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シリアが括弧付きながら「平和」だった時代 〜 最初の訪問地 アレッポ, 1983年9月5-10日

1983年4月26日に横浜港で当時のソ連・ナホトカ行きのフェリーに乗って日本を発ち, その後, ソ連とヨーロッパを旅し, 7月11日から 1ヶ月はギリシャ, 8月11日から 1ヶ月弱はトルコを旅し, 9月5日にトルコ側国境の街アンタキヤを出て, 陸路, 初めて訪れるアラブの国, シリア(シリア・アラブ共和国)に入国した。21世紀に入って内戦に陥る時期よりもだいぶ以前の, 曲がりなりにも, 括弧付きながら「平和」だった時代のシリアだった(因みに当時のシリアの独裁大統領はハーフィズ・アル=アサドで, 今のシリア独裁政権の大統領バッシャール・アル=アサドの父親)。 

写真 1) その後, 21世紀の内戦で大きな損傷を受けた「シタデル」(アレッポの城塞) 〜 1983年9月6日 

1983年9月6日, 夕日に照らされたアレッポの(21世紀に入ってからの「シリア内戦により大きな損傷を受け」る前の)シタデル, アレッポの城塞(要塞), アレッポ城を眺める。

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アレッポ城(アレッポじょう、英語: Citadel of Aleppo 〈Aleppo Citadel〉、アラビア語: قلعة حلب‎)は、シリア北部に位置する都市アレッポの旧市街の中心にある大規模な中世の要塞である。この建造物は世界で最古かつ最大の城の1つであると見なされている。城塞(シタデル、英: Citadel)の丘の利用は、少なくとも紀元前3千年紀中頃にさかのぼる。その後、ギリシアや東ローマ帝国(ビザンティン帝国)、アイユーブ朝、マムルーク朝など多くの文明国によって占拠され、今日にあるその構造物の大部分は、アイユーブ朝時代に起源があると考えられる。大規模な保存事業が2000年代、アレッポ考古学協会とともにアガ・カーン・ トラスト・フォー・カルチャー (Aga Khan Trust for Culture) により行なわれた。都市を見下ろす城塞は、1986年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録された古代都市アレッポの一部である。城塞は、シリア内戦により大きな損傷を受けている。

写真 2) その後, 21世紀の内戦で破壊された「アレッポの大モスク」のミナレット 〜 1983年9月6日

1983年9月6日, 夕刻過ぎ, アレッポの街から, アレッポの大モスク, ウマイヤ・モスクの(21世紀に入ってからの「シリア内戦の戦闘のなかで破壊された」)ミナレットを眺める。

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アレッポの大モスク(アレッポのだいモスク、英語: Great Mosque of Aleppo、アラビア語: جامع حلب الكبير‎ Jāmi‘ Halab al-Kabīr)は、アレッポのウマイヤ・モスク(英語: Umayyad Mosque of Aleppo、アラビア語: جامع بني أمية بحلب‎ Jāmi‘ Bani Umayah Bi-Halab)とも称されるシリアの都市アレッポにある最大かつ最古のモスクの1つである。世界遺産である古代都市アレッポのアル=ジャッルーム (al-Jalloum) 地区にあるアル=マディーナ・スーク(英語版) (Al-Madina Souq) の入口近くに位置する。モスクには洗礼者ヨハネの父ザカリアの遺骸が残ると伝えられ、ジャミア・ザカリーエ (Jamia Zakariye) とも称される。8世紀初頭に建立されたが、現在の建造物は11世紀から14世紀に始まる。ミナレットは1090年に建てられ、2013年4月、シリア内戦の戦闘のなかで破壊された。

写真 3) スーク(市場)にて 〜 1983年9月7日

1983年9月7日, スーク(市場, 世界遺産「古代都市アレッポ」のアル=ジャッルーム (al-Jalloum) 地区にあるアル=マディーナ・スーク (Al-Madina Souq))を歩く。 

.. 市場へ行く 人の波に 身体を預け 石だたみの街角を ゆらゆらと さまよう ♫

って俺は 久保田早紀 かよ。

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スーク(souq, アラビア語: سوق‎ sūq) とは、アラブ人やベルベル人の世界で、商業地区を言う。
スーク(sūq)は市場を意味し、語源は、送る、運ぶ、手渡すという意味の動詞ساق (sāqa) からの派生にあたる。総体としての市場を指す場合と、特定の商品を扱う個々の市場の用法がある。
元来、キャラバン(隊商)の通る街外れに定期的に立つ交易の市で、祝祭の場でもあり、部族紛争のときも中立性が担保されていた。やがて恒久的なスークが登場し、現在のアラブ世界では、英語の「マーケット (market) 」とほぼ同じ意味で用いられ、物理的な意味と抽象的な意味の両方を含む。

(ウィキペディアのこの写真はモロッコ, 頁内にはアレッポのスークの写真も。)

古代都市アレッポ(こだいとしアレッポ)は、シリアの北部にある都市アレッポに残る歴史的構造物が登録されたユネスコの世界遺産(文化遺産)である。
アレッポは、シリアの首都ダマスカスの北約300キロメートルにある都市で、トルコ国境に近くに位置する。象徴的な建物であるアレッポ城は、紀元前10世紀に最初に建築され、12世紀から14世紀にはモンゴル帝国の侵入や十字軍の攻撃にも耐えた。世界最大の市場の1つともいわれるスークもアレッポの象徴である。スークの北にある大モスク(グレート・モスク)は、建築様式が他のモスクの手本になったともいわれる。アレッポは現代でもシリア第2の大都市であり、考古学者が発掘を行う機会も限られている。
Al-Madina Souq (Arabic: سوق المدينة‎, romanized: Sūq al-Madīna) is the covered souq-market located at the heart of the Syrian city of Aleppo within the walled ancient part of the city. With its long and narrow alleys, al-Madina Souq is the largest covered historic market in the world, with an approximate length of 13 kilometers. It is a major trade centre for imported luxury goods, such as raw silk from Iran, spices and dyes from India and many other products. Al-Madina Souq is also home to local products such as wool, agricultural products and soap. Most of the souqs date back to the 14th century and are named after various professions and crafts, hence the wool souq, the copper souq, and so on. Aside from trading, the souq accommodated the traders and their goods in khans (caravanserais) scattered within the souq. Other types of small market-places were called caeserias (قيساريات). Caeserias are smaller than khans in size and functioned as workshops for craftsmen. Most of the khans took their names after their function and location in the souq, and are characterized by beautiful façades and entrances with fortified wooden doors.
Al-Madina Souq is part of the Ancient City of Aleppo, a UNESCO World Heritage Site since 1986.
Many sections of the souq and other medieval buildings in the ancient city were destroyed, ruined or burnt as a result of fighting between the Free Syrian Army and the Syrian Armed Forces beginning on 25 September 2012.

