造を表しているものもある。
曼荼羅を日本に持ち込んだのは空海である。
通例、複数の図版にたくさんの仏が描かれ、複雑な要素を代表している。聖俗を結び、結界を作る。全体と部分の関係、教義の内容と進展の方向などを視覚的に察知させることを目的としたと思われる。必ずしも正解が描かれているわけではない。解釈によって思索を深めていくこともできる。大量の経典、加持祈祷、法具など密教は五感に訴えかけるありとあらゆる仕掛けを動員して衒学的な従来の仏教に対抗した。中国で学んだ空海が余すことなく次々に繰り出したスペクタクルに当時の人々は圧倒されただろう。曼荼羅もそうした布教ツールの一つだと考えるべきである。これは密教の特徴であり、仏をある種のキャラクターとしていかし、図像や彫像によってアナロジーとして世界を表現する。
秋葉原のショーケースでLEDの白い光に照らされて整然と並べられたキャラクターたちは一見、まったく無機質かつ歴史的文脈とは離れているが、縮約と照応という伝統が背景として存している。フィギュアだけではない。ヴァーチャルな世界に跋扈しているアニメーションやゲームのキャラクターたちが日々、編み出している無数の図像も姿を変えた現代の曼荼羅ではないのか、と思えてくる。それどころかあらゆる商品に記載されているマーク、ブランド、ロゴなども似た存在である。
縮約や配置を始めとするアナロジー。
これは現代に特有のものではない。
7 ずらしの作法
神話とは記号体系であるとロラン・バルトは述べている8)。神話はメタ言語的に作用し、語られる内容ではなく、記述そのものがシニフィアンとして対象となる二重構造になっている。ここで働くシニフィエ(意味すること)は言外にあり時に命令や呼びかけの性格を帯びる。
神話=物語では単なる等価な記号に過ぎないことがいかにも自然発生的な出来事に見えるように仕組まれ、人々はそこに事実を重ね合わせて読む。宇宙創生の秘密や神々の愛と葛藤、そして人間への教訓がまことしやかに語られる。
詩や文学の一部はこれに逆行する。神話が言語を盗用していることを暴露し、シニフィアンとシニフィエの乖離、つまりは表象作用の限界を突き詰めつつ対象に戻ろうとする。
例えば俳句では、
糸切れて雲となりぬる凧(いかのぼり)
糸切れて空より落つる凧(いかのぼり)
は悪例として説明される。凧が雲になるわけはないし、凧が落ちた、という事実を述べるだけなら句にする必要はない。そこで、
糸切れて雲ともならぬ凧(いかのぼり)
という句が持ち出される9)。凧がどうなったのかはわからない。想像力を掻き立てるというわけである。現実の肯定でも否定でもない、比喩でもない。なにかをあからさまに正面から言い当てることは粋ではなく下品と考える。小林の言葉に戻れば花や美といった言葉は花や美を完全に表象しているわけではない。花は花であり、美は美である。近代的な考え方では言葉がモノを表象する。「花」という単語はモノとしての花を表し、「美」は美しさの概念を言い当てているはずだ。実際にあるのは美しい花、個別的な「この花」であり、「花」「美しい」といったイメージは各人により千差万別である。言葉は「この花」をめぐり輪郭を描いていく。だが正鵠に貫くことはできない。
俳句はこれを「ずらし」によって射貫く。
端的に内在と超越を踏む往還を形成する作法が詩学なのだ。
だとするといささか逆説的だが道は不可視となる。見えなくすることで見えてくる。いや、より正確には見えないものを見えるようにする。それが答えとなる。不可知論や否定神学ではない。方途は確かにある。媒材をいわば「不完全・不実な鏡」としてとらえ、近似した像のみで辛うじて道筋を示すこともできる。無限を有限の中で表そうとしたバロック芸術、ドゥルーズが「襞」と表現したものに似ているかもしれない。漸近線のように近づいてくる無限、それが詩や文学のあるべき姿である。ある種、象徴の再配置であり、記号と対象の一対一の表象ではなく関係性を暗示するアナロジーである。これを利用することで蔓延している憑依を関係性として読み替え、相対化できるはずである。
この観点で振り返れば日本の伝統文化で多用されている「ずらし」が参考になる。
歌舞伎に欠かせない演出である「見得」もそうだ。見えの原義は、他人に対しての外見、様子、さらにそこから派生して内実以上によく見せる、優れているように装うといった意味である。歌舞伎の舞台では登場人物の葛藤が最高潮に達し、まさにそれが解消へと怒涛のようになだれ込んでいく瞬間、役者が行う動作で一般的には誇張、遅延、繰り返しを伴う。クライマックスシーンで登場するカタルシスの仕掛けと言えるだろう。わざわざ観客席内の通路、花道にまで進み出てスポットライトを浴びながら独特の「型」を見せる場合も多い。観客は屋号で役者の名を呼び、劇場内にその声が飛び交う。贔屓にしている役者への声援であるが、それにとどまらない。
