上海蟹の夜、明朝を穿つ
吹きすさぶ風に乗って、寒さが頬を貫く。
私はおもわず、コートの前をぎゅっと握ってじっと耐えている。歩いている間も、体温がどんどん下がっていくのがわかった。季節が一巡りするたびに、私は無事に前に進むことができているのだろうかと不安になる。心が、何か穴が空いたように飢えている。
思えば、昨年を振り返った時になかなか自分が辿ってきた道は平坦ではなかった気がする。今年こそは、海外に行けると思っていたのに、その願いは叶わず。みんな、少し耐えていれば日常が戻ってくるだろうと思っていたのに。後から後から苦難は降り注ぐ。
新しい出会いも、悲しい別れもあった。去る者に対しては、最大限の敬意を払う。新しい出会いには、今度こそと強い思いを込める。あちこちぶつかって見えない傷を抱え、痛む膝にふぅふぅと丁寧に息を吹きかけた。
やがて傷口は自然と塞がって、たくさんの瘡蓋は勲章となり、まだ見ぬ明日を待つ。
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ありがたいことに毎年一緒に年越しをしてくれる友人がいて、例年のごとく昨年も共に除夜の鐘を聞くこととなる。本当は、大晦日に記事を投稿しようと思っていたのにすっかりへべれけになってタイミングを逃した。
どうせだからそばではなくて、豪華な食事にしようと張り切っていた。豪華な食事って何よ、と聞くと、そりゃ決まってるじゃないあれよあれ、と言って突然おもむろに歌を歌い始める。
なるほど、上海蟹ね。食べづらそうだけど、いいのかな。そもそも、果たしてどこで手に入れることができるのだろうか。わからない。それにしても、琥珀色の街って響きが好き。どんな街なんだろう。朝焼けに照らされ、淡い橙色の光に包まれる。私たちは、昨年の反省と今年の抱負を述べる。
こたつの中にうずくまって、年越しの準備をする。上海蟹を食べるのに四苦八苦しながら、紹興酒片手に言葉にならない言葉を発する。今年も大変なことがたくさんあったけれど、それでも私たちはこうして生きている。生きている以上は、人生を楽しく生きる権利が我々に等しく与えられているのだ、と友人は言う。
そういえば、昔その友人とほんの少しだけ、トランジットで上海に滞在したことがある。当時PM2.5なる大気汚染が問題になっていて、本来上海の街は晴れているはずなのに、あたり一体が濃霧に包まれているのだ。私たちはそこらへんの屋台で小籠包を齧りながら、今いる場所がどこなのかもわからないまま彷徨っていた。
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どれだけ歳を重ねたとしても、私たちの人生はなかなか一筋縄でいかない。
後悔ばかりが折り重なって、風が吹けども散る様子はない。折り重なる後悔の念は、やがて山を築いていつか自分の身に降りかかってくるのだ。そんなことを繰り返していたら、不思議と昔よりも何か起こっても動じないようになった。所詮底なんて高が知れているし、きっと大概のことは乗り切ることができるような気がする。これが、驕りの正体である。
漠然とした妄想だけが広がって、ひたすら道なき道を歩く。どこへたどり着くかわかる人は、誰もいない。そういえば、どうして蟹って横にしか歩けないんだろう。それって、前進していることになるのだろうか。終わりの街に向かって、生まれた時から歩いていて、でもその街はどこにあるかなんてわからない。闇雲に向かうのはなかなかしんどい。
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私が思春期を謳歌していた時節、常日頃から私は私であることを気に入っていて、でもその一方で自分を好きであるということは、ともすると自己中心的になって周りに迷惑をかけてしまうのではないかと思っていた。
だから極力そうならないように努めたけれど、たぶん今思うとそれはうまくいっていない。結局私は自分を優先するあまり、他人を傷つけ、その後で自分がとった行動に思い悩み、自分という人間はどこか欠陥がある人間なのではないかと考えることで自己解決を図った。果たしてそれは円満な解決方法であったかということは、今でもわからない。