シリア難民の職人が作った「アレッポの石鹸」 〜 2016年10月

前章で引用した英語版 Wikipedia のテキストにも soap とあるように, アレッポの石鹸はシリア名産として世界的に有名。以下は, 「トルコ製」となっているが, シリアの内戦のためにシリアからトルコに逃れ「シリア難民」となったシリア人の石鹸製造の職人が作った「アレッポの石鹸」。この石鹸は, 2016年10月2日, 縁あって(シリアでなく主として)パレスチナを支援する日本の NPO から購入した(シリア内戦による難民はレバノンにもおり, レバノンにはパレスチナ難民も住む, その NPO はレバノンにいるパレスチナ難民・シリア難民双方を支援していた/している, 因みにシリアからレバノンに逃れた難民の中にはシリアに住んでいたパレスチナ難民も含まれる *注)。

「ハラブ」とは, アレッポのこと(アレッポはアラビア語で حلب‎(Halab) ['ħalab], トルコ語では Halep で, Aleppo はイタリア語および英語)。因みにシリアを「石鹸の発祥地」とする説もあるとか。

アレッポ石鹸 1

アレッポ石鹸 2

*注 ... 上記「因みにシリアからレバノンに逃れた難民の中にはシリアに住んでいたパレスチナ難民も含まれる」に関して。パレスチナ難民はもちろんシリアにも住んでいる。2021年の今この時もパレスチナに帰還できないパレスチナ難民とその子や孫などがシリアに住んでいて, 一方でシリアの内戦からレバノンなど隣国等に逃れた「シリアからの難民」の中にもパレスチナ難民はいて, 彼らの場合は要するに二重の難民ということになる(以下のインスタグラム投稿の子どもたちは今もシリアに住んでいるパレスチナ難民の子どもたちである)。

さてさて, 

話を再び, 1983年9月のシリア に戻して。 

写真 4) スークにて 〜 1983年9月7日

シリアで出会った全ての人々が, その後の内戦を生き延びたことを心から願う。

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写真 5) スークにて 〜 1983年9月7日

当時のアレッポで, いろいろと親切にしてくれ, シリアについて教えてくれ, 様々なところを案内してくれたアレッポ大学の学生のうちの一人。いま 60歳近くになっているはずだ。シリアにいるにしろ, 他の国に逃れたにしろ, 絶対に生きていると信じたい。信じる。結婚し, 子どもがいて, いまはきっと幸せな人生を送っているものと信じる。信じる他ない。

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写真 6) スークにて 〜 1983年9月7日

同じことを書く。シリアで出会った全ての人々が, その後の内戦を生き延びたことを心から願う。この少年は今頃, 50歳ぐらいになっているはずだ。左の彼はいま, 50歳を少し越えたくらいだろうか。

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写真 7) スークにて 〜 1983年9月7日

何度でも, 同じことを書く。シリアで出会った全ての人々が, その後の内戦を生き延びたことを心から願う。この少年も, 今頃, 50歳ぐらいになっているはずだ。左の女性たちは, いま 60歳を過ぎたぐらいだろうか。想像し難い, どれだけの困難を乗り越えてきただろうかと思わずにいられない。今も, きっと生きている。そう信じる他ない。

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写真 8) 9) 招待してくれた結婚パーティで撮った写真その 1(2枚) 〜 1983年9月8日

どうしてこれ撮ったんだっけ? 豪華な椅子だったからかな。

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もう 1枚。これはなんでしょう?

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写真 10) 11) 招待してくれた結婚パーティで撮った写真その 2(2枚) 〜 1983年9月8日

近頃は(もちろん当時の「近頃」)男女同席でパーティをして祝うような披露宴も増えているということだったが, 伝統的には男女別で祝うというもの。この時の披露宴では, 招待された親族や友人たちが男と女に分かれ, 男は男だけの会場にいた。文字通り, 男だらけ。ダンスも男同士で。パーティの最後の段に, 男の会場にいた新郎と女の会場にいた新婦が一緒になって, 二人の新居に向かうという, そんなやり方の祝賀パーティだった。

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日本国・札幌市のディスコで鍛えた(?)ダンスを披露する(笑), 当時22歳の筆者。この日から 3日後, 1983年9月11日に, シリアでアレッポの次に訪れた, 古代ローマ帝国に支配された時代の巨大な都市遺跡があるパルミラにて, 23歳の誕生日を迎えたのだった。

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旅日記について

1983年4月から翌1984年2月にかけて, バックパックひとつ担いで海外「放浪」もどきの旅をしていたのだが, 

その間, 毎日毎日, 旅日記をつけていた。2019年10月4日, 不意に当時の旅日記を捲ってみたくなって, 優に30年を超えるほどの長きに渡り全く開いていなかった当時の旅日記を手にしたのだが(まずは家の押し入れにしまってあったのを探し出すのに時間がかかったが), 

(地図類や幾つかの国で領事館や大使館気付で受け取った手紙などと旅日記)

日記と地図や手紙など

(旅日記)

旅日記

これが実は, けっこうページ数が多く, かつ, 殆どの頁に文字がぎっしりと詰まっている。

シリア以降, 刺激的な出来事, 深く考えさせられる見聞があまりに多く, 当然ながら推敲などしない殴り書きのようなメモの日記とはいえ, 1日に書くボリュームがそれ以前と比べて大きくなっていった。要するに文字数が増えた。

シリアのアレッポの旅に関する日記については, 本 note でその大部分を掲載しようと思うけれど, 今後の note ではとりあえずごく一部だけにしていくつもりでいる。全てを note 投稿に当たって追っていくのではかなり時間がかかるし, 妙な言い方だが, 一気に大半を掲載してしまうのは何というか, 勿体無い気がしてきた(いずれまたじっくり書く機会を作るかもしれないけれど, 今後については当面, 日記に関しては一部だけ取り上げていこうと思っている)。

なお, 個人名の多くは(何処ぞの役所の「公開」文書のような黒塗りでなく)緑塗りで隠す。

隣国トルコ共和国から陸路, 国境を越えてシリア・アラブ共和国に入った, アラブ世界の旅のその初日 〜 1983年9月5日

(日記の写しは後段) 1983年4月26日に横浜港で当時のソ連・ナホトカ行きのフェリーに乗って日本を発ち, その後, ソ連とヨーロッパを旅し, 7月11日から 1ヶ月はギリシャ, 8月11日から 1ヶ月弱はトルコを旅していた。そして, 9月5日にトルコ側国境の街アンタキヤ

を出て, 陸路, 初めて訪れるアラブの国, シリア(シリア・アラブ共和国)へ。

9月3, 4日の 1泊2日滞在したトルコ側の国境に近い街アンタキヤも歴史を遡ればかつてはアラブの地域でもあったと言えるのだが(実際, アラブではないテュルク系の民族であるトルコ人主体の国トルコ共和国のアンタキヤにはアラブ系の出自の人が多く住んでいる), 国単位で言うなら, ここから, シリアからが, アラブの旅。

