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海外「放浪」蔵出し写真集 〜 "Every Picture Tells a Story" (Rod Stewart) [歌詞和訳]

前説

写真は 1983年6月1日、「分断国家」ドイツ、「ベルリンの壁」があった時代で西ベルリンは陸の孤島化、その当時「東ドイツ」(ドイツ民主共和国, 「民主」というのは殆どギャグだけど)領「東ベルリン」側にあったブランデンブルク門の前で記念写真に収まった筆者、911の誕生日を迎える前、22歳(*1)。

ほんとは放浪「もどき」だから(*2)、タイトルでは「放浪」と鉤括弧を付けた。帰国したのは 1984年2月1日だけど(韓国・釜山港からフェリーに乗って下関に来て「母国」日本に入国)、その後何度も行くことになる広島を初めて訪れ3泊してから静岡県の田舎の実家に帰ったのが、今からちょうど 37年前、1984年2月4日だった。

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ユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅をすることと「おおよその」行きたい国は想い描いていたから、単に「放浪」と言ったら言い過ぎ。自由に旅ができないソ連以外は宿や交通機関の予約などしていなかったし、厳密には行く国の全てなど決めておらず、当然それぞれの滞在日数も決めてなかったから、その点はまぁまぁ「放浪」に近いんだろうけれど。

1983年4月26日に横浜港を発って「国」名だけ挙げると当時のソ連、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、西ドイツ、東ドイツ(東ベルリンのみ)、フランス、スイス、オーストリア、(当時のチトーの)ユーゴスラビア、イタリア、ギリシャ、トルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプト、再びトルコ、イラン、パキスタン、インド、タイ、韓国を旅し、1984年1月31日に韓国・釜山港を発って翌2月1日に下関港にて入国手続き、10ヶ月に満たないからバックパッカーの海外一人旅としてはさして長い方ではないと思うが、兎にも角にも、帰国した。静岡県の実家に戻ったのは 2月4日のことで、帰宅前、広島に(3泊4日)滞在した。

今日 2021年2月4日現在、note ではまだ当時のソ連・ヨーロッパ方面のことは殆ど書いてないけれど、多分そのうち書くと思う。以下はこれまでの関連 note 投稿を入れたマガジン。

Every Picture Tells a Story 〜 海外「放浪」もどきの旅の写真集、特に厳選しないで(笑) 数十枚

"Every Picture Tells a Story" をオンライン辞書で引くと、中には堂々と「ロッド・スチュワートが1971年に発表したサード・アルバム」と書いてあるものもある。まぁ勿論それはその通りだけど、これを例えば dictionary.cambridge.org で引くと、"said when what has really happened in a situation is clear because of the way that someone or something looks" と出る。

要するに、人物や物がどう見えるかによって何が起きたのかが明白になる、といった意味、ということだろう。似たような意味の英語の言葉に "A picture is worth a thousand word" があり、日本語の「百聞は一見にしかず」に当たる "Seeing is believing" に通じるところがある、ということのようだ。

アメリカ合州国のソフトロックのバンド Bread の 1971年のヒット曲に "If" という美しい歌があるけれど、その出だしが "If a picture paints a thousand words, then why can't I paint you?", これはおそらく "A picture is worth a thousand word" から来ているんだろうな。

脱線した ♫

話を戻すと、"Every Picture Tells a Story" は直訳すれば「どの写真(絵)にも物語がある」ということになるわけだけれど、実際、この文字通りの意味で使うこともあるわけで、ここでは、1983年から1984年にかけての海外「放浪」もどきの旅の間に撮った写真の中から、あまり深く考えないで(深く考えて選んでたらおっそろしく時間がかかる、今日の本題はとりあえず次章の歌の方にしておきたい)、適当にピックアップすることにする。

厳選してられないのでざくっと選んだ写真は、国の名前だけ挙げると、訪問国全ては取り上げられなかったけれど、

まずは先に紹介したドイツ、そして以下では、上からイタリア、時間的に戻ってソ連(今のロシア!)、ノルウェー、デンマーク、フランス、イタリア、ギリシャ、トルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナ(とイスラエル)、エジプト、再びのトルコ、それからイラン、パキスタン、インド、タイ、韓国、そして帰国してからの日本での写真。

