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「マジックブック幻想」×「学ぶのが楽しい」〔コイネージ【新造語の試み】1-4×クリシェ【凡百の陳腐句】6-2〕

「本を読む。それだけで『自分は変われる』と錯覚すること」。

これを意味する、

「マジックブック幻想」

という言葉を新たに造り、そう呼んでみる。

RPGゲームに度々登場する、読んだ(使った)だけでスキル取得やレベルアップが果たせるアイテムである「魔法の書」。これを現実世界で求めるイメージだ。

そして、その「自分は変われる」には、「自分の価値観・世界観のレベルアップ」も含まれる。

つまり、「本を読む。それだけで『自分の価値観が高まり、世界観が広がる』と考える」

これも、ときに「錯覚」となりうる。

それは、記憶力や思考力の問題ではない。

例えば、「自分の価値観を高め、世界観を広げ」ようと本を読む者は、ときおり

「学ぶことが楽しい」 
「自分の知らない世界を知ることが面白くて仕方がない」


といったセリフを口にする。

確かに、あながち見栄や偽りではないだろうし、実際それなりの読書はこなしているのだろう。

また、かの孔子は

「子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。」

(孔子は言った。 
習ったことを機会があるごとに復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことか。 
友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれることは、なんと嬉しいことか。 
他人が自分を認めてくれないからといって不平不満を言うことはない。なんと徳のある人ではないか。)

「知之者不如好之者、好之者不如樂之者」

(物事を知っている者は、それを好んでいる人には及ばない。物事を好んでいる人は、それを楽しんでいる者には及ばない。)

と述べている。

つまり「学び」や「楽しく学ぶ」ことの効用は、孔子も認めており、それを体現しているというのであれば、感心なことである。

ただ一方で、懸念点が一つ。

「『自分がそれまで"正しい"と思っていた価値観・世界観が否定されたとしても、なお…』は当然付くんだよね」

ーと。

例えば、「努力は素晴らしい」という価値観をそれまで抱いていたとする。

このような人は『自助論』『努力論』といった、自分の価値観と矛盾しない本は嬉々として読むのだろう。

しかし、『努力不要論』『1%の努力』といった、「正しい価値観の否定を予感させる本」"対峙"したらどうだろうか。

大抵は「自分の正しさが否定される不快感・拒絶反応」が瞬時に湧き上がるだろう。これ自体は仕方ない。

ここで、グッと堪え「どういうことか考察してやろう」"挑む"なら殊勝。

「論理的・客観的に否定する」
「全部または一部を賛同し、採り入れる」
「アウフヘーベン(※)を試みる」

といった考察を経ることで、「自分の価値観を高め、世界観を広げる」という本来の目的を果たせるだろう。

(※ アウフヘーベン:物事についての矛盾や対立をより高次の段階で統一すること。「テーゼ」vs「アンチテーゼ」→「ジンテーゼ」。)


しかし、拒絶反応に堪えられず"無視する"のであれば、「学ぶのが楽しい」は正確ではない。

「自分は正しいと認識するのが心地よい」のである。

思うに、よくも悪くもだが一人のために世界は存在しない。

自分のまだ知らぬ世界が、自分にとって常に心地よい形で現れるわけがない。

「多くの業務は、AIで代替可能」
「勉強の出来不出来は遺伝により決まる」
「睡眠時間を削るのは間違った努力」
「ショートスリーパーは全人口の1%以下で、後天的に矯正不可能」
「日本では、約17分に1人が自殺をしている」

など、多くの人の価値観・世界観にとって不都合となりうる事実・言説などいくらでもある。

「学ぶ」あるいは「自分の知らない世界を知る」とは、

ときに「自分の"正しい"価値観・世界観にとって不都合な事実・言説と向き合い、湧き上がる不快感・拒絶反応と対峙する」

ことを意味する。「楽しい」ばかりなわけはない

もちろん、「自分の"正しい"価値観・世界観」を肯定し、補強する内容の本を読むことも、学びの一つには違いない。

しかし、「自分の正しさを否定されそうになる不快感・拒絶反応」からいつまでも逃げていながら、「私は楽しく学べて、知見を広げられている」と思うのは幻想。真の意味での「価値観・世界観のレベルアップ」ではない。 

しかるに、読書をこなしているには違いないから、「自分の価値観は高まっているし、世界観も広がっている。やっぱり学びは楽しい」という「錯覚」を起こしがちだ。

これもまた、「マジックブック幻想」の一種である。

かかる幻想から「真の学び」を解き放つ力は、記憶力や思考力ではない。

「精神力」。

「不快感・拒絶反応に堪え、考察を挑み、可能ならばアウフヘーベンを試みうる精神力」である。

これが伴って初めて、「読書による価値観・世界観のレベルアップ」は真正なものとなる。

ちなみに、孔子は

「子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。」

(孔子は言った。「学んで、その学びを自分の考えに落とさなければ、身につくことはない。また、自分で考えるだけで人から学ぼうとしなければ、考えが凝り固まってしまい危険だ」と。)

とも言っている。

総合すれば、

「不快感・拒絶反応すら楽しむべし」

ということなのだろうか。


※なお、「努力vsアンチ努力」あるいは「才能vs努力」に関しては、筆者は"自信のあるジンテーゼ"を考察済み。それについては、おいおい発信するつもり。


(過去投稿した記事の続編かつ混成)

(参考文献)

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