1983年9月5日, いよいよ トルコ共和国側 国境の街 アンタキヤ を発ち(日記に記載の, チェックアウト時に宿に払った 2泊分「900TL」は, 当時の旧トルコリラと日本円の為替レートで 900円程度), シリア・アラブ共和国 へと 向かう。

上掲リンク先の前回 note でも触れたが, その年のハッジ(ムスリム, イスラーム教徒によるサウジアラビアのメッカへの大巡礼)の時期が近い影響でバスは予約でいっぱい, 相乗りタクシーとヒッチハイクで アレッポ に向かったのだった。

以下, さらに前回 note からの引用。

乗り合いタクシーに途中から同乗した2人はシリアとの国境に着く前に降りたが, うち, 「おじがシリアに住んでると言った」一人は, その後続けて話すと「私は 1953年にエルサレムで生まれた」と言い, 訊くと, 彼はパレスチナ人で, 「今トルコに住んでいる」ということだった(トルコにも1948年のイスラエル建国と戦争や 1967年の戦争でパレスチナの地を追われたパレスチナ難民はわりといるのだと思う)。シリアを旅した後, ヨルダンを旅し, その後, パレスチナとイスラエルを旅したのだが, この時に会ったトルコ在住の彼が, 筆者が 初めて直接話したパレスチナ人 だった。

*日記のこの頁の冒頭は, トルコ・カッパドキアの奇景を見物して滞在したユルギップ(ユルギュップ)からアンタクヤ(アンタキヤ, トルコ・ハタイ県)までバスでやってきた時に見た風景についての, 思い出しメモ。その後が, 1983年9月5日のアラブ世界への旅立ち

当日の旅日記にある「ハレブ」というのは, トルコ語もしくはアラビア語によるアレッポの呼び名を指していて, おそらく一般的な日本語表記では ハラブ と書かれるのだと思うが, アレッポはアラビア語で حلب‎(Halab) ['ħalab], トルコ語では Halep であって, アレッポという日本での呼称のもとになっている Aleppo はイタリア語および英語による呼び名。

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「ホテルは 2ベッド 1ルーム とって」というのは勿論, そういうタイプの部屋しかなかったホテルということ。一人旅バックパッカーには何の意味もない「2ベッド」の「1ルーム」, 当然ながら!

旅日記, 次の頁からの引用。

人にきいて(メモを見せて)アテネで会ったマルワンの父の店へ行った。

この「アテネで会った」シリア人のことは, 以前, ギリシャ・アテネ旅 note 5編のうちの一編で触れていた。

1983年7月 の ギリシャ・アテネ での旅日記メモ。

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以下も上掲 note に載せた, アテネからサントリーニ島に旅した日, 1983年7月27日 の旅日記の最初の頁。

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というわけで, 

話を 1983年9月5日シリア・アレッポ に戻して(というか, 時間的には進めて!), 「アテネで会ったマルワンの父の店へ行った」。

そして, その後, マルワンと再会して, マルワンの家へ。彼の妹もいて「きれい」だった。日記には特記してないが, 印象は今も残っている。家の中とはいえ, 初めて会う外国人旅行者の男の前でもヒジャブ(イスラーム教徒の女性が着けてることが多い, 髪を覆い隠すスカーフ状のもの)は着けておらず, 服装などファッションも含めて, ヨーロッパの女性のようなルックスだった(もちろん「ヨーロッパの女性のよなルックスだった」から「きれい」だったという意味では全く無い, 念の為!)。そもそもあの辺り, 長い歴史を遡ればヨーロッパのとりわけ地中海沿岸とは様々な行き来があり, 人種的にも交流はあったに違いないが。「スティービーワンダー」については, どんな曲を聴いたのか, 日記に何曲かタイトルを書いておけばよかったかなと今更ながら ♫

アレッポ日記 3

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旅日記, 次の頁からの引用。

もうひとりの男が言った。我々はイスラエルと戦ってる。パレスチナ人は我々の兄弟だ。政府の思惑はどうあれ, 彼の言葉にはにごりがなかった。本心から しゃべってた。
数日前, レバノンにおいて シリアイスラエルの戦争が始まったと, マルワンからきいた。シリア北レバノンを占領してる。アラブどうしなのにクレイジーだと言った。イスラエルをどう思うかというと, ぼくは平和が好きだと言って, ハッキリと言わなかった。それ以上きくのはやめた。

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旅日記の上掲の頁下部「※」以降に娼婦のことが出てくる。正直, アラブのイスラーム圏でも公然と .. ということ自体は当時, 文字通り意外に感じた。そこで語られた娼婦は東南アジアもしくは東アジア諸国から遥々シリアまでやって来ていた娼婦たち, ただし「日本から」というくだりは, 旅日記の次の頁にも書いた通りで, 彼らの勘違いなのではないかと思った。

以前, フランス・パリ旅 note の一編としてこういうタイトルのものを投稿したが, 

こちらも note 投稿した, 同年7月にイタリアでその遺跡を訪れた, 古(いにしえ)の火山噴火によって忽然と消えた古代ローマ帝国時代の都市ポンペイにも娼館があったことが当時の壁画などで示されていて, 更にまた現代(と言っても今から38年前!)に話を戻せば(時間を進めれば), 同年つまり 1983年8月に滞在した, シリア同様にイスラーム(自体は紀元7世紀に勃興した, そして21世紀の今も世界宗教の一つ)を信仰する人がその人口の圧倒的多数を占めるとされる国トルコのイスタンブールにおいても「公営の遊郭」なるものがあった。こういうことって, よく「最も歴史が長い職業」などと形容されるように, 古今東西, 古代から現代にわたって絶える事なく続いている事象なのだろうか。これからの世界では, どうなっていくんだろう。そんなこと, 既にとうの昔に文化人類学者あたりがなにがしか語っているのかね。

ここで話題を全く変えて, 

.. 人間のかんじはいい。
そして, この騒々しさはアラブの都市のものだ。
ついにアラブに来たのであります。
もちろん アラビア服の人はけっこう, というか 半分以上。半分くらいかな。
顔を完全に黒いスカーフでかくした女性も少なくない。

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旧市街の歴史的なスークやモスクを見物, アレッポ大学の学生寮に泊まり, 学生たちと交流 〜 1983年9月6日