1) まずは、1983年7月5日、イタリア・ローマで出会ったカップルの写真。おそらくはストレートのカップルだと思うが、この写真、見ようによってはゲイにもレスビアンにも見える。当時の日記を見れば何か書いてあるかもしれないが、今日はそこまでは調べない。拙者はアブラハムの宗教の信者なんかじゃないし(そもそも無神論者)、当然ながらイスラームのコーランもハディースも信奉しないし、あたり前田のクラッカーで(これは普通 1960年生まれの拙者であるところの筆者と同世代かその上ぐらいの人にしか通じない、笑)、イスラーム法「シャリーア」なんか大嫌い。あ、拙者は病気じゃないんで「イスラモフォビア」なんかじゃありませんよ、単にああいう人間の思考を縛りつけクリティカル・シンキンングを妨げる莫迦莫迦しい「思想」が大嫌いだと言ってるだけのことなんだよ。と、に、か、く、自分はストレートだけど、当たり前田のクラッカーで(しつこいか) LGBTQ の人たちの人権は当然擁護・支持する。

脱線した(笑)。とにかく、ローマで撮ったカップルの写真。上に Bread の名曲 "If" を載せたので、これを最初に掲載したくなった。

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2) 次は、1983年5月3日にソヴィエト連邦(もちろん現在は「プーチン帝国」ロシア!)の、バイカル湖がある街イルクーツクで撮った、ソ連の赤軍兵士の写真。美人兵士がいるんですねぇ。美人だろうが美人でなかろうが、野郎だろうが乙女だろうが猛女だろうが柔な男だろうが、兎にも角にも、これらの兵士の一人一人が当時それまでに人一人殺したことがなく、その後も誰一人殺していないことを切に願う。

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3) 次は、1983年5月17日のノルウェーの首都オスロにて撮ったストリート・ミュージシャン。この日は同国では独立記念日に当たり、街は民族衣装で着飾る女性が多く見られたり、パレードする若者たちが沢山いたりで、華やかで観ていて気持ちいい「お祭り騒ぎ」の日だった。

写真はこの下に載せるけど(2枚)、まぁ何というか、G. Love & Special Sauce みたいなイカした Guys だね。

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4) 次、1983年5月20日のデンマーク、首都コペンハーゲンで出会ったファミリー・ストリート・バンド。お母さんは何処にいたのかな。「あなたのワイフは何処にいるの?」って彼に尋ねたかどうか(笑)、それは当時の日記を読み返さないと分からない。写ってる子どもたちは今、もう40歳前後になってるね。70歳近くになってるはずの親父さん、今も元気にギター弾いてると思います(と書いてるのは昔バンドやって今もギター持ってるのに近年ずっと弾いてない昨年「還暦」オヤジの日本人なんだけど)。

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5) 同じく 1983年5月20日のデンマーク・コペンハーゲン。世界的に有名な人魚姫の像は、実はこんなに小さい。写真の 2, 3枚目はその人魚姫に抱きついたりブラを着けたりして遊ぶ地元(だったと思う)の若者たち。

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6) 次は 1983年5月22日のデンマーク・コペンハーゲン。グラスルーツ、草の根の人たちで企画して始まったというカーニヴァルの時に撮った沢山の写真から 5枚。カーニヴァルは「謝肉祭」で、元々カトリックなどキリスト教文化圏で行なわれてきた行事ということだけど、現代ではそんな宗教的背景を持たずとも祝祭として人々が楽しむ例も多いと思う。

これは何と筆者がコペンに行った年の前年 1982年に始まったカーニヴァル。

カーニヴァルはそれぞれ発音は微妙に違うけどフランス語やスペイン語・ポルトガル語などでは Carnaval, イタリア語では Carnevale, 英語では Carnival, ドイツ語では Karneval, デンマーク語では Karnevallet で、発音はこれです。

写真 5枚は、これの下に音楽リンクを 2つ載せ(大貫妙子とサンタナ)、その後に掲載。

Carnaval ♫ 〜 大貫妙子

Carnaval/Let The Children Play/Jugando ♫ 〜 Santana

コペンハーゲンのカーニヴァルは、サンバのリズムにのって市民が踊りながらパレードする。だから、上の大貫妙子よりもこれの直ぐ上のサンタナの方が雰囲気出るね(3枚目はサンタナの 2曲目 "Let The Children Play" を聴きましょう ♫)。

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大道芸もやる。

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ビール瓶持って走る女の子。まぁ女の「子」という言い方は俗に言う言い方だけど、子どもじゃないんだから(たぶん!)、問題ない。既に飲んでたら酔いが回るけど(笑)。

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7) 次は フランス、言わずもがなの首都パリ。2枚目の写真は、シャンゼリゼ, Champs-Élysées ♫

これはもちろん、凱旋門。「オー、シャンゼリゼ」♫ は 2枚目の写真。

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次は、残念なことに一昨年、2019年4月15日に大規模火災が発生して尖塔などを焼失した、シテ島のノートルダム大聖堂。

写真の左下に写っている女性は、筆者がパリにいた時に付き合っていたパリジェンヌ, Parisienne .. 筆者は実は何を隠そう、パリ生まれ・パリ育ちのパリジャン, Parisien ♫

写真は以下の歌(しかも 4曲分、笑)へのリンクの下!

