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ビロードの掟 第25夜

【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の二十六番目の物語です。

◆前回の物語

第五章 日曜日よりの使者(3)

「海は──尊いね。波の音を聞いたら、不思議と心が落ち着くよ」

 奇しくも、あのときも凛太郎と優里も海に来ていた。どうにもムシャクシャして海でこのやるせない気持ちを発散したいのだ、と彼女が言ったのだ。

 駅に到着してから海に向かうまで、優里は言葉を発さずにその代わりに『日曜日よりの使者』を少し掠れた感じのハスキーボイスで口ずさむ。

 海まで向かう途中で野良猫を何匹か歩いている姿を見かけた。優里はその猫を見て、羨ましそうな顔をした。

「私もさ、ウイスキーの中に飛び込んで、頭がクラクラしながらスイスイと泳ぎ続けたい時がある」

 彼女は少し俯き加減で両手を後ろで軽く組み、砂浜の上を歩いている。前を歩いていたので、顔の表情がよく見えない。

「もう今の日常のことを全て忘れて本能のままに泳ぐの。リンくんも──そんなふうに思ったことない?」

 最初彼女が何を言っているのかわからなかったが、途中でああ優里は歌の歌詞のことを言っているのだなと凛太郎は気がついた。

 付き合い始めてから3年目の頃。

 その頃にはもう凛太郎も優里もある程度お互いのことを理解し、自分が考えていることをざっくばらんに話す間柄になっていた。優里の持って回ったような独特な言い回しは、凛太郎と二人でいる時にしか口にすることはない。

 優里自身は新入社員として入社した会社で本人の意思とは関係なく、営業の職に就いていた。たびたび彼女からは仕事が思っていたよりもしんどいという相談を受けていた。

「リンくん、信じられる?今のこの時代に、今だに女性と男性の間には見えない格差みたいなものが存在するの」

 優里はその瞬間瞳に光を失って、下唇を軽く噛む。

「なぜか雑務は『女性の方が手先が器用だから』って言ってそれとなく押し付けられる。下に1年目の男の子が入ってきても関係ないの」

 彼女はいかにも憤懣やるかたない、といった様子で言葉を紡ぐ。普段おっとりした彼女からは想像できない内に籠った気性の激しさを感じる。

「接待の際には、得意先の決裁者の隣に座らせられてお酒を注ぐ。中には酒癖の悪い人もいて、キャバクラとかそういうお店の延長線だと捉えて露骨に嫌な感じで接してくる人もいる」

 優里は海岸線に沿って設けられた縁石の上を歩く。「ああ、いろいろ難しいなぁ」とぽつりぽつりと呟きながら。道で見かけた黒猫はなぜかはわからないが二人の後を追いかけてきていた。

 凛太郎は少し前から優里の元気がなくなっていくのを目にしており、なんとかしてあげたいと思いながらも適切な言葉をかけることができずにいた。

 自分の彼女をなんとかそうした連中から守ってやりたいと真剣に考えていた。でも、考えても考えても安直な考えしか浮かんでこない。

「優里、君がそんなことをするのはやっぱりおかしいよ。今すぐにでも部署移動するか、会社を変えたほうがいい。それか信頼できる人に相談したほうがいい」

 凛太郎が助言らしきものを話すたびに、優里はふるふると首を振る。

「私だってできることならそうしたいよ。でも、それはまだできないよ。たとえば入社して2年くらいで辞めたり部署を変わったりしたらそれだけで周りからは根性がないって思われる。スキルも身につかないし。信頼できる人……ね。それがいたら苦労しないんだけどな。どうしたらいいか頭ぐちゃぐちゃ」

 優里はどこか苦痛そうな表情を浮かべる。世の中に対する理不尽さ。

 全て投げ出してしまえれば気が楽になるのだろうが、いかんせん優里はなかなかに我慢強い部分があり、きちんと先を考える人だった。

 この時点で、責任とか容易に放り出せないようないろんなものをその小さな肩に乗せてしまっていたのかもしれない。そういう意味で、凛太郎と優里は似たもの同士だった。

「でもさ、優里。それでたとえば君が苦しんだ挙句、体を壊してしまっては意味がないんだよ」

「うん──そうだよね。辞めるとか部署異動するとかはともかく、どうするか私自身でも考えてみる」

 優里はとにかく周りとの関係性に気を配る人だった。大学時代優里は芹沢さんという女の子と一緒によく行動していたが、芹沢さんはどちらかというと自由奔放という言葉が似合う人だった。

 芹沢さんは明るく、男性女性かかわらず人気があり、まるで太陽のような雰囲気を持っていた。

 それに対して優里は一歩引いた様子で他の人と接していたように見えた。それは優里自信が芹沢さんとの微妙なバランスを保つためにあえてそうした目立たない役回りを引き受けているように見えた。

 次に優里と会った時、彼女の表情はそれまでとは打って変わり、とても穏やかな様子だった。

 彼女は会社で信頼して相談できる人を見つけた、これで今の状況から抜け出せるかもしれない、と嬉しそうに話をしていた。その表情を見て凛太郎自身もずいぶん救われた気持ちになった。

 だが、それから数ヶ月経って再び状況は暗転する。

<第26夜へ続く>

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