最初の3行は初日, 1983年9月5日のアレッポ見聞録の続き。次の3行はトルコ・イスタンブール思い出し記。

1983年9月6日, アレッポ大学へ。学生寮に部屋を得, アレッポ大学の学生たちと交流。その後, バスでアレッポ旧市街に行き, 散策。

アレッポ日記 7

アレッポ日記 8

スークやモスクの見物。「モスクの前, Citadel of Aleppo(カラァハレブ)のまわりを walk。モスクの後, また歩く」。アレッポの城塞 Citadel of Aleppo はアラビア語で قلعة حلب‎, ローマ字化すると Qalʿat Ḥalab, この音を「カラァハレブ」と日記に書いたんだと思う。続けて「写真。モスクも外から写真」と書いてあるが, そのシタデル(城塞)とモスク(のミナレット)の写真は, 本 note 冒頭の章の最初の2枚。モスクは街, というか通りから見た, ミナレットのみ撮影(残念ながら, 西暦1090年建造のその時のミナレットは, 21世紀に入ってから, 2013年4月にシリア内戦の最中に破壊されてしまったのだが)。このモスクは, 上掲の旅日記 前頁に「オマイヤッド モスク」と書いてあるモスクで, ウィキペディアの表記ではウマイヤ・モスク, 「アレッポの大モスク」と呼ばれる, アレッポに存在する最大かつ最古のモスクのひとつ。

モスク内, 広場があり, トルコで見たモスクとはずいぶん違うかんじ,

「トルコで見たモスク」も美しかったけれど。

話を 1983年9月6日のシリア・アレッポに戻して(以下に載せる旅日記から, 上掲 note リンク2つの上に載せた引用の続き),

かつ美しく, 写真とりたかったが そんなフンイキでなかった。このモスクは特別の形らしい。「アジアを歩く」によると, ローマ時代の教会をモスクに転用とか。

ウィキペディアによれば, 「大モスクの敷地は、かつてヘレニズム時代のアゴラ(広場)であり、後にシリアのローマ支配のキリスト教の時代には聖ヘレナの大聖堂の庭であった」「モスクは、かつて大聖堂の墓地としてあった土地を押収して建てられた。後の伝承によると、その場所に最古のモスクの建設が715年、ウマイヤ朝のカリフ、アル=ワリード1世(Al-Walid I、在位705-715年)によって開始され、717年、彼の弟である後継者スライマーン・イブン・アブドゥルマリク(Sulayman bin Abd al-Malik、在位715-717年)により終了した」(細部については諸説あり)。

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街で夕食をとった後は, アレッポ大学の学生寮に戻り, シリア人学生たちや同じく寮に来ていたスペイン人学生などと懇談。

アレッポ日記 10

大学にはシークレットポリスがいる。

「となりの部屋に大統領アサドの写真」とは, 2021年現在のシリアの独裁政権の大統領バッシャール・アル=アサド(2000年7月より在位, 既に21年間!)の父親, ハーフィズ・アル=アサド(1971年2月22日に大統領になり, 2000年6月10日に心臓発作で亡くなるまでなんと29年の長きにわたり独裁大統領として君臨)の写真のこと。当時の旅日記にある通り, 大学内でも, 政治的な話題には神経を使う必要があった。 

シリア人学生たちは,

イスラエルは もち みんな 嫌ってるようだ。

旧市街でシタデル(アレッポの城塞), スーク, さらに新市街など見物, アラブ料理を食し, ビールを飲み(!), そしてアレッポ大学の学生寮でシリア人学生やスペイン, ポーランドの学生たちと交流・議論(ポーランド「連帯」について等, そしてシリア人学生曰く, かつて 「アラブは先進科学をもっていた」) 〜 1983年9月7日

最初の7行分は 1983年9月6日のアレッポ見聞録の続き。人々はフレンドリー, 街を走る車の7-8割は日本車(「車が多い」こと自体は「今年に入ってからとのこと」だった), 大学周辺には警備の警官もしくは兵士が多い, 等々。

1983年9月7日, 再び, アレッポのシタデル(城塞)へ。

アレッポ日記 11

アレッポ日記 12

旅日記, 次の頁からの引用。

アラブの食いものを ごちそうになる。お好み焼とほとんど全く同じものあって ビックリ。
駅へ行くにも(列車停車中は)身分証明書必要みたい。

アレッポ日記 13

旅日記, 次の頁からの引用。

弟に girl friend から電話。長電話。

恋人との長電話, 当時は世界中の多くの国で, 似たようなもんだったかな。極めて保守的な, 例えばサウジアラビアとか, イスラーム革命後のイラン(1979年以降, ただし筆者が 1983年にシリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, エジプト, 再びのトルコの後にイランを旅した時には, 首都テヘランから離れて同国東部地方の都市に行くと少なくとも親しくなった外国人旅行者相手ならイスラーム体制を平然と批判する若者と出会ったりもしたけれど.. )などは事情が違うだろうけれど。いずれにしても, 今は恋人との長電話ってのはあんまりないだろうな。最早メールだって廃れてきて, 代わりに LINE の類(LINE は日本の場合だけど要するにその類)。ああいうのになると, 逆にとりあえず一度に長いのはダメだろう。話, 脱線した!

「日本茶」とは, 日記の前の方で出てくる, 筆者がプレゼントした「日本茶」。「シャイ」は現地のお茶のこと。

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アレッポ大学の学生寮に戻る。寮のシリア人学生, そしてスペイン人やポーランド人の学生(スペイン人は筆者と同じ旅人だったかも, 他方, ポーランド人の方は留学生)などと話す。

旅日記, 次の頁からの引用。

そのポーランド学生とシリア人学生との討論 about 連帯 はおもしろかった。

「連帯」とは, 懐かしの, ポーランド自主管理労組「連帯」(ソリダルノスチ)。初代議長は懐かしの ワレサ(ヴァウェンサ)。 

別の部屋へスペイン人たちとともに行って, アラブ food と ビール

シリアの前の訪問国トルコにおいても, 国民の大多数が飲酒が厳禁のイスラームを信仰するという国でありながら, ビールを飲むことができる店を探すのは容易だったのだが(とりわけイスタンブールがそうだが, 国の西部地方であれば大体はそんな感じ), やはりムスリム(イスラーム教徒)が人口の大多数を占めるシリアにおいても, (トルコほどではないにしろ)ビールを飲むこと自体は可能だった。少数派とは言えるだろうが, アルコールを口にする若者はシリアにもいた。

アレッポ日記 15

旅日記, 次の頁からの引用。「モスレム」とはムスリム, すなわちイスラーム教徒。当時は「モスレム」という表記が一般的だった気がする。事情は異なるが, イスラームもイスラムと表記する方が多かったかな, あの頃。

彼らは酒も飲む。しかし モスレムだ。

引き続き, 旅日記, 次の頁からの引用。

顔をおおいかくす女は少なくなりつつある。

「ホステル」とはアレッポ大学の学生寮。

ホステルのスペイン人は, アラブがスペインにすばらしい科学をもたらしたことをよく知ってる。

実際, ヨーロッパと比べて, 

アラブは先進科学をもっていた

時代が過去にあった。ヨーロッパにおけるルネサンスや(キリスト教)宗教改革, 市民革命, 産業革命などを経て, 世界におけるヨーロッパ(とアメリカ合州国)の優位という時代が長く続いているが, アラブの相対的な没落の事情はどういうものだったのか。シンプルに語ることはできないが, ヨーロッパにおいて社会が世俗化(脱「キリスト教」化)を進めていった時期に, アラブにおいては逆に宗教(イスラーム)が時代の変遷とともに言わば相対的に「原理主義」化していったような背景がなかっただろうかと思う(ただし「世俗」という言葉には注意が必要, なぜならもともと「生活」や「政治」などを厳しく律する力学が強いイスラームにおいては「世俗」そのものが「宗教」によって支配されており, その意味においてイスラームという宗教の「原理主義」化は「世俗」に密接につながっていくのであって, その「世俗」主義は当然ながら通常言うところの政教分離などを旨とする「世俗主義」や「世俗化」とは様相が全く異なる, 言わば逆方向に向かうものであるとさえ言えるからだ)。