それまで物語の進行とともに流れていた時間が保留され、絡み合って展開してきたいくつもの場面から因縁の糸が解かれて、全体が再提示される。観客も抑圧され切迫していた感情の渦が一気に解き放たれるのを感じ呼応して叫ぶのである。役者はそれを受け止めながらさらに大仰な身振りで「型」を作って応える。舞台と観客席はフィードバック回路によって結ばれ、新たな時空が開かれる。
現実にはあり得ない動作が「見得」の本質である。時間と空間のコントロールにより、元来、実際以上に装うといった意味であった「見え」を、見えていない真実を露呈する「見得」に転換するのである。
真実は現実とは異なる。
メルロ=ポンティが「眼と精神」で触れているように、画家ジェリコの代表作「エプサムの競馬」の競走馬の脚の動きが後の世にスローモーションカメラで撮影された競走馬の連続写真と異なっていたとしても、そのことで価値が減じるわけではない。むしろ馬の走る躍動感をありありと伝えているのは前者なのである。ロダンは「芸術家こそ真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真のほうなのです」とさえ言う。止まらないものである時間をシャッターという機械の瞼で刻み込み、あたかもそれが実在であるかのように提示しているだけで、ジェリコが視えたままに描いた脚こそ真実なのだ、と。
これは現実の時間を保留にして超越を切り開く一つの方法である。
歌舞伎に限らない。
同じ舞台芸術なら先行する能で多用される手法は「見立て」である。背景はどの演目でも同一で舞台装置は小振りな道具が補助的に使用される程度である。登場人物の役柄、場面などは謡で説明されるのみである。面で煽いだり翳したりすることで生ずる陰影で感情を表し、扇で景色全体から花や蝶などあらゆる要素を表現できる。世阿弥は能の要諦の一つとして物真似を挙げている。写実ではない。真似ることで本物以上に本物になるのである。カリカチュアではないしデフォルメでもない。
芸能にとどまるものでもない。
茶道では敷居が結界を表し、またぐことが禁じられている。能と同様、扇が礼法の重要な役割を果たす。これも見立ての作用である。着物でも茶碗でも屏風でもいい、桜が咲く前に桜の柄を使う。咲いてからでは遅い。常に季節を先取りしてずらしで生ずる空白で期待を裏切る。
はたまたオイゲン・ヘリゲルが弓道を習って最初に驚いたのは、上達したければ的を得ようとするな、という教えであった。西洋人からすればこんな理不尽なことはない、と。正確に言えば決して師匠ははずすように勧めているわけではない。当てようとする邪心により的をはずすことを避けよ、ということが教えの枢要である。そのためには目と手だけは不十分である。全身が弓と矢と、さらには的と、いや、周囲の光や風といったすべてと一体になっていなければならないのだ。
このように似せる、見得を切る、見立てる、はずす、ぼかす、すかす、遅らせる、言い換えるなど時間的および空間的に様々な「ずらし」を多用して視覚にしろ言語にしろ直裁に伝えられない余剰に触れさせる手法が日本の伝統文化には見受けられる。決して曖昧にして誤魔化すのではない。むしろ効果を高めるために意図的に仕組まれたものだ。
「ずらし」は同一性、一対一対応を是としない空間的、時間的なコントロールである。ずらすことによって密着していた先入見から乖離が可能となり、恣意的な原子論と本質主義は破壊される。わたしたちが常識として保持しているニュートン的な均質な三次元の空間、過去、現在、未来と直線的に流れていると捉えている時間、あるいは時刻も無効となる。既存の物語や図式は保留され、没入からの覚醒で視野が変貌し、憑きものの正体が姿を現す。
このとき、完全さは好まれない。不自然だからである。左右非対称にしてわざと崩す。調和を乱すわけではない。人の顔も非対称であることが知られている。自然界の調和は常にやじろべえのようにバランスを取りながら成立している。生命体におけるいわゆる動的平衡と同じである。完全に同一なものはどこにも存在しない。
欠けていることこそ現実なのである。
完成したもの、それは終点であり死である。そのことを知りつつじわじわと接近していく。常に変化を先取りしてまず壊し、新しいものを付け加えていく。これが生命の過程である。
欠けているものが常に新しいものを補いながら、新しい価値を想像しながら現実を変化させていく。螺旋を描きながら求めている完成へと接近する。ずらしは一回で終わる操作ではなく周囲の状況に応じて繰り返されていく。そのとき大切なのがアナロジーである。どこへとずらしていくのか。曼陀羅のような配置を考えなければならない。金剛界と胎蔵界は互いに照応している。配置によってずらしの意味はプラスにもマイナスにも変ってくる。ずらしによって新しい場が開けてくるはずである。