KONGOS と言えば ... そうなのだ、写真のノートルダム大聖堂の手前、左側に写っている彼女がそのあと拙者に言ったのだ, "Come with Me Now" ♫

だからジョークだってば我慢して ♫ Even the patience of a saint has limits. 聖人の忍耐にさえ限度はある(「仏の顔も三度まで」!)。Have a little more patience. もう少しの辛抱です。Patience is a virtue. 忍耐は美徳である(「石の上にも三年」!)

さて、ようやく、真面目に、引き続き、

以下に、写真をば。

パリでの写真は、ここではあと 6枚。 

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次は Pont Alexandre III, アレクサンドル3世橋。パリの美しさが伝わる、筆者、自慢の写真(エヘン! .. え、変)。

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次は、パリにいた約1週間泊まっていたホテルの部屋。なんと Hotel Henry IV という名のホテルだったが、当時のレートで(1アメリカ・ドルが約250円の時代だった、フランスのフランのレートまではもう覚えてない)円換算して、一泊 1,000円ほどだった。要するに 4 US dollars/night だったと記憶してるので。アラブ人街で見つけた安宿で、1階の狭い入り口を入ったところにあるレセプションではその木机の引き出しにピストルが入っていたし(フロントデスクのアルジェリア移民、いや、モロッコからの移民だったかも、当時の日記を見れば分かるが今日は詳細割愛、とにかくよく喋る面白い男たちだったという記憶が残っているが、彼らがピストルを見せてくれた)、部屋ではある晩ネズミが出てきたくらいの(マジで出てきた、そりゃ流石に驚いた)オンボロ宿。ピストルの話のついでで書くと、ホテルの近くにバーがあって飲みに行ったんだけど、そこの客にも「俺、ピストル持ってるんだぜ」ってピストル見せられた。いやはや(笑)。

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次、セーヌ河畔の本屋さん。

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次はパリ市内、公園で娘に自転車の乗り方を教える親父さん。筆者もこのくらいの歳の頃、田舎の親父殿から家の前の狭い道で自転車の乗り方を教わったし、筆者自身、息子がこのくらいの歳の頃、家の近くの公園で息子に自転車の乗り方を教えた。世の中の親子、それが父親にしろ母親にしろ、娘にしろ息子にしろ、やることは大体似たようなもん。ある意味、世の中、似たり寄ったり、どっこいどっこい。なーんて類のことを「何でも見てやろう」の故 小田実も言っていたような気がする。

因みに、1979年以来「イスラム共和国」となったイランでは、女性は街で自転車に乗ることを禁じられている。バイク(モーターサイクル)はおろか、自転車もだよ。ヒジャブを被らなければ街も歩けないが(実際、牢屋に入れられた女性は数知れず)、自転車にも乗らせてもらえない。あの国でそういう莫迦げたあの国のイスラム法「シャリーア」に抵抗して闘っている女性は少なくないが、そうした勇気ある闘いをする女性のことは(不自由を強いられて生きる女性とともに)本当にリスペクトする。この章の最初の方で載せたイタリア人カップルの写真のところでも書いたが、筆者は「イスラモフォビア」なんていう名の病気の病人ではない。ユダヤ教、キリスト教、イスラームといったアブラハムの宗教に限らず、現代において宗教の名の下で政治を行なおうとする、人間の生活を戒律で雁字搦め(がんじがらめってこう書くんだ、笑)にする神政国家が大嫌いなだけだ。

脱線した。自転車は線路の上を走るわけじゃないので脱線しない(笑)。でもバランスを取れるようになるのには少し訓練が必要だ。このパリジェンヌ、今は 40歳と少しくらいかな。彼女も成長して大人になって(もしもそれを望んで)子どもが出来たなら、こうして自分の子に自転車を教えたんだろうな。そうやって人の営みは繰り返される。スタンリー・キューブリック Stanley Kubrick 1968年の不朽の名作 "2001: A Space Odyssey" (邦題「2001年宇宙の旅」) は案外そういうことを(も)表現している映画だったのかなと思う。