たくさんのコンプレックスを抱え、夜眠れない日々が続き、色んな人に迷惑をかけた。それでも、私はこうして広く浅く呼吸をしている。
類は友を呼ぶという言葉が真実なのか、それとも自分と似たような人間は磁力のように自然と集まる本能が先にあるからなのかわからないが、今でも私が付き合う人たちは自分が好きだ。もう一度生まれ変わっても、また自分自身であってほしいと願う人たちばかりだ。
いくつもの年の瀬を重ねて、自分が好きということに対してコンプレックスを抱いていた私は、今はそれでもいいのではないかと自己肯定をするに至った。
私が、私を好きなことのどこが悪いんだ。自分が好きだからこそ、自分を大切にしてくれる人たちに対して敬意を払うのではないのか。自分を好きでいてくれる人に、感謝を示すのだ。自分が好きではないと、きっと周りが見えなくなってしまうし、反省を示すこともできない。
だから、自分を好きであることは恥じるべきことではない。私は、私だけの世界を心底愛している。
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傷は癒えても、その跡は半永久的に残り続ける。その傷跡を見るたびに、私はなんて愚かなことをしてしまったんだろうと思い、あるいは他人にされた酷いこととか追い詰められたこととかを思い出す。楽しいと思ったことは次第に時とともに薄れていくのに、どうして苦しかったことばかりがドスンと胸の裏側に残ってしまうのだろう。
一度傷を負った部分を自分はいつの間にか守ろうとしていて、優しくそっと撫でて言葉をつぶやく。それは誰かに呪いをかけるための呪詛かもしれないし、もしかしたら誰かを救うための祈祷かもしれない。
来るべき新年の光に手を翳し、きっと来年はいいことがあるだろうと確信をこめて胸の中に言葉を刻みつける。どんよりとした深い底にある人の瞳は、明日に希望を持つことを諦めた人だ。それはもしかしたら、本人を取り巻く環境のせいかもしれないし、自分自身が犯した過ちのせいかもしれない。
私はその人たちのことを否定する気はない。その人たちの気持ちも、なんとなくふと感じ取ってしまうから。でも、明日に希望を持つ人の瞳は強い。発する光は、眩しい。
なんだっていいんだ。この世界に産み落とされた瞬間から何十年と経っているけれど、明日か明後日か1週間後か一ヶ月後か一年後か。わからないけれど、小さな希望はいつだって存在している。漫然と見ることを拒んでいるだけで。見えない未来に向けて、自分を希望に誘うものがあればそれだけで生きていける。
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改めて新しい年を迎えて、薄く目を開ける。そこにいる私は、生まれ変わった私なのだろうか、あるいは幻想だけが積み重なった自分なのだろうか。自分自身のことなのに、わからない。昨年はやり残したこともあったし、思いがけず新しいことを始めることができた年でもあった。
その人の価値って、いったい誰が決めるのだろうか。頭がいいだとかお金をたくさん持っているだとか、見た目が良いだとか、肌の色、性別、人種。そんなもの単なる飾りに過ぎなくて、突き詰めると相手の生き方が尊敬できるかどうか、それに尽きると思っている。
その人が、どんなことを考えて生きているのか。慎ましやかな日常に、愛を持っているのだろうか。私は今年、ただただ正しく生きることが目標だ。誰に対しても、きちんと私は自分の意志を持ってここにいる。誰かと向き合うことができている。そんな風に胸を張って生きたいと考えている。
年越しを一緒に迎えた友人たちは、お昼頃に少しばかり遅い朝ごはんを食べて私の部屋から出て行った。彼らが、帰るべき場所へ戻るために。一人残された私は、ポツンと大きな存在感を放つ上海蟹を一人寂しくゴミ袋の中に入れる。そうか、私は今一人なんだね。どうしようもなく、この世界に取り残された気分になってくる。
テレビからは、額に汗かきながら走っている男性を、必死になってレポーターが中継をしている。何