最後に最近の事例としてアートユニット「目」をあげたい。2019(令和元)年十二月、千葉市美術館で開かれた「目 非常にはっきりとわからない」展は同館のこの手の展覧会としては異例の盛況だと話題になった。来場者がネット上で拡散した情報が動因となり、集客につながった。
「目」は現代アートのユニットで、アーティストの荒神明香、ディレクターの南川憲二、インストーラーの増井宏文の三人を中心に結成され、大地の芸術祭(越後妻有トリエンナーレ)や瀬戸内国際芸術祭などで注目を浴びてきたが、この展覧会は初の個展であった。
会場の千葉市美術館は改装工事中であり、来場した者はまずブルーシートでくるまれ足場が組まれた現場にとまどう。なんとか入り口を見つけて入館するが、チケット売り場のあるホールにもたくさんの部材が放置されまるで工事現場の様相を呈している。中には作品とおぼしき物体もあり、違和感を覚えつつも案内に従って、エレベーターで会場に向かう。会場は二つのフロアにまたがっており、まずは下のフロアで降りるのだが、ホールを出ても相変わらずブルーシートや養生テープが巡らされており、作品らしき物体は梱包を解かれないまま山積みにされていたり、無造作に棚に並べられたりしており、準備中に見える。つまり展覧会はまだ始まっていない、会場が完成していないとの印象だ。いくつかの展示室をひととおり見学するが、これといって見るべきものもなく、まさかこれで終わりではないだろう、といぶかしむ。
不安を抱きながら一つ上の第二会場に向かう。エレベーターの扉が開いて唖然とするのは、その様相が下のフロアとまったく同じであることだ。ブルーシート、養生テープ、梱包材。そっくり同じ配置だ。いったいどういうつもりなのだ、という疑問が湧いてくる。
実に人を食った展示だ。あり得ない。周到に仕組まれた罠ではないか。
今度は慎重に会場を巡り、仔細に観察して二つの会場の相違に注目する。ちょうど「間違い探し」のクイズのようにわずかな差異があるのではないか、と探してみると疑わしい点が見つかる。しかし確認しようと前の会場に戻ると作業員がなにやら動かしているではないか。展示替えかと思うのだが、しばらくすると元に戻してしまったりもする。芸術的な創造活動と言うよりも、運営上の「作業」に見える。くり返しという作用に注目すれば宗教儀式に似ていると思えなくもない。
後からわかったのだが展示物は日々変化しており、常に途上のままなのだ。つまり作品の全体像を把握することはできない。
作品は固定されていない現象なのだ、という考えが浮かぶ。
とすれば作業員も作品の一部であり、もしかすると自分や、自分と同様にとまどいながら徘徊している観客たちも作品に組み込まれてしまっているのかもしれない。どこからどこまでが作品かわからず確かめようとうろうろする、その行為自体が作品であるという奇妙な事態に至る。
展覧会のタイトルの通り、ここにあるのは「わからない」という事態である。わからないということだけがはっきりとしている。このわからなさが鑑賞者たちを魅了する。事件の現場に潜入しているかのようなスリルがあるからだ。そして彼らが自分たちの「目」で見た光景をスマートフォンで撮影し発信する。憶測が憶測を呼び来場者が増えていく。そして撮影と検証が繰り返され拡散する。一度購入したチケットは期間中有効なので、何度も来訪する熱心な観客も多い。日を改めれば会場の様子が変化しているからだ。謎は深まり、解釈は輻輳する。
「目」とはこういう意味だったのだ。アーティスト集団の名称であるが、同時に日々変化する作品とそれに内包された作者や観客のことでもあり、そこから伝播するネット上の情報でもある。こうしたすべてを入れ替わりたち代り都度観察している「目」なのである。従って「目」は単一の主体ではないし、作品は客体ではない。全員が現場にいる目撃者なのだ。その視点は一つではなく無数にあり、全体を把握することはできない。
来場者が「目」なのである。
目撃者であり、同時に見ることによって作品の現場に加担してしまうのだ。また、ネット上での拡散が同時進行することにより、その視点は複眼となり、ときには他者を通じて見ている状況も発生する。
そこに安住することはできない。
絵画めいた画面、彫刻やオブジェらしき物体も会場に散見されているがそうした物品には固有の意味が感じられない。状況の単なる部分に過ぎず、来場者が消費しているのはモノではなくコトである。チケットを一度購入すれば何度でも入場できる一方で、作品を購入しリビングに飾ることはできない。購入者は所有するのではなく目撃するのであり、現場に参加しなければならない。これは所有しない消費者としての「私」の様相である。