あ、また脱線した(笑)。さんざん勿体振ったけれど、写真はこれ。

あ、上はなんとアインシュタイン、歌は Queen の "Bicycle Race" ♫

ようやくのこと、写真はこれ。

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次はもう一度、セーヌ河畔の本屋さん。いや、こっちは本屋じゃなくて、絵とか写真とかのアート系を売っていた店。

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8) その他、フィンランド、スウェーデン、タイトル上の写真以外のドイツ、それからスイス(ツェルマットのユースホステルから観たマッターホルン、美しかった、その写真はまたいつかの日の note にて!)、オーストリア、チトー時代その崩壊前のユーゴスラヴビアの写真なども載せたいけれど、キリがない。

イタリアはヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ(「ローマ市内」にある神政国家の国「バチカン市国」にも行った)、ナポリに滞在して、当然ながらそのどれもに思い出があるけれど、ナポリから行って見物したポンペイの遺跡も強く印象に残っている。ポンペイの写真は以下の note 投稿の中に 11枚。

9) ギリシャでは、首都アテネと地中海の島サントリーニに、合わせて 1ヶ月滞在した。以下、筆者の過去の note 投稿 2点。2つ目の方はああいうタイトルだが、「Dire Straits のカヴァー写真は、1983年夏にアテネで撮った写真にちょっとだけ似てるのだった」という長い見出しの章に、アテネのアクロポリスの丘で撮った沢山の写真から 2枚だけ載せてある(と言ってもうち1枚はこの直ぐ下の妙なタイトルの note 投稿で使った写真と同じ)。

10) ギリシャはアテネから、トルコのイスタンブールへ 2泊3日の列車の旅。イスタンに着いたのは 1983年8月11日の朝。その列車の同じコンパートメントに、ふたりの若い女性バックパッカーがいた(って筆者も若かったけど)。その彼女ら、イスタンに着くまでの間ずっと、Hall & Oates の前年 1982年のヒッ曲 "Maneater" を歌ってた。しかも、繰り返し、何度も何度も。Maneater ですよ、Maneater ... そりゃもう筆者は当然ながらいつ彼女らに食われるのか、じゃなかった襲われるのかワクワクして、じゃなくて怖くて怖くて、真夏だし暑くて暑くて熱くて熱くて、HOT で HOT で、堪らんかった。

実話だけど、プライベイトなことだからなぁ、イメージがないとつまらんという人には、この歌のリンクの下に当時筆者が観た二人の「イメージ」画像を載せておこうと思う。

以下、写真は「イメージ」ですぞ、イメージ。イ、メ、エロ、じゃなかったエ、ジ。

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11) イスタンブールで撮った写真は、とりあえず筆者の過去の note 投稿の中にある。1つ目の投稿には昼間のボスポラス海峡やブルーモスク(スルタン・アフメト・モスク)などの写真、2つ目の妙なタイトルの投稿には夕暮れ時のボスポラス海峡の写真(3枚)、3つ目のタイトル上にゲバラの写真を使った投稿では「次は、『ただの日本人』の イスタンブール 1983年10月 〜 Almost Cut My Hair ♫」と「イスタンブールのスルタンアフメト・モスク (Sultan Ahmed Mosque), ボスポラス海峡 (Bosporus, Straits) 〜 "Sultans of Swing" by Dire Straits ♫」という相変わらず見出し長いなの 2つの章にそこそこ沢山の写真が掲載中。

12) 次は、シリア。シリアでは、アレッポとパルミラと首都ダマスカスに滞在した。以下の過去の note 投稿 2点で、パルミラで撮った写真を掲載している。パルミラに行ったのは 1983年9月11日、その日は筆者の 23歳の誕生日だった。

1つ目の投稿の最後の章「古代遺跡が大好きな皆さん、お待たせしました、シリアのパルミラ 〜 IS 通称『イスラム国』の莫迦どもが破壊する前の見事な遺跡の姿、蔵出し写真集」の中に、パルミラで撮った写真から、「蔵出し」16枚!

あのですね、この投稿、冒頭の方には、なんと懐かしのアグネス・ラムの写真まである(笑)、拙者「得意」のカオス投稿。

1960年911生まれの筆者、2019年911, 59歳の誕生日に note 登録して、その日にアップした最初の投稿テキストが以下のもの。2001年911 のアメリカ同時多発テロには、言うまでもなくシリアもパルミラも一切関わっていないのだが、訳つまりワケあって、筆者が 1983年911, 要するに自分の 23歳の誕生日にパルミラで撮った写真を使った。

