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すべての武器を花に 平和が生み育んだ一厘の花 花火

夜空に一瞬の美を放つ花火。

江戸自体から愛され続けている夏の風物詩。

今や夏に限らす花火大会は行われていますが、それでも花火といったら夏ですね。

この花火は紀元前3世紀の中国で爆竹として使用されたのが起源だという説がある一方

最初期の花火は6世紀、中国で火薬が使われるようになるのとほぼ同時期に作られはじめたと考えられて発展して

しまし

た。います。

しかし10世紀まで花火は存在しなかったという説もあります。

なんにせよ、中国で火薬が使われるようになったのがきっかけで花火は誕生したのは間違いないと思います。

で、近代的な花火の歴史はシルクロードで伝わった火薬によって14世紀のイタリアはフィレンツェから始りました。

記録に残る物によると、最初の花火はキリスト教の祝祭などの見世物で使われ、人形から火を噴くようなものだったそうです。

フィレンツェから始まった花火はあっという間にヨーロッパに広まりました。
16世紀になるとヘンリー八世は1532年に王室軍隊の花火師を徴用し、戴冠式や結婚式、誕生日などの日にテムズ河で水上花火見て楽しみ、

ジェームズ1世は娘エリザベスの結婚式を花火で盛大に祝うなど、花火は王侯貴族のための楽しみになりました。

そしてまた1672年にはウリッジ兵器廠に花火研究所が設立され、1683年には花火に関するテキストが刊行されるなどして花火技術は漸次発展していきました。

一方、日本における花火の歴史はというと、16世紀に鉄砲と共に火薬が伝来と共に始まります。

天正九年(1581年)正月十五日に、織田信長が祝賀の行事として安土城下で馬揃えを行い、爆竹(花火の一種)を使用したと『信長公記』に書かれており、

翌天正十年(1582年)四月十四日にポルトガル人のイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録もあります。

天正十三年には栃木県の藤岡町で皆川山城守と佐竹衆が、皆川山城守と佐竹衆が戦のなぐさみに花火を立てたという記述もあり

また『伊達家治家記録』によると天正十七年(1589年)に伊達政宗の居城、米沢城で外人(大唐人)が花火の打ち上げを行ったとの記録されています。

しかし、上記の記録は確実に花火だったか定かではありません。

では、日本で最初の花火だったという確実な記録はというと、

慶長十八年(1613年)八月に『駿府政事録』に書かれているイギリス国王ジャームズ1世の使者が駿府城で徳川家康に見せた花火の記録です。

これを機に花火は将軍家をはじめ諸大名の間ではやりだし、大川端(隅田川)の下屋敷では年中行事になり、花火の流行は町民の間にも広がり、慶長十九年には(1614年)には、既に江戸において線香花火および、ネズミ花火が売り歩かれていました。

しかし、花火の流行とともに花火が原因の火災が数回も発生すると、慶安一年(1648年)に幕府は「花火禁止令」を出し大川端以外での花火を禁止しました。

しかし、花火人気は留まるところを知らず、幕府はその後も六回にわたり花火禁止令を出しました。

萬治二年(1659年)には、今でも続いている花火業者、「鍵屋~」の掛け声
でお馴染みの鍵屋が開業しました。

そして享保十八年(1733年)

暴れん坊将軍徳川吉宗が前年におきた飢饉や疫病で亡くなった人達の慰霊と悪疫払いのために川施餓鬼を行い、その余興で花火を打ち上げました。

これが今でも続く夏の風物詩「両国川開き花火」の始まりであり、隅田川花火大会のルーツでもあります。

毎週、悪人を成敗していた上様は花見だけでなく、花火大会の仕掛け人でもあったのですね。

そして、花火の掛け声でお馴染みの「鍵屋~玉屋~」の玉屋が開業したのは文化七年(1810年)のことでした。

その後、鍵屋の番頭清七が独立して興した玉屋と鍵屋が両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ちお互いが競い合っていましたが、

