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#80 さよならと言うこと、愛について

 気がつけば、空はいつも曇り空で朝から降るか降らないかの降るか降らないかの微妙な天気で、ねっとりした空気と共にうんざりした気分になる。

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 3月と4月は振り返ると、軽い喪失感に苛まれていた。街には夥しい人が行き来していてうんざりしたり、私の下についていた後輩が相次いで違う部署へ異動となったり、仲の良い友人が結婚やら出産やらで忙しそうにしていたり。なぜだか、春の季節になるとそうした状況の変化というのが続くものらしい。

 どれだけ年齢を重ねても、別れというのは骨身に応える。そしておそらくはこの感覚というのはほぼほぼ人類共通のものとも言えそうで、過去さまざまな人たちが歌にしていて、私はそうした別れの歌が無性に時々愛おしくなったりする。ああ、みんな私と同じ感情を持ち合わせているんだな。私だってやっぱりどうしようもなく泣きたくなるし、その度にきちんと生きている気だってしてくる。

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 思えば、こうして生きている中で、自然と別れというのは起こりうる。

 たぶん、何かしらの形で誰しもが経験しているはずだ。出会いもあれば別れもあるというのは、おそらく自然のバランスにも近いところで、こればっかりは仕方ないことなんだろうな。映画でも、だいたい物語の転換期には誰かとの別れがあって、それで人はきっと強くなる。友人との別れ、家族との別れ、恋人との別れ。

 その際たる例が、身近な人の死であって、私は中学時代に叔父を亡くし、高校時代にクラスメイトを亡くし、社会人になってからは父方の祖母と母方の祖父、会社の同僚を亡くした。いつになっても、自分の近い場所にいた人たちとの別れは辛い。でも、いつだって不思議と涙は出てこないのだ。彼ら彼女らは私にあんなに優しくしてくれたのに。悲しいはずなのに。

 涙を流さなきゃいけない、涙を一雫でもいいから溢さないといけないんだ。だって、ドラマで見た主人公たちはみんなすべからく泣いていたじゃないか。泣かないことは、亡くなった人たちがあなたの中に残ってないからじゃないのか? 君は薄情な人なんだね、そんなふうに誰かから言われているみたいで、自分で自分を叱咤するのだけど、出さなきゃと思うのに、涙の一雫さえ枯れ果ててしまったかのように出てこなかった。

 箱の中に収まる美しい顔。後ろ髪を引かれる思いで、あちら側の世界にいる人たちへ手を振った。まるで実際に現実のこととして捉えることができなくて、今でも彼らが近くにいるような気がしてしまう。たむけの花ビラをそっとおいて、「さよなら」と言葉をそっと口にしてみる。こめかみの奥が、ズキンと痛み気圧の変化に耐えることができず、ぎゅっと唇を軽く噛んだ。

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 私は普段あっけらかんでのほほんとしているくせに、いざたとえば誰かとほんのちょっとしたボタンの掛け違いあるいは私自身のどうしようもないちゃらんぽらんな性格のせいで、手と別の道を歩むとなった時、埋めようのない苦しさと虚しさが押し寄せる。特に、その人が大切な人であればあるほど。「なくした時にその存在の思い知る」という言葉があるけれど、別れた後でその大切さをわかってしまう。

 小学生5年生くらいの頃に、本当に毎日遊んでいたくらい仲の良かった子から突然話しかけられなくなり、絶交宣言をされた日を思い出す。グッと喉に詰まるような痛みとともに。原因は結局教えてもらえないまま、中学時代は機会があれば話すくらいの関係性になった。ちょうど小学生から中学生の時に、何も考えずに能天気に行動していたのだが、その時初めて「自省」という言葉を覚えた。生きている中での別れというのは、この世界における永久の別れとは異なり、多かれ少なかれお互い双方に問題があるものなのだ。もしかすると、それがちょっとしたトラウマになっているのかもしれない。私は基本外面は良いのだが、本当に本音を言い合える友人は少なくて、数えるほどしかいない。

 過去本当に好きだった人と別れた時は、世界が白と黒で構成されていた。笑っちゃうくらいに。よくドラマとか本とかで、そういう世界があることは知っていたのだけど、まさか私自身がそんな風になるとは思っていなかった。ちょうど就活時期で、すべてが投げやりになり、食事も口を通らなかった。楽しかった日々がぐるぐると下手くそなメリーゴーランドのように回り続ける。カラカラカラカラ。乾いた音を立てていた。

 思えば、その時にも涙は出なかった。どうしてかな、悲しいはずなのにね。ようやく茫然自失状態から抜け出した時に思ったのは、「ああ、私とりあえずお腹減ったな」ということだった。それまで食べてなかったことが嘘みたいにもりもりと食欲が出てきて、その時期は数週間足らずで確か5キロくらい太った。まったく持って極端なやつである。

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 そしていくつもの別れを通じて私が学んだことは、とりあえず私には世界平和なんて考える暇がない、ということだった。

 時々、とんでもない慈愛精神で持ってこの世界の人たちが幸せになりますように、という人がいるのだが、そんな風に思えること自体まずすごいと思うし、それだけの全体を俯瞰して世界を見ることができる人は尊敬する。私自身はそこまでのことは思えないし、基本的に自己中心的なことがだいぶあるので、とてもじゃないがそんな余裕を持てない。

 今でもやっぱり誰かと別れるとなった時は涙は出てこないからまるで自分が人ではなくてロボットになったかのように思ったりするけど、人並みに感情が空っぽになって、世界から色が失われ、そして時々自棄になる。生きれば生きるほど、人との別れの数が多くなっていく分、私は肩肘張らずにその度にきちんと私の近くの人を大切にしよう、という原点に立ち返る。

 昔会った子も同じようなことを言っていた。「私、世界平和ってできないってことに気づいちゃったんです」って。私は、きっと、まずは自分の周りにいる人を大切にするくらいのキャパシティーしか持ち合わせてないんです。でも、それって、突き詰めていけば世界平和につながるんじゃないかって、そう思うんです。

 ありふれた日常の中で、一際「さよなら」という言葉が異彩を放っている。異なる色が滲み出た後で、それから一切の色が消えてしまう。今でも、私は「さよなら」と言うことに躊躇い、たとえその後もう二度と出会うことのないと思われる人たちにも、別れ際は「またね」と言う。「さよなら」と誰かに言う時には、そこにきちんと愛情が込められている時だろうから。

 これまでに歩いた道の途中で、私とは別の岐路を進んだ人たちのことを思い浮かべる。その人たちの辿った道が幸多からんことを。秘めた思いを込めて、静謐な祈りを捧げている。

↓ずいぶん前から好きで、今もずっと聞いている歌。

 「さよなら」の言葉が、ただ哀しいだけではなくて、愛に満ちた粒子で象られていることを心の底から願いまして。


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