13) 次は、ヨルダン。ヨルダンでは、首都アンマン、そしてアカバ(隣接するイスラエル領の街エイラートに近づいて肉眼で街の様子を見ようと思い海岸沿いを歩き続け、見事ヨルダン陸軍のライフル担いだ兵士 2人に身柄確保されるという、今となっては笑える「事件」発生)、それからシリアのパルミラと並ぶような美しい遺跡があるペトラに滞在した。

ペトラでは、ベドウィン一家のテントのところに泊まった。「のところに」というのは、金は払ったけれど、テントの中でなく、テントの外だったから(笑)。でもベドウィン一家のお母さんが焼いたパン(インドのチャパティに似てる)はすごく美味かったし、ペトラで観た満天の星の美しさは、昨年「還暦」を迎えた筆者 60年余のこれまでの人生で観た星空の中で、最上級の美。ただし、地面の上に敷いた寝袋の中に入って寝たその地、ガイドブックにはなんと「サソリが出るので要注意」との但し書きが書かれているような土地なのだった(笑)。

ペトラ、サソリならぬ麗しき女性。あ、真面目なペトラの写真はこの下。

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上の写真、まるでペトラだけど、でもまぁペトラじゃないよな(笑)。

下の 7枚は、マジな写真。筆者が 1983年9月25日にペトラで撮った写真。6枚目は一晩世話になったベドウィン一家のお母さん、調理中。7枚目は一家の赤ちゃん。赤ちゃんの可愛さはもちろん万国共通。

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14) 次は、パレスチナとイスラエル。

以下のマガジンの中に、1983年秋に 3週間かけて旅した、観た、パレスチナとイスラエルにおいて筆者が撮った写真が掲載されている投稿テキストが、数多く収録されている。

言うまでもなく、パレスチナは 2001年911 のアメリカ同時多発テロに一切関わっていない。ただ、これは本来一言で語ることではないのだが、あのテロの歴史的な背景を考える時、アメリカ合州国という国が、そして西洋社会が、パレスチナを含む中東に対して(近代で言えばスペイン・ポルトガル等にとっての中南米、近現代ではアメリカにとっての中南米も入るけれど)何をやってきたのかということを見ないわけにはいかない。

筆者はもちろんテロリズムというものに対して一切の賛意を持たない人間だが、上記のことは考えないわけにはいかない。不完全な人間というものの歴史を考える時、その不完全な人間の集まりである人類の歴史に触れて、どうしても考えざるを得ないのだ。以下は筆者が一昨年 911 に note 登録して、2本目にアップした投稿テキスト。そんな「訳」あって、タイトル上の写真には、筆者が 1983年に「歴史的パレスチナ」、イスラエルが 1967年以来、複数の「国連安保理決議」に違反して違法占領を続ける東エルサレムの地で撮った写真を使った。 

15) 次は、エジプト、そして再びトルコ。だんだん疲れてきた(笑)。

以下の note 投稿、「『ただの日本人』の イスタンブール 1983年10月 〜 Almost Cut My Hair ♫」という見出しの章の中に、そんな見出しでありながら、ギザのピラミッドのところで撮った写真から 2枚、そして 2度目のイスタンで床屋に行って「ほぼ」坊主刈りにした筆者の写真 2枚、それから「イスタンブールのスルタンアフメト・モスク (Sultan Ahmed Mosque), ボスポラス海峡 (Bosporus, Straits) 〜 "Sultans of Swing" by Dire Straits ♫」という見出しの章の中に、1度目のイスタンで撮った写真とともに、2度目のイスタンで撮った写真も掲載中!

16) 次は、イラン。イランと言えば「ペルシャ」。Holger Czukay (March 24, 1938 – September 5, 2017), カタカナ表記にしてホルガー・シューカイは生まれは自由都市ダンツィヒ(現在のポーランド・グダニスク)、ドイツのミュージシャンだけど、この歌、大好きなので。

この歌の下に置いた筆者の過去の note 投稿 3点、最初の 2つのタイトル上の写真は、筆者が 1983年11月16日にイランの首都テヘランの街をぶらつき、路地裏でばったり出会った可愛い可愛い子供たちを撮った時の一コマ、いや二コマ。

17) 次は、パキスタン。以下の投稿は、インドのブッダガヤを訪ねた時の話題が中心だけれど、「付録: ラホール(パキスタン)で観た、ガンダーラのブッダ(仏陀)」にその見出しの通り、そして「Bonus track 〜 "Killing in the Name" by Rage Against the Machine (1992)」の中にも同様に、筆者が 1983年11月28日にラホールの博物館で撮った「断食中の仏陀」の写真を掲載してある。

