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憤りには、愛がある
怒る(おこる)ことに、重要な意味を感じない。怒り(いかり)を相手にぶつけることも、それが最善なコミュニケーションの手段には思えない。
このあと、怒るも、怒るも、と続く時、心の中で「おこるも、いかるも」と変換して読んでみてほしい。
怒ることも、怒ることも、自分の意図するように相手を動かそうとする行為であり、手段だと思う。手段も、行為も、僕たちは自分で選ぶことができる。
例えば外食をしていて、注文したメニューと違うものが届いた時。
「注文したのと全然違うじゃねえか!早く取り替えろ!」と怒るのか、怒るのか。
はたまた「すみません、これ注文したものと違うんですけど…」と違うという事実を伝えるのか。
きっとどちらの選択をしても、お店側が間違えているのだとしたら、きっと取り替えてくれるはずだ。
最終的に辿り着く先は同じ。自分が求めている結果も同じ。
僕たちは選ぶことができる。
なかなかメニューが違っただけで、怒ることもないのかもしれないけれど、僕たちは感じたことを、どう表現するかの手段や行為を選ぶことができる。
店員さんがコーヒーをこぼしてしまって、自分の服が汚れてしまった時。並んでいた列に人が横入りをしてきた時。遅刻してきた時。約束と違った時。他にもいろいろあると思う。
相手に対して威圧的になって、おこるのか、いかるのか。その感情を乗せたコミュニケーション(手段、行為)が、相手との心を通わすための気持ちのいいものには思えない。
僕らには怒ることも、怒ることも必要ないと思う。ううん、あってもいい。でもそんなになくていいと思う。
だから僕はもう怒らないと決めた。
でも憤りには愛がある
理解されないことを、理解してもらおうとは思わない。
理解してもらいたいことを、理解させようとも思わない。
ただ、自分がそう思っていればそれでいいと思う。それを理解させようとするのは、強要で。怒るのも、怒るのも、どこまでも自分勝手で。
大半の人は自分が誰かに、何かを強要されることを嫌っている。だから怒られても、怒りをぶつけられても気持ちいいわけじゃない。
でも憤りには、愛があると思った。
先日「佐々井秀嶺上人」にお会いした時に感じたことだった。
佐々井さんは、インド仏教1億5千人の最高指導者の日本人。岡山県出身の御年88歳で、人生の大半をインドで仏教徒として過ごしている。
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今回4年ぶりの来日で、帰郷されるとのことでお会いするご縁をいただいた。
岡山県北区の長泉寺へ。自分の意思でお寺に向かうなんて初めて。すべての出会いは動いたから生まれていて。すべてはご縁で有り難いことで。意味は自分で決めるものだから、ただ行きたい方に、心の赴くままに、動くだけだよなと思います。
— けんせい|代筆屋 (@daihituyakensei) June 9, 2023
僕が佐々井さんを知ったのは、佐々井さんに会い出家なさった龍光さんと、その2人を結びあせた浄休さんとの繋がり。先日愛媛でお会いしたご縁で、今回の機会に恵まれた。下の記事に愛媛でのことを書いている。
佐々井さんと会った感想は「あったけえおじいちゃん」だった。(すごく偉い方に大変失礼かもしれないですが、本当にそうで。肩を組んでくださって、言葉もとにかくあったかかったんです。素直な気持ちです。)
「どこからきた?」
「岡山です。」
「そうか、岡山から。」
「はい。名前はけんせいと申します。」
「ん?けん?」
「けんせいです。」
「けんせいか。けんは、健やかという字か?」
「はい、そうです。健やかな星と書きます。」
「健やかな心に、健やかな心が宿る。健やかだからこそできることがある。いい名前だ。」
「ありがとうございます。僕もこの名前が好きです。」
「そうか、頑張れ。」
特に話をしたわけじゃない。僕以外にもたくさんの面会者がいて約50人の方々とやりとりをする。
僕は相談もなかった。悩みもなかった。ただご縁があって、繋がって、今こうして会えたことの感謝だけ伝えたいと思っていた。
何も望んでいなくて、その先も見ていない。会う以外に何もなかった。
でも「いい名前だ」と言ってもらえた。「お前は大丈夫だ」と思ってもらえているような気がした。
僕がただそう思っているだけだ。でもそれで十分だったんだ。
佐々井さんが肩を組んでくれて、龍光さんと浄休さんと写真を撮ってもらった。その間約2分くらい。他の誰よりも面会時間は短かった気がする。それでいいんだと思えた。
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佐々井さんはインドでも日本でも、たくさんの人に出会ってきて、それから憤っておられた。
やりたいことが見つからない。先行きが不安。そんなことをたくさん聞いてきた。
「日本はこのままではいけない」
みんなの前でそう声を大きくしていた。
それは愛だったと僕は思う。
インドでも、風呂無し、便所と一間の部屋に今も住んで、インドの街のために働いていらっしゃる。
なんとかしないといけない、という憤りが佐々井さん自身の中に確かにあって、それを愛という形で表現しているんだと思った。
どんなふうでもいい。理解してもらおうとはせず、ただ今できることをすればいい
僕にも憤りがある。
それは伝えたい想いが伝わらないことであり、好きだと思う気持ちが、ちゃんと伝えられないことだ。
自分が好きじゃなくって、愛したいものを愛せなくって。好きな人と1秒でも長く一緒にいられないことだ。
だからやっぱり今僕は書こうと思う。
恋や人生に悩んでいる人の声を聴くことであり、伝えたい想いが伝わる手紙を書くことであり、こうして届く人に届けるために記事を書き続けることだと思う。
書くことで、読んでくれた人が、それをどう思うかはその人の自由だ。
もちろん理解されたらちゃんと嬉しいし、理解されなくてもそれはそれで構わない。悲しいということもない。怒ることもない。それはそれでしょうがない。みんな自分の主観で生きている。
僕は憤りを持っていようと思う。それは愛であり、美しいと感じた。かっこいいと思えた。
愛って、そういう恋愛感情だけじゃなくって、想いだったり、価値観だったり、大事にしていることであったり。自分なりの美学とか、哲学とか、そういうものなんだ。自分なりの生き方なんだ。
それを怒ることも、怒ることもせず、でもちゃんと憤って、自分なりの言葉で表現すること以外に今できることはない。僕は今それをやりたいと思っている。
だから今できることがちゃんとある。
怒らない、怒らない。でもちゃんと憤ろう。自分の中で大事にして、それを自分なりに表現しよう。
そのために今自分に何ができるか、今自分が何をやりたいかを考えていこう。
だが、愛がある。
言葉がある。僕はそう思う。
あなたには何がある?
憤りと、愛と、向き合ってみることも必要なのかもしれない。
憤りを感じるあなたへ
愛を自分なりに書こうと思う物書きより
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すべての愛する人がいる人に読んでほしい本。
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