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現世は、今に心を開いて生きるのみ
最近、チャップリンがなぜ、あのように哲学が深いのに、喜劇を専門にしたのか、分かるようになった。
この世界は、考えてみれば喜劇だろう。
選んでもない生を受け、選んでもない親から、選んでもない時代と場所に生まれ、死ぬことだけは確定している。
なんという矛盾か。
その上でさらに、国や文化、時代によって、こうあるべき、こうなりなさい、などと周りから言われる。
そして1日1日を、確実に死ぬその日まで食い繋ぐために、労働をする。
矛盾のかたまりだ。
善と悪、絶対的価値観、宗教、学問、全てこの世には存在しない。
ただただ、事象があるだけ。
なぜならその事象の捉え方はその人の育ちや文化や国や時代によって変わるから。
そうなると、いよいよ苦悩する、ということ自体、おかしくなってくる。
苦悩するということは、こうあるべき、なのにそうじゃない、ゆえに苦悩するから。
でもその、べき、は誰が決めたのか。
それは自分以外の人々や常識という名の世間だろう。
しかし自分以外の人々も、みな同じ人間だ。
上も下もない。
ではなぜ、その同じ人間や世間が言う定義に当てはまらない自分の状況や、相手の行為や発言にいちいち苦悩したり、感情を掻き乱されて、嫌な想いをして過ごさなければいけないのか。
この問題は、言葉が生まれた時から始まったのだろう。
言葉が全てを分け、隔てる。
あなたと私。
彼ら。
自然と人間。
しかし、本当はみんな一つなんだ。
ただただ、原子や細胞の集まりだし、この世のものは全て循環することで成り立っている。
この地球上にいる時間は限られている。
コントロールできるものは、自分のみである。
そんな現世で、苦悩していることがついにはバカらしくなってくる。
何一つ、絶対的なものも、向かうべき先もない。
そんなの、喜劇ではないか。
この現世はなんだったんだよ、って。
小さい時から、自分以外の声に従ってやってきたならばなおさら、どれだけ騙されて来たんだってなる。
だからこそ、一分一秒を惜しみなく感じ、息を吸って吐いて、太陽を浴びて、歩く。
少し前まで、身近な人といる時も常に、この人もいつ死ぬかわからない、だとか、いつ離れていくか分からない、そんなの耐えられないと思い、どこか親しくなればなるほど、悲しさも伴っていた。それは大切であるがゆえだ。
自分の祖父母や愛犬が亡くなった時も、悲しみに打ちひしがれた。
親しい人と別れる時は、いつも絶望した。
しかし、私たちはみんな必ず死ぬ。
それが早いか遅いかだ。
人は離れていくこともある。それはどうすることもできない時もある。
そして心に嘆きをもったまま生きようとする私もいずれ死ぬ。
ならば、大切な者たちとの思い出を胸に、今日が訪れたことを幸せに想い、過ごした方がいいだろう。
今を生きろ。よく言われた言葉だ。
小さい頃から、最年少で頑張り屋が取り柄だった私は、息が詰まるように早く明後日を掴まなきゃ、と思うほど焦燥感でいっぱいの毎日を過ごしていた。
今となっては、それが逆に一生明後日を掴めずにいたことが分かる。
だって明後日が来たら、それは今となり、次の明後日がやってくる。
未来は今になるから、今を生きなかったら、死ぬまで生きずに終わることと同じである。
感情を動かされる時、それは脳に焼きつく。
思い出や記憶としてしまわれる。
その感情が動くのは、大抵、今この瞬間に、自分の全てが開かれている時だ。
どんな可能性、どんな小さなものにでも、開かれている心。
そうすると、風のそよぎひとつ、小さな花一つ、木漏れ日一つにも心を動かされ、忘れられない日々の蓄積になる。
その意味では、祝祭的であろう。
それがきっと、生きるということ。
ちなみに、それを一番よく実感できるのは、瞑想🧘♀️。
やっぱり、瞑想はすごいな、と最近思う。
あまり思い詰めすぎず、どこかでは喜劇的だな、現世は。と思って生きたら、みんなもう少し生きづらくなくなるのではないか、と思うのだ。
虐待や戦争といった、自分の力では逃れられない悲惨な状況もある。
それが起きること自体も、このような考えの生き方をできない人が多いせいで、加害者になるのではないかと思う。
西洋と東洋の発想は違う。
この考え方はかなり仏教的だと言える。
そもそも宗教なども、その土地の作物や地政学に基づいたものが多い。
その意味では日本はとりわけ、自然が豊かで作物も豊富で島国だから、恵まれている。
しかしその反面、自然災害も多い。
この世は表裏一体だ。
だからそもそも、どこかや誰かを羨んだりすること自体おかしいのだ。