「オトマン」とはオスマン帝国。

アレッポ日記 16

上掲の旅日記にある「オミ カウスリ」とは, ウンム・クルスーム のことだと思う, おそらく。アラビア語も話される国・地方により方言があって, 固有名詞の発音もだいぶ異なるというし, そもそも筆者が当時アレッポの人々と話していて聞き取った名前をカタカナ表記したに過ぎないので, 「アラブで最も人気ある歌手(数年前死去。エジプト人。名はオミ カウスリ」という説明書きと併せて考えれば, まずこれは ウンム・クルスーム のことだったとして間違いないだろう。  

ウンム・クルスーム(アラビア語: أم كلثوم‎, EALL方式ラテン文字転写:Umm Kulṯūm, ALA方式ラテン文字転写:Umm Kulthūm; 1904年5月4日頃生-1975年2月3日歿) は、20世紀エジプトの歌手、音楽家。20世紀アラブ世界でもっとも有名な歌手である。
本名は、ウンム=カルスーム・イブラーヒーム・アッ=サイイド・アル=バルタージー (أم كلثوم ابراهيم السيد البلتاجي (‘Umm Kalthūm Ibrāhīm al-Sayyid al-Baltājī) といい、フランス語ではOum Kalthoum、Oum Kalsoum、英語ではUmm Kulthum、Oum Kalsoum、Oum Kalthum、Omm Kolsoum、Umm Kolthoumなど様々に表記される。
アラブ世界の歌手たちのなかにあって、もっとも知名度が高く、また人々からもっとも愛された歌手の一人である。アラビア語で歌われたアルバムのなかで、彼女のアルバムは現在もなお、もっとも高い売れ行きを示している。

Enta Omry - Umm Kulthum انت عمرى - ام كلثوم (ライヴ録音, 以下のクリップで 歌が始まるのはなんと 8:07 〜!)

いいなぁ。確かにいい ♫ でも歌が始まる前の演奏(前奏?), 長かったなぁ!

中央図書館, 国立博物館 見学, シリア人の家でご馳走をいただき, 大きな会場での結婚パーティに参加し, その後はシリア人宅に泊めてもらった 〜 1983年9月8日

最初の6行は, 1983年9月7日 に書いたメモ。

「ここでも空手は有名」, そう, 日本人だと知るとカラテ, カラテ .. ヨーロッパでもイタリアはじめ, そういうところがあったけれど, 中東(西アジア)におけるカラテの知名度はさらに上だったかもしれない。シリアで空手を習っている人もいたし(筆者がたまたま知った事例は, 教えている人もシリア人だった, 当時, 日本人が教えている例があったかどうかは分からない)。近頃はどうなのかな。知名度なり人気なり, もしかしたら落ちているのかもしれないとも思う(当時は海外で会う人の中に, 映画 "Enter the Dragon", 邦題『燃えよドラゴン』のカンフーのブルース・リーが空手の日本人だと誤解している人までいた)。

4行目。何処の国でも, 若者が集まると妙なことが話し合われたりする(笑)。"ほぼ” 万国共通の話題。

ここから, 1983年9月8日 付の旅日記について。

「政治や政府のことは話すな」と書いてあるのは, 9月6日の日記にも出てきた話。シリアで親しくなった若者たちからのアドバイス。大学にだって「シークレットポリス」がいるのだ。親しくなって信頼が置ける関係になった相手とならよいが, そうでない場合は, 避けた方がよいということ。場合によったら, 親しくなった相手に迷惑をかけてしまうことすら有り得るのだ(これは今のシリアでもそうなんだろうなと想像するけれども)。

アレッポ日記 17

アレッポ大学の学生と中央図書館へ, そして国立博物館へ。(トルコではイスタンブールで何度も「ハンマーム」もしくはハマム, つまり中東=西アジアから北アフリカ等でよくある伝統的な公衆浴場を利用していたが)シリアの「ハンマーム」も見物。

その後, 学生の家を訪問した。テレビは日本製(今ならもう日本製じゃないね, 21世紀に入り, いよいよ日本経済は沈没気味)。アニメ, そうだそうだ, これも近年は徐々に他の国のものに押されてきてるんだろうなと思うが, 当時の中東=西アジア諸国では, 日本のアニメが大人気だった。いわゆる少女漫画系から男の子が好きになりそうな(ほんと, 時代は変わる, 近年はこういう表現の仕方はしにくくなっているわけだけれど)内容のものまで, 多岐にわたり。

アレッポ日記 18

非常に印象に残っていることは, 突然の訪問だったのに, 歓待, いや歓待といえば全くその通りなのだが, そのとき家には両親と小さな妹(4, 5歳)がいたのだが, ごくごく自然な雰囲気で迎え入れてくれた感じだった, ということ。なんというか, 構えるところがないというか。ご馳走をいただき, いろんな話をした。両親との会話は, 息子であるその学生が英語で通訳してくれたように記憶している。

その後, その日はたまたま 友人の結婚パーティ があるというので, 気軽に招待してくれ, そのパーティに夜になって参加させてもらった。参加者は男女別れて祝賀会を開き, ダンスなどを楽しむ(写真は本 note 冒頭の章)。そして最後に新郎と新婦が一緒になって新居に向かう, そういうやり方だった。伝統的な流儀に従ったものだったのだと思うが, 「最近は, 男女共に楽しむ傾向にある」という話も聞いた。

家に戻って, 旅行から帰ってきた「弟」をまじえ, 3人で夜食。「丸くてうすっぺらのパン」とはインドやパキスタンのチャパティに似たタイプのものだったのではと思う(シリアだけでなくヨルダンでも食べた)。深夜, 銃声を何回か聞いたのだが, 訊いたところ, 結婚を祝う "祝砲" のようなものだったらしい。何処の国でもというわけではないのだろうが, アラブの国々に関しては, 旅先でのことに限らず, 帰国後もニュースなどを通して様々な機会における "祝砲" の話を聞く。あの時のシリアの場合, 例えば銃規制みたいなことは, どうなってたんだろう。その辺りのことは日記にも残しておらず, 何処まで尋ねたりしたのかも, 記憶していない。何はともあれ, この日はそのまま家に泊めてもらった。