18) 次は、インド。マジ、疲れてきた(再び笑)。この投稿のタイトル上の写真は、1983年12月10日に、インドのダラムサラで撮ったもの。筆者とチベット仏教の僧侶たち(僧侶および修行僧)の写真。

19) 次は、タイ。疲れてきたので駆け足。この歌、邦題「駆け足の人生」(笑)の下にある筆者の note 投稿、タイトル上の写真はゲバラだけど、タイトル通りで、バンコクで撮った写真を数枚載せてます。

20) さて、ようやく、最後の訪問国、韓国。24ヶ国目? 23ヶ国目? 22ヶ国目? 詳しくは次項 21) にて。

21) 1983年から1984年にかけてのバックパッカー海外「放浪」もどき一人旅で訪れた国の数は、当時の西ドイツと東ドイツを 2ヶ国と数え、占領下パレスチナと占領者側のイスラエルについても 2カウントしてしまうと、24ヶ国。前者は今や統一ドイツ、後者もいつの日か「パレスチナ/イスラエルが 『民主主義的な一国家』 になるという未来の 『現実』 を想像する」ならば、それを "イマジン" ♫ して、

先取りして一つと数えてしまうと、当時のソ連・現在のロシアから最後の訪問国・韓国までで、全部で 22ヶ国。

パレスチナ/イスラエル!

22) さてさて、1984年2月1日に帰国し、その後、広島に 3泊4日してから、同年 2月4日に静岡県の田舎の実家に戻ったとさ。

"Every Picture Tells a Story" (Rod Stewart) 〜 歌詞和訳

"Every Picture Tells a Story" は 1971年5月28日にリリースされた Rod Stewart 3枚目のアルバムのタイトル・トラックで、LP の A面 の 1曲目。このアルバムは当時イギリスでもアメリカでもチャート 1位を記録し、B面 2曲目の "Maggie May" も両国それぞれのシングル・チャートで 1位になったという大ヒット作だった。

この歌(Rod Stewart と Ronnie Wood の共作)、音、メロディだけじゃなくて、歌詞も素晴らしい。筆者が若いころ旅に出たかった気分の「おおよそ」のことなら、この歌の中に見事に描かれている。

筆者は特別劣等感に苛まれていたのではなかったし、親父に勧められたのでもなかったが、でも自分の親父もこの歌の歌詞の中の親父みたいな人で、ああいう類のことを言う人だった、「だった」と言っても 92歳の今現在も健在・元気!

そういう「訳」(ワケ)で、この歌の歌詞を今日、「訳」(ヤク, あの「ヤク」ではありません!)してみたいと思ったのだ。

Every Picture Tells a Story 〜 a title track from the third album by Rod Stewart, released on May 28, 1971 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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しばらくの間 おれってダメな奴かもって思ってた
鏡の前に立って
何百回と髪をとかしても(*1)
結局は代わり映えしない俺がそこにいるだけ

親父がおれに言ったのさ、「息子よ、世の中を見てくるがいい
家を出て行ったって咎めたりしない
だけど覚えておけ、現を抜かすんじゃないぞ
お前の金を掠め取るような女にはな」(*2)
で、おれは出かけたってわけさ

パリは身を隠せる場所だった
周りに馴染めないって思ったらね
だけどフランスの警察は平和をくれなかったのさ
連中はおれのことを汚らしい奴だって言うんだ
セーヌの左岸に降りて物思いに耽ってて(*3)
押し寄せてきた群衆にノックアウトされたら
平和的な暴動を扇動したって罪で逮捕されちまった
おれはその時ほんとはお茶一杯飲みたかっただけだぜ
なのに責任取らされたってわけさ、ったく
その後も旅を続けたよ

ローマに行ったけど何か物足りなかった
若い奴が生きてくための何かがね
おれの体は悪臭を放ってたけどそのまんま、憂鬱だった(*4)
まさに運も尽きて落ち目って時にね
ほんとに破れかぶれ、やけになって
観光客用の見せ物みたいになってた
それで思ったよ、ここから出なくちゃってね
バチカンに行ったって認められるわけないし
そんな気もなかったさ、あるわけない

東に向かって出かけたぜ、聞いてくれよ
北京のフェリーに乗ったら楽しい気分になったんだ(*5)
こっちに戻る船の中のことさ
切れ長の目の女と恋に落ちたってわけ
東洋の月明かりに感謝しなくちゃね
上海のリルは決してピルを使わない
ピルなんて自然じゃないわよって言うんだ
で、おれを甲板に連れて行って首に歯を当ててきたよ(*6)
なんてこった、彼女と出会えたなんて上出来だよ
ほんとさ、最高の気分だったよ
ちょっと待ってくれ