天保十四年(1843年)に玉屋は店とともに半町の町並みを焼くという火災を発生させたため、お家断絶、財産没収の上、江戸処払い命じられ玉屋は断絶してしまいました。

また隅田川の花火には両家以外にも大名配下の花火師も参加し前者が町人花火と呼ばれていたのに対し、後者は大名花火と呼ばれていました。

武家花火と町民花火には違いがあり、武家花火は垂直方向に打ち上げる狼煙花火を得意とし、町人花火は仕掛け花火に特色がありました。

大名花火の中でも、火薬製造の規制を受けていなかった御三家の花火は「御三家花火」と呼ばれ人気が高く、また伊達家の花火も「仙台河岸」の花火として名を馳せていました。

花火大会の花火といえば、丸く広がる花火をイメージすると思いますが、最初の頃の花火は「立火」と呼ばれるものや「仕掛け花火」が主で、現在のような打ち上げ筒で打ち上げる打ち上げ花火は1750年以降に完成しました。

また、花火大会は江戸だけでなく各地でも開催されました。

特に火薬の規制が少ない徳川ゆかりの地では競って花火大会が開かれました。

愛知県岡崎周辺や、長野県、新潟県、秋田、茨木などで花火問屋が多いのはそのためです。

そして明治になると、西洋技術の導入で日本の花火は大きく変わりました。

これまで日本の花火は、燃焼温度の低い黒色火薬系で色は赤橙色でしたが、塩素酸カリウム輸入されると、それを加えることにより赤や緑の赤や緑が鮮やかにな明るい花火が作られるようになりました。

また、各種配合や構造の研究が続けられ、さらなる発展を遂げていきました。

大戦中に花火の製造中止、戦後もGHQにより昭和二十一年のアメリカ独立記念日の日のまで、打ち上げ花火の製造は中止されていました。

そして、復活後も花火の発展は続き、現在では伝統の技術を受け継ぎつつ、打ち上げ方法の近代化やコンピュータシミュレーションを使った演出など新しい技術を取り入れられています。

また、大学などで科学知識を取得した花火技術者も育ってきており、これからも日本の花火は伝統を守りながら更なる発展を遂げていくことでしょう。

ところで、日本の花火は世界一といわれていますが、どうして方というと花火の基本的な形が違うのです。

日本の花火は丸星と呼ばれる球形なのに対し外国のものは円筒形なのです。

それぞれ、どういう特徴があるかというと、

日本の花火の場合は

1. まんまるく(球形に)、大きく空に色とりどりの花を拡げる。
2. 花弁のひとつひとつの色が変わる。
3. ひとつの円でなく花の芯のように二重三重の円(同心球)を描く。

つまり、別々の色を出す火薬を幾層にも重ねてるので色の変化が楽しめ、

また

四方八方に花を拡げるので、どこの場所から見ても花火が楽しめます。

一方、外国の円筒形の花火は、一種類の火薬しか詰めないので色の変化はありませんし、円筒の片方の蓋が外れて中身を放出させるので平面的なので特定の場所の人にしか花火は見えません。

どうして、こんな違いができたかというと、花火の用途が日本と外国では全く違ったからです。

外国での花火は祝祭、記念日などを祝うための物、つまりイベントの脇役でした。

一方、日本の花火は花火自体娯楽として楽しむものとして発展してきました。

そして、日本で花火が娯楽として発展してきたのは、徳川が築き上げた260年の泰平の時代があったからなのです。

戦争がなかったからこそ、火薬を娯楽のために使い、花火を芸術的領域にまで高めることができ、

戦争がなかったからこそ、庶民は娯楽としての花火を楽しめるゆとりがあったのです。

まさに

すべての武器を花に

を地で行っちゃったようなものなのです。

平和が生み育んだ一厘の花 花火

このことを心の隅に留めながら花火を見るのも、また感慨深いものがあるかもしれませんね。




参考資料・サイト
『日本史の中の世界一 』
田中英道・責任編集  育鵬社

社団法人日本煙火協会
http://www.hanabi-jpa.jp/data/hanabi_nyumon.html

日本の花火は世界一
http://www.hanabi-guide.com/cate01/

日本の花火
http://www.japan-fireworks.com/index.html
http://www.japan-fireworks.com/basics/menu.html

ホソヤエンタープライズ 
http://www.hosoya-hanabi.co.jp/journal/fhis01.html



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