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契約書とワルツ
第一章 春祭りの幕開け
チェコのとある村では、春祭りの準備が佳境を迎えていた。村人たちは広場に集まり、花輪を編み、屋台を立て、音楽隊が調子を合わせる。なかでも一際忙しく動き回るのは、パン屋の娘マリエ。彼女の金色の髪は陽光を反射し、青いリボンで結ばれた三つ編みが軽やかに揺れていた。
「マリエ、君の焼いたパンは今年も村一番だ!」
少年ヤロスラフが、焼き立てのロールパンを頬張りながら笑う。
「ありがとう、でも今年はただのお祭りじゃないわ。父さんが…」
マリエは言いかけて口をつぐんだ。父親の言葉が脳裏に蘇る。
「マリエ、お前はもう十八だ。そろそろ将来を考える時期だぞ。」
そして、村の地主クラウス氏が持ち込んだ「ある話」——それが、マリエを悩ませていた。
第二章 「契約」の誘惑
村の広場では、音楽隊が弾く軽快なポルカに合わせて若者たちが踊り始めていた。マリエも誘われたが、どうにも心が浮かない。彼女はそっと広場を抜け出し、家の裏手のベンチに腰掛けた。
すると、そこへ地主のクラウス氏が現れた。小太りの男は、口髭をいじりながらマリエの前に座る。
「マリエ、君の父親とは話がついている。」
「…話?」
「そうだよ、お嬢さん。君の未来についての大事な話だ。」
クラウス氏は一枚の紙を差し出した。それは、婚約契約書だった。
「君は地主であるわしの甥、ミハルと結婚するのが一番幸せなのさ。もちろん、結婚すれば君の家族にも十分な支援を約束しよう。」
マリエは契約書をじっと見つめた。紙の上ではすべてが理にかなっているように見えた。だが、心は別の答えを叫んでいた。
「…私は、自分の心で選びたいわ。」
その時、不意に聞こえてきたのは、馴染み深い声だった。
「マリエ! こんなところにいたのか!」
ヤロスラフが駆け寄ってきた。彼の目が、机上の契約書をとらえる。
「何をしてるんだ?」
クラウス氏は鼻を鳴らした。「お前には関係のないことだ。」
ヤロスラフは毅然と言い放った。「マリエのことなら、僕にだって関係あるさ。」
マリエはヤロスラフを見つめた。その瞳の奥に、迷いと希望が交錯する。
この契約に縛られるのか。それとも——
第三章 秘密の約束
マリエはその晩、家の窓辺で考え込んでいた。父の言う通り、地主の甥との結婚は安定を約束するかもしれない。だが、それが幸せなのだろうか?
「考え込んでいる顔だな。」
驚いて振り向くと、窓の外にヤロスラフが立っていた。
「夜遅くに何を…!」
「心配で眠れなくてな。」
ヤロスラフはマリエの手をそっと握った。
「逃げよう、マリエ。」
「えっ?」
「この村に縛られる必要なんてない。僕と一緒に、新しい人生を探そう。」
マリエは目を見開いた。逃げる? 家を、村を? そんなことが本当にできるの?
けれど、ヤロスラフの瞳は真剣だった。
「君の心が望むなら、どこへでも行こう。」
マリエの胸が高鳴る。
これは、ただの夢物語ではない。彼女の人生を決める瞬間だった。
第四章 売られた花嫁?
翌朝、村は祭りの本番を迎えていた。音楽隊が陽気なポルカを奏で、村人たちは色とりどりの民族衣装をまとい、踊りに興じていた。だが、マリエの心は浮かない。
父の決めた契約婚が、今日正式に発表されることになっていた。広場の中央に設けられた舞台の上には、地主のクラウス氏とその甥・ミハルが立っていた。ミハルは長身で整った顔立ちをしていたが、どこか覇気のない男だった。
「さあ皆の者、注目せよ!」クラウス氏が声を張り上げる。「わしの甥、ミハルとマリエ嬢の婚約が正式に決まった!」
村人たちがどよめく中、マリエは歯を食いしばった。契約書には、確かに彼女の父の署名が記されている。そして「娘の意志に関わらず、この婚約は成立する」と。
ヤロスラフが群衆の中で拳を握りしめた。「こんなの間違ってる…!」
だが、その瞬間——
「待った!!!」
突然、ひとりの男が広場に飛び込んできた。派手な衣装に身を包んだ旅芸人の頭領、ヴォイテフだった。
「おやおや、これは妙な契約話だね!」ヴォイテフはニヤリと笑う。「お嬢さんの婚約相手が売られたと聞いたんだが…」
「何を言う!」クラウス氏が怒鳴る。
「これは正式な契約だ!」
ヴォイテフは肩をすくめる。「でもさ、契約ってのは金で成立するもんだろ? もしもっと良い条件を提示したらどうなるかな?」
そして彼は懐から重そうな金貨袋を取り出した。
「さあ、どうする? マリエ嬢を買い戻そうじゃないか!」
村人たちはざわめいた。クラウス氏は目を丸くし、ミハルは顔を青ざめた。
そして、沈黙を破ったのは——マリエだった。
「この契約に、私は従いません!」
彼女は舞台に上がり、契約書を高く掲げる。
「この紙は、私の父が結んだもの。けれど、私は私の人生を、自分で決める!」
彼女は紙を破り捨てた。村人たちは息を呑み、次の瞬間、大歓声が上がった。
ヤロスラフは走り寄り、マリエの手を取る。「君は…!」
マリエは微笑んだ。「自由よ、ヤロスラフ。」
ヴォイテフが陽気に叫んだ。「それなら、祝いの舞だ! 皆、踊れ!」
音楽隊が一斉に演奏を始めた。ワルツの旋律が響き渡る中、マリエとヤロスラフは手を取り合い、初めて自分たちの意志で踊りだした。
——こうして、売られたはずの花嫁は、誰よりも自由な人生を選んだのだった。
終章 契約書とワルツ
数日後、マリエは村を訪れた旅芸人の一座に加わり、各地を巡ることを決めた。
ヤロスラフもまた、彼女とともに新しい道を歩む決意をした。
「君が望むなら、どこへでも行こう。」
そう誓った彼の言葉通り、二人は馬車に乗り込み、未知の世界へと旅立った。
村には、今日もポルカとワルツの音楽が響いている——彼らの自由な未来を祝うかのように。
(完)
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