アレッポ日記 19

アレッポ日記 20

さてさて, 

次は 1983年9月9日付の旅日記, その一日だけで日記帳の9ページ分。

若者たちとの交流, 宗教・イスラームのこと, そして アラブのもてなし 〜 1983年9月9日

1983年9月9日 金曜日, イスラーム圏だから金曜日は "聖なる日", よって休日。アレッポ滞在, その 5日目。この日の日記は 9ページにわたって, 書かれている。

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シリアの若者たち 3人と「アラビア料理」の朝食。その後, トランプ。彼らのやり方を教わって遊び, こちらも「7並べ, ババ抜き, ド貧民などを教え」, 一緒にやった。

旅日記にある, 

アラビアの楽器 マンドリンを でかくしたようなもの を弾かせてもらう。

とは, たぶんこれだったと思う, ウード。弾いたのは(アレッポ, パルミラの後で行った)ダマスカスでなく, ここ, アレッポ だったけれど。

Syrian Oud player Kinan Ednawi, "Festival in Damascus" ♫

シリア人奏者による哀愁(のサウンドという感じに聞こえる音)の ウードOud, アラビア語 عود‎(ˁūd))の演奏を聴きながら, 1983年9月9日 シリア, アレッポの街へ。

アレッポ日記 21

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アレッポ日記 22

ハターハのかぶり方を教えてもらった。

と書いてあるのは, クフィーヤ(كوفية‎, Kufiya)のことだったと思う。アラブの男たちがかぶる, 要するに頭巾のようなあれ。地方によっていろんな呼び方があって, そのなかにハッタ(حَطّة, ḥaṭṭah)というのものある。多分それのことを書いたんだと思うけれど, であれば, これ。シリアでもらったものか, ヨルダンやパレスチナで買ったものか, とにかくこれ。2017年に Facebook に投稿するために撮ったものだけど(既に一部黄ばんでしまっているけれど), 今も自宅のリヴィングに置いている, 1983-1984年の旅から持ち帰ったクフィーヤ(ハッタ), 「ハターハ」。

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前頁からの続き。以下の旅日記の4行目からは宗教, 神を信じるかどうかって話。今ならはっきりと「無神論者」, "Atheist" だと言明する自分だけど, 当時だって本当は少なくとも(人間は「神」の存在を証明することも反証することもできないと主張する)「不可知論者」だったに違いない, だから英語で言うならせめて "Agnostic" だとして説明を加えるべきだったのだが, 彼らの真剣さ, その勢いに押され, なんとなんと.. もう端(はな)から "負けてしまってる" 言い方をしていたことに, そして最後の最後まで押されてしまってたようであったことに, 日記のこの部分, 三十数年ぶりに見て気づき, 些か驚いた。今の感覚からだと, 我が頭の中は「驚天動地」(笑)。  

彼らは宗教について, 本当に真剣だ。I believe there is a great power over the sky. I can say it's God, so I think I believe in God と言うと, スーフィーは, I think というのはあいまいで, I'm sure か I'm not sure なのかと本当に真剣な顔できいてきた。オレは彼の表情におされて I'm sure と答えた。

いやはや, なんと日和見な「不可知論者」。いま私は声を大にして訴えたい, 私は無神論者です, I'm an ATHEIST .. lol (笑) まぁ笑ってごまかすわけではなく, ハッキリ言って「無神論者」なんだから。しかしあの時はもう, まわりの雰囲気でああ言うしかなかったのかな, とにかく, タイムカプセルにでも乗って 38年前に戻って, 前言撤回, 訂正・編集・上書きしたいくらいで(笑)。

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habitance と書いてあるように見える部分は明らかに間違い。彼らが言ったことを聞き取って書いたのか, あるいは単に間違いを書いてしまったのか分からないけれど, 要するに「習慣」を意味したかったのだろうなと。habitual practice とか habitude とか。かっこつかないので, 以下の引用では, しっくりとは来ないけれど, habitude に代えておきたい(ついでに言うと, 前段は 今なら "the idea" そのものに問題が含まれていると言明したいところだけれど)。 

オレは I think the idea of Islam is very good, but in fact, how about the equality between men and women? と言った。彼らは, イスラーム圏がいくつかの好ましくない traditional habitude を持ってることを素直に認めている。

アレッポ日記 24

「ラマダン」はイスラームの断食。そして, 「男が 4人の妻を持てること」とは要するに, 有名な, 4人までの女性を娶ることができるという "一夫多妻" のことだけれど, あれはイスラームが勃興して信仰を広範な地域に広めていった初期の時代, 戦乱が続いて(つまりイスラームも「布教」は戦争をも通して行なわれていたのだ)夫の戦死により未亡人となって苦労する女性に対する救済措置という意味があったわけだけど, しかしいくら当時はそういうある種の "合理的な" 事情があったとはいえ, "back then", つまり "当時はね", "あの時はさぁ” と言って説明するところまでは分かるとしても, それを現代にまで引きずって持ってきていることはどうにもこうにも非合理的。時代が変わって時代に合わなくなった, 変えるべきものがあれば, よい意味で時代に合うように変えればいいのに(他にも裁判において女性の証人としての価値は男性のそれの半分であるとか, 遺産相続権も女性は男性の半分であるとか, そういったことはイスラームという宗教が興った紀元7世紀の "back then", "当時は" 先進的な考えだったのではあっても現代においては明白な性差別と見做されるべきであるにもかかわらず, それが変わらない), そもそもがそうした "idea" は全て "神" なるものの教えということになっているから, 時代が変わって正す, 修正するということに極めて大きな, 根源的な困難が伴うことになる。これがつまり, 宗教というものの, その源からある問題だと思うのだが。  

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しかし兎に角, 彼らが宗教や "神" について, 「きわめて真剣」であることは確か。因みに, 

アレッポにはいくつかの教会もある。クリスチャン人口は 10% と少し, その他 ユダヤ教信者も数% 。

ここでいう「教会」とはキリスト教の「教会」を指す。アレッポにはユダヤ教のシナゴーグもあった(ユダヤ人もシリア国民として住んでいる)。

アレッポ日記 25

見せてくれた写真のなかに, 何人か, パレスチナ人学生がいた。J.. は 反対派のコミュニストと活動するパレスチナ人は嫌いだと言った。

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そう単純ではないのだ。アレッポ大学にも, たくさん パレスチナ人学生が いるようだ。

引き続き, 旅日記の次の頁からの引用。

彼ら イスラーム は, 肌の色も国籍も宗教も don't mind, もちろんユダヤ人であれ, ユダヤ教信者であれ。そのことは本当に感じる。

今なら少し違う書き方をするが, しかし確かに一般のムスリム(イスラームを信仰する人々)の多くは, どのくらいの比率になるか分からないけれども, 兎に角その多くは心やさしく, 差別主義的なところがない人たちだと思う。とは言っても, それを言い出したら, 他の宗教の信者たちも(どの宗教にしても, その大方は, と条件付けしなければいけないが)そうなんだろうけれども。ただ, 根源的な教えの中に本当に問題はないのだろうか, とそこを考えると, それは信者の大方の態度ということとは, また別の問題になるのだろうと思う。