おれはいま固く信じてるよ、結局大事なのは自分だってことさ
マジで思ったんだ、おれはほんとに完璧だってね
人間、どんだけおかしくなれるのかな
おれが今まで知った女たちには靴紐一つ結ばせなかったよ(*7)
ああいう女といると自由な気分でいられないんだ(*8)
だけどあの切れ長の目の女には心底やられたよ(*9)
彼女に出会ったことは神にでも感謝しなくちゃな
おれが伝えられる彼らの言葉の中に(*10)
旅してる最中のあんたに役立つものがあるとしても(*11)
彼ら、つまりディケンズやシェリーやキーツの言葉は使えないな(*12)
そんなの散々言われてきて手垢まみれだろうよ
どんな悪い状況でも最善を尽くす、でもって笑い飛ばすんだな
とにかくこんなとこまで来なくてもいいよ

覚えておくことさ、どう見えるかで何が起きたのか分かるんだ、だろ?
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
百聞は一見にしかずって言うよな
百聞は一見にしかずってね
百聞は一見にしかずって ... 

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注釈

*1 "Combed my hair in a thousand ways" と歌っているが、日本語ではこういう数が多いことを強調したい時、「千回」というよりも「何百回」と言うだろうと思うので、和訳では「何百回と髪をとかしても」にした。

*2 "to a woman that'll spend your bread" の "bread", 俗語で「金、銭」といった意味があるので、若干の意訳込みで「お前の金を掠め取るような女にはな」。

*3 "the Left Bank" はここではセーヌ川の「左岸」のこと。フランスの小説家、つまりあの人、Françoise Sagan のことではありません(笑)。

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日本のバンド、デイト・オブ・バース Date of Birth の 1997年のアルバム "FOLK SONGS" の収録曲に「退屈なフランス旅行」という歌があって、「横になって氷で頭を冷やし あなたがこれは力作だと言った サガンの小説をもう一度読んでたら 意地の悪い睡魔が襲った, hey, da,da,da...... 」というくだりがある。あの歌も、あのアルバムも、最高にいい。

脱線した(笑)。

*4 "My body stunk but I kept my funk", これはちょっと訳し方が難しい。とりあえず最初に書いておくと、"stunk", "funk" の韻はクール。

"stunk" は stink の過去分詞形で、stink は自動詞も他動詞もあるけれど、受け身ととればここは「〜を悪臭で満たす」という他動詞の受動態。"funk" にはかなり色んな意味があるけれども、ここでの "my funk" から名詞ととれば、「おじけ、尻込み、臆病」とか「気分の落ち込み、憂鬱」、名詞の意味にはもちろん他にあの音楽のジャンルあるいは用語としての「ファンク」、その他にも俗語で「田舎臭さ」、そして「臆病者、役立たず」、さらにやはり俗語で「体臭」「悪臭」といった意味があるようで、ただし「体臭」を意味する名詞としては一般に他人の強烈な体臭を指して言うらしい。ここでは、"funk" を単に「悪臭」ととったり、あるいはダブル・ミーニング的に「憂鬱」の意味にもとって、「おれの体は悪臭を放ってたけどそのまんま、憂鬱だった」と訳すことにした。

*5 "On the Peking ferry I was feeling merry", ここは逐語訳すれば「北京フェリーの上で楽しい気分になっていた」ということなんだろうけど、最初に投稿アップした時は、まぁこういうこと言いたいんだろうな程度に「北京でフェリーに乗ったら楽しい気分になったんだ」と訳していた。しかし、その後、いや待てよ、北京って海に面してないよなと気づき(筆者は中国には大連しか行ったことがない、笑)、"the Peking ferry" って何のことだと気になった。ググると日本からフェリーで行くには港がある天津までフェリーで行ってそこから列車みたいに書いてあるし、じゃぁ川、大河とかは?と思うと、どうもそれも怪しい。北京は海河という大きな河川の流域に属するらしいが、北京の域内では水不足が深刻とか書いてあって、大河を航行するフェリーってことでもなさそうなのだ。ますます気になって更にググると、筆者が本 note 投稿で取り上げている自身の海外「放浪」もどき旅をした時代に既に日本人バックパッカーの間でもわりと知られていた、世界的に著名な旅行ガイドブック Lonely Planet のウェブサイトにまで、Rod Stewart's "Peking Ferry". Does it exist? Are there any in Beijing? というトピックが上げられたフォーラムのページがあることを発見。いやはや。

北京の英語表記は Beijing の方が多いと思うが、Peking もないことはない。料理名の北京ダックは Peking duck だよね(笑)。一方で Beijing ってのは地名としての北京だけでなく、「中国政府」を指す言葉として使われることもあるということで、さて、この歌の歌詞の中の "Peking", 要するに、形容詞的に「中国の」というニュアンスを表現したかったということなのかな。"On the Peking ferry" で「中国のフェリーに乗ったら」あるいは「中国でフェリーに乗ったら」程度の意味で、だとするとこれを日本語にしたら、やはり「北京のフェリー」ぐらいにするしかない。

この程度のことで思い切り長い注釈になってしまったが(笑)、結局、まぁ上記の意味合いを込めた感じでこれでいいだろうとすることにして、"On the Peking ferry I was feeling merry" は、「北京のフェリーに乗ったら楽しい気分になったんだ」で一件落着 .. ということにした。

しかし、そもそも、この曲は 1971年5月のリリース。大陸中国とアメリカ合州国の間に国交が樹立することになるのは 1972年2月の当時のニクソン大統領の中国訪問がきっかけだから、この曲が作られた頃は大陸中国はまだまだ「西側世界」に対して閉ざされていた時代のはず。この歌は確か Rod Stewart が更に若い頃に世界を「放浪」した経験を「膨らませた」ような歌だったと思うが、とりわけ大陸中国関連の辺りは相当に想像を「膨らませた」歌詞なのかもしれない。そう思うと、「切れ長の目の女」「上海(の)リル」, つまり "slit-eyed lady" の "Shangai Lil" ってのも、いかにも Rod が「ああ、こういう女と付き合いたい」って想って歌詞を考えたのかなという気がしてくる。この注釈、ますます長くなった(笑)。

(「北京でフェリーに乗ったら楽しい気分になったんだ」を「北京のフェリーに乗ったら楽しい気分になったんだ」に変えただけの編集アップは投稿日のうちに済ませたけれど、この注釈に関しては今日 2021年2月5日午前9時過ぎ加筆アップ。)

*6 "bit my neck", この "bit" は他動詞でも自動詞でもある "bite", 「噛む」「噛みつく」の過去形なわけだけど、首に噛みつくのはどうにもこうにも痛そう。まぁそういうハードコアも時にはいいかもしれないけれど(笑)、ここはまぁ「首に歯を当ててきた」ぐらいでいいのでは。因みにここ、"She took me up on deck and bit my neck" の "deck", "neck" の韻もキマッてる。

*7 "The women I've known I wouldn't let tie my shoe" は、おそらく "The women I've known" が次に続く "I wouldn't let" の目的格になっている。だから、ほぼ直訳のかたちで訳すと「おれが今まで知った女たちには靴紐一つ結ばせなかったよ」という感じ。因みに tie one's shoes で「靴の紐を結ぶ」だけでなく「しっかりやる」「きちんとする」といった意味があるようだけど、ここはあえて前者のような直訳的な言い方を使った方が、それを比喩として受け取ってもらえばよいのでベターだと思う。

*8 "They wouldn't give you the time of day" の "They" は *6, つまり前のセンテンスの "The women I've known" のことで、ここは意訳すれば「ああいう女といると自由な気分でいられないんだ」。

*9 "But the slit-eyed lady knocked me off my feet" は、be knocked off one's feet で「驚かされる」「驚く」「びっくりする」という意味があるので、この歌詞の中の文脈では「だけどあの切れ長の目の女には心底やられたよ」。

*10, 11, 12 "And if they had the words I could tell to you, to help you on the way down the road, I couldn't quote you no Dickens, Shelley or Keats", ここでは、文脈上、最初の "they" は後から出てくる "Dickens, Shelley or Keats" などを指しているのではないかと解釈した。"way down the road" は安直にオンライン辞書など引くと「この道をずっと行った所に」と出たりするし、half-way down the road だと「道の途中で」「道半ばで」といった感じ。ここではこの歌の歌詞全体を考えて、"you on the way down the road" を「旅してる最中のあんた」と訳した。ただし、この「旅」とは文字通りの「旅」ともとれるし、「人生」を「旅」として捉えた上での「旅」ともとれる。

"Dickens, Shelley or Keats", この 3人は全て、イギリス(全員イングランド, 19世紀)の、順に小説家、詩人、詩人。

というわけで、「おれが伝えられる彼らの言葉の中に 旅してる最中のあんたに役立つものがあるとしても 彼ら、つまりディケンズやシェリーやキーツの言葉は使えないな」と訳した。"quote" はもちろん「引用する」という意味だけど、ここでは「使えない」でいいだろう。

ってなわけで、Every picture tells a story, don’t it!?

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