現場に実際に足を運ぶ、そのことだけが電子的アプローチとは異なる価値を生む。百聞は一見にしかず、とか調査は足で稼げ、という言葉があるが、常に「私」という主体の探偵でもあるわたしたちは、ネット上の情報ではなくあえて、実際の現場に赴き出来事を自分の目で確かめる必要があるのだ。そこでは個別の展示物が刻々とずらされており、テーマや観覧者と作品の関係、主体客体のあり方などの常識と期待は二重三重に裏切られる。さらに美術展、アートといった概念すらずらされている。これだけが光速で伝送される情報のくびきから辛うじて逃れられる方法なのである。現実での参加がデータという「憑きもの」の重圧から離脱する方途となる。
わたしたちに憑いているものの正体をいわば憑き返すことによって剝落させる。
現代アートはわかりにくい、としばしば言われるがこのようにゲームでの勝利を求めず、作品のストーリーを追わず、神仏すらゆるキャラにみたて、皮肉と諧謔、ユーモアとエスプリを維持し無目的かつ無償、無意味かつ瑣末に思える行為にその存在意義があり、憑きものを見破るためのヒントが潜んでいる。アートは問いかけであり、答えを提供するものではない。
少なくともわかりやすさ、説明責任、ファクト追求、PDCAサイクル(計画、実行、評価、改善)のような合理主義一辺倒の発想から離脱しないと思考の可能性は狭められる。一方で「おもてなし」「思いやり」「絆」「つながり」など優しさを感じさせる言葉も危険だ。あたかもそれらが実現しているかのように現状を肯定し、一面的な同調圧となって社会を誤った方向へ動かしてしまうからである。
ずらすことによって、合理的に設計され、想定された結果は得られなくなる。そのとき発生する事態は予測されない。いわば偶然性が導入される。外部からの情報がもたらす差異が新しい価値の源泉となるはずだ。予定が崩され脱線したことで本線が問われる。そして本線への回帰の過程が再帰的な効果を生み、フィードバックシステムの役割を果たす。サイバネティックスで提唱されている通り、生体は恒常性を保つためにこの仕組みを利用している。外部の情報を批評的に戻すことで減衰するエントロピーを補う。ベイトソンは「情報とは差異を産む差異である」と定義した。これを停止せずに続けること。
わたしたちの文脈では憑きものに憑き返すことになる。
歌舞伎の人形浄瑠璃に題材を採った演目では、あえて人形らしい所作を取り込んだ「型」を作る。人間である役者の真似をする人形、その人形の演技を再び役者が真似をする。憑依を重ねることによって、知らずと巡らされていた価値の体系が脱臼し笑いが起こる。
思わず笑った瞬間の凍りつくような空白。
ここに開かれる虚無こそ憑きものが落ちたあとの新しい居場所なのだ。ある種の「遊び」である。なにもないように見えるがいずれ豊かさを産む。そう信じて賭けるしかない。ときには天邪鬼となって反抗すること、ずらし続けること、これが激動を迎えた時代の美学の要諦である。
注記
1) モーリス・メルロ=ポンティ『メルロ=ポンティコレクション』ちくま学芸文庫、1999、124頁
2) Ibid,251頁
3) Ibid,255頁
4) ロラン・バルト『明るい部屋』みすず書房、1985 、100-101頁
5) 佐藤弘夫『日本人と神』講談社現代新書、2021
6) 斉藤環『キャラクター精神分析』筑摩書房、2011
7) 李御寧『「縮み」志向の日本人』講談社学術文庫、2007
8) ロラン・バルト「現代社会の神話」、『ロラン・バルト著作集3』みすず書房、2005
9)俳論書「うやむやのせき」より、NHK 俳句、2018年1月号
参考文献
平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』講談社現代新書、 2012ベルナール・スティグレール『技術と時間1~3』法政大学出版局、2013
ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』新評論、2006
ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』産業図書、2003
マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』講談社、2018
小林秀雄『無常という事』角川文庫、1954
三島由紀夫『金閣寺』新潮文庫、1960
モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』みすず書房、1966
オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』岩波文庫、1982
『目 非常にはっきりとわからない』図録、 千葉市美術館、2019
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