アレッポ日記 26

彼らは 本当に よくもてなしてくれるが, それはごく自然だ。

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当たり前というかんじ。世話してやってる なんてところは全くない。同時に彼らは, 自分たちの文化などに関して 非常に誇り高い。かつ, 好ましくない旧習のあることも素直に認めている。

アレッポ日記 27

男と女は高校まで別。大学で共学になる。
チャドルの女は 思ったより ずっと少ない。

チャドル(チャドール)はムスリム(イスラーム教徒)の女性が着る, 黒地の布で頭からかぶり全身を覆い隠すもの。顔は隠さない。目以外の顔まで覆うのは ニカブ。目の部分も網状の布などで隠すのは ブルカ。一方, ヒジャブ(ヒジャーブ, ヘジャブ)については, ムスリム女性が頭や身体を覆う布全般を指すとするとの説明を見るが, 一般には上記の各種と比べて髪だけを覆うものに対して特にヒジャブという言葉が使われているのではないかと思う。ヒジャブ(アラビア語 حجاب. 英語で表記する場合 Hijab)は, もともとアラビア語では「覆うもの」という意味。

スーフィーは本モノの ピストル を持っている。

彼が銃を持っていたのは, 上掲の日記にあるように「政府関係の仕事をもして」いたからなのか, 事情はもはや分からない。前日の日記に関し "祝砲" について触れたところでも書いたが, シリアの銃規制の詳細はどうだったのか不明。

レバノンでの戦争について, against イスラエル & U.S.A. と言った。

シリアの後に行ったヨルダンでも, またその後に旅したパレスチナにおいても勿論そうだったが, 対イスラエルということだけでなく, いわゆる反米の考えや感情を表わす人は多かった。まぁアメリカ合州国という国の世界における在り方に関してならば, 中東(西アジア)諸国を旅する前に旅したヨーロッパ諸国においても, 何度も何度も "反米" の声を聞いたのではあったが。

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兵役の話。

アレッポ日記 28

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アラブ人は 人のもてなし に慣れてるんじゃないかな。

客人をもてなす, それもごく自然にもてなす。それは彼らが長い歴史の中で伝統的に培ってきた人付き合いの作法なのかもしれない。

E.. は '67年生。つまり 15, 6才。しかし日本の 15, 6才と比べると ずーっと大人。

これは人によりけり, たまたま彼個人がそうだったのかもしれないのだが, アジア圏に限らず言うのなら, とりわけヨーロッパ諸国を旅していたり, 旅の間に欧米の若者と知り合い親しく話したりする中で, 彼らが同年代の日本の若者と比べて随分と "大人" であること, 端的に言えば彼らの方がよほど "自立" しているように思えたのは確か。

「シャイ」(シャーイ)はアラビア語のお茶もしくは紅茶。

この頁は, 途中から 1983年9月10日(アレッポを発って, パルミラに向かう日)。

アレッポ日記 29

さてさて, いよいよ,

5泊6日した アレッポ を発って, パルミラ へ。

お世話になったアレッポの若者たちに別れの挨拶をし, そして古代ローマ帝国の時代の大規模な都市遺跡があるパルミラへ 〜 1983年9月10日

5泊6日した アレッポ の街を離れた日, 1983年9月10日

アレッポ日記 29

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アレッポ を発って, いざ, パルミラ へ。「きれい」なバスに乗って, 経由地ホムスに着くと, そこから パルミラ行きのバスは「朝の 9時のみだと言う(既に 10時をすぎていた)」。

上掲の頁の日記にある通り, 観光案内所をみつけ, カタコトのアラビア語で挨拶しつつ, 他にパルミラに行く方法がないか尋ね, 毎時出ているというローカルバスがあることを知った。

バスは きたなかった。
たぶん アレッポ から ホムス も, きたなくて安いバスが あったと思う。しかし誇り高き J.. や スーフィーは, きっと きれいな方(したがって少し高い)に乗せたかったのだろう。

アレッポ日記 31

*以下も, パルミラに着いてから書いた, 上掲の頁の旅日記からの引用。P.L.O. をカタカナ書きしたのは, 後に行くイスラエルでの荷物検査を想定した "万一" あるいは "もしも" に備えて。「真近」は正しくは間近。

運転手の息子と思われる子供が 中で働いてる。荷物運び その他。かんじいい子だった。
途中から 完全に砂漠。ベドウィンのテント。途中で降りる人たち(=ベドウィン)。彼らが ベドウィンであることは パルミラでも きいたから確か。

また「異邦人」してしまった ♫

.......

さてさて, 1983年9月10日 の現実, あの日の シリア, ホムス から パルミラ への旅に戻して。

戦車の群れ。爆音。土けむり。なんと シリア軍(か, もしかしたら ピー エル オー)の演習だった。軍の演習を真近で見るのは初めてだ。
タドモル(パルミラ)につく。つく前, 広大な 遺跡 をみて カンゲキ。

上掲の日記にあるように, パルミラの "New Tourist Hotel" へ。

とここまで来て, 次回は, ローマ帝国の時代の古代都市の大規模遺跡がある パルミラ を note, 今日はその前に, シリアに入る前までの旅についてざくっと。

1983年4月26日に日本を発ってから, 初めてのアラブの国 シリア を訪れる前までの日々 (ソ連, ヨーロッパ, トルコ)

1) 1983年4月26日 に日本を発って, ソ連から北欧を旅し, さらにヨーロッパを南下, イタリアの旅に至るまでの各国各都市の旅 note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の 第3章以降に

2) ギリシャには 1983年7月11日 に入国, 8月9日にトルコ・イスタンブールに向かう列車でアテネを発つまでの ギリシャ30日の旅, アテネ 5編やサントリーニ島 1編などの note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の 第2章に

3) トルコ・イスタンブール 第1編: ガラタ橋で眺めた夕日 〜 1983年8月15日, 日本を出国して112日目(イスタンに着いたのは 8月11日, 日本を出て108日目)

4) トルコ・イスタンブール 第2編: 1983年8月16-17日, スルタン・アフメト・モスク(Sultan Ahmed Mosque, トルコ語では Sultan Ahmet Camii)とボスポラス海峡(Bosphorus Strait, もしくは Bosphorus Straits) 〜 Sultans of Swing, Dire Straits

5) トルコ・イスタンブール 第3編: 1983年8月18-31日, イスタンブールは「旅心」の琴線に触れる街

6) トルコ・イスタンブール 番外編: 1983年8月, イスタンブールで同宿した, イラン・イスラム革命後4年のテヘランを脱出して来ていたイラン人兄弟から聞いたイランやイスラム革命などについての話を, 当時の旅日記で振り返る

(タイトル上の写真は, 1983年11月16日のイラン・テヘラン市街, 筆者撮影)

