「セルフエクセプション・スパイラル」〔コイネージ【新造語の試み】17-1〕
「自分を例外視することによる負の連鎖」。
「人の振り見て我が振り"直さない"ことで連鎖する、人の過ち」。
これを「セルフエクセプション・スパイラル(self-exception spiral)」と呼んでみる。
人は、他人の犯した過ちを認識・批判しながらも、自分の過ちには適当な理由をつけて"例外視"してしまうことがある。
とある体育教師は、他校での体罰事件を認識しながらも、「体罰はよくないな。俺のは愛のムチだから平気」と捉えた。その後、上司に「それ体罰だよ」と指摘され、狼狽えたという。
とある企業の取締役は、数ヶ月前の「市長のセクハラ事件」を視認しながらも、講演会にて「ナイスジョーク」なセクハラ発言をぶちかました。結果、すべての地位を失うことになった。
詐欺被害者やカルト宗教の信者をバカにする者も、自分は陰謀論に囚われていることに気づかなかったりする。「自分は頭悪くないから、ああはならない」と考えるあまりに。
図書館で借りた本に「マーカーで印しをつけるのは良くないが、鉛筆ならいい。後で消せるから」と考える者もいた。
いずれも、「人の振り見て、我が振り"正当化して直さない"」ゆえのことである。
それは、駆け込み乗車しかり(急いでいるから許してちょ)。
歩きスマホしかり(気をつけているつもりだから平気)。
飲酒運転しかり(ちょっとくらいええでしょ)。
エリート大学生による犯罪しかり(優秀な俺が正しいと認識すれば正しい)。
このように、一般的にみれば過ちなのだが、「自分のは〇〇なので大丈夫」と考え、罪の認識を誤魔化す。そもそも過ちだと気づかない場合もある。そうして堂々と過ちを犯す。
これを見た別の人も、同じように「自分は大丈夫」と考え、同じように過ちを犯す。
それを見た別の人も同じことをし、過ちの連鎖が未来永劫と続く。
まさに「自分は例外的に大丈夫」と考えたことで陥る、負のスパイラルである。
ところで、かの孔子は「過ちを改めざる、これを過ちという」といった。
これには「過ちに"学ばざる"、これを過ちという」も含めた方がいいかもしれない。
過ちが何千年も間、断ち切れることがないのは、そのせいではないかと考えうるからだ。
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