7) カッパドキアトルコ) 〜 1983年9月1, 2日

8) そして, いざ アラブ世界へ .. いやその前に, シリア(シリア・アラブ共和国)入国前に滞在したトルコ国境 近くの街 アンタキヤ 〜 1983年9月3, 4日

アンタキヤは現代ではトルコ共和国の街ながら, 歴史を遡れば, 古代シリア地方北部の主要都市アンティオキア。この街が属すトルコのハタイ県は, アラブ系の出自を持つ住民が多い。話す言語に関しても, 今もこの地方はアラビア語のシリア方言とトルコ語との, 多言語話者が多いということで, ここで既に半分(近く?), アラブ世界に足を踏み入れた感あり, なのだった。

最後に, もう一章, いや二章。

2016年12月のシリア, アレッポ

38年前の今頃, シリア にいた。1983年9月5日から10日までの5泊6日は, シリア第2の都市, 人口で言えば当時は首都ダマスカスを上回り最大の都市だった(21世紀のシリア内戦後, 人口はダマスカスを下回ることになった)アレッポ に滞在した。そこで, 当時の年齢にして二十歳前後だった同世代の若者たちと親しくなり, 文化や宗教, 政治や日常生活にわたり随分といろいろなことを話し合った。また, 世代を超えて, 多くの人から親切なもてなしを受けた。

5年前, 2016年の12月, アレッポは陥落寸前に追い込まれていた。正確に言うと, 2011年3月に始まり今も続くシリア内戦の中で, 当時, 反政府側の最大最後の砦と言われていたアレッポが, ロシアやイランの支援を受けたシリア政府軍の猛攻を浴び, 陥落されようとしていた。一体どれだけの人間が命を落としたのか, 殺されたのか, 分からない。兎に角あのとき, いたたまれなくなって, たまたまネット上で見つけた東京での集まり 〜 シリアでの殺し合いが終わるように, もう誰も殺されないようにと願う, 同年12月18日の東京での集まりに, 妻と共に出かけた。段ボール紙にメッセージを書いたものを用意し, 六本木で目抜き通り, 交差点付近での無言のスタンディングに参加し, その後, 渋谷で行なわれた同じ趣旨の集まりにも参加した。声高に叫ぶことはしないで, ただ人が集まり, 師走の東京で, 道ゆく人々に静かに訴える, そんな集まりだった。

あれからまた 5年近い歳月が過ぎようとしているが, シリアの多くの人々の苦しみは終わっていない。内戦も終結したとは言えない。しかし, あれ以来, 政府側の圧倒的優勢が続き, シリアの状況についての報道はめっきり減った。

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シリアの内戦の問題は, 非常に難しい。ややこしい。最初は民主化を求める民衆の純粋な願いから政府の政策に反対する運動が始まったのだろうが, 政府側をイランやロシアが支援し, 反政府側をアメリカ合州国が支援し, そこにトルコやイスラエルも介入し, さらにはアルカーイダ, IS(いわゆる「イスラム国」*)などのイスラーム原理主義の過激派が入り込み, 敵味方が入り乱れ, 複雑怪奇な争いの構図が出来上がっていった。

*話は逸れるが, アルカイーダは, 1970年代末以降アフガニスタンにソ連が侵攻していた時代にアメリカがそれに対抗させるためウサーマ・ビン・ラーディンなどのイスラーム原理主義者に大量の資金や武器を与えたことで大きくなったものだし, IS も, アメリカがイラクによる大量破壊兵器保持もしくは開発と, さらにアルカイーダとの関係という二つの全くの嘘をでっち上げてイラクを攻撃し, サッダーム・フセインの世俗的な独裁政権を転覆させて同国の世俗社会を破壊しなければ, 生まれなかったかもしれないものだった。

話をシリア, 2016年12月のシリア, それ以降のシリアに戻す。

上に書いた通りで, シリアの内戦において, 何が正しくて何が悪か, などといったことを語ることは非常に難しい。内戦に介入したシリア以外の諸外国やイスラーム原理主義の過激派勢力の動きがおぞましいものであることは確かだけれど, そして, 1971年から29年間の長きにわたり続いた父親ハーフィズ・アル=アサドによる独裁体制を 2000年に受け継ぎ, 以降, 既に父親の長期独裁に近づくような歳月において大統領であり続ける現在のバッシャール・ハーフィズ・アル=アサド大統領の体制は, 当然ながら「民主的」な体制であるととても思えないのだが(支持者は彼が選挙の洗礼を受けていると主張するが, どこまで「民主的」な選挙だったのか判断することはやはり困難), 一方で, イスラーム原理主義の過激派勢力が指導層に入り込んでしまったかに見える反政府側にどれだけの正当性が認められるのか, それも怪しくなってしまっている(そもそも反政府側も一枚岩の組織の状態からは程遠い環境に置かれているのだろうけれど)。実際, 報道によれば, シリア領内で現在の反政府側に残されている唯一の場所と言え, 内戦による避難民が多く居住しているとされる(アレッポから 60kmほど西に位置する)イドリブは, その支配層の中心にアルカイーダ系の勢力が居座るような状況に陥っているようなのだ。

2016年12月18日, アレッポの人々の命がこれ以上失なわれないように, 彼らがこれ以上殺されないようにという願いで, それだけで東京にやってきた人々の集まりの中に身を置き, その後, 家に帰ってきて, しかしやはりいたたまれない気分は収まらず, ワケの分からないもやもやした気分を抱えて, 気づいたら家にある色んなものを並べ始めていた。で, 何とは無しに, 写真を撮った。

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想像してみよう 〜 ジョン・レノン

ジョン・レノンは, 「想像してみよう, 天国なんてないってことを」「想像してみよう, 国も国境もない世界を」と歌ったけれど, シリアの内戦は, 文字通りシリアという一つの「国」の中で, その「国境」の内側で起きた。そして数え切れないほどの数の人々の命が失なわれた。「失なわれた」というよりも, それぞれの「人々」は, 対立する側の「人々」によって, 殺された。

「平和に機会を」, と言ってもコトは簡単に実現できるものじゃない。それは明らかにそうなんだけど。

クリスマスにはまだ早い。それに, 自分は無神論者だけど。そもそも, ジョン・レノンだって, クリスチャンだったわけじゃないだろうけれど(彼の "God" という歌は秀逸)。しかし, この歌は, ある種の「祈り」みたいなものだったんだろう, おそらくは。

ジョン・レノンの曲, "God" については, 上掲リンク先 note の冒頭「はじめに」の次の章に書いた。

God 〜 from "John Lennon/Plastic Ono Band", John Lennon's first solo studio album after the breakup of the Beatles, released on December 11, 1970

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部, 最初のヴァースと最後のみの掲載に改めました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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God is a concept by which we measure our pain
I'll say it again
God is a concept by which we measure our pain, yeah
Pain, yeah ..

...

And so dear friends, you just have to carry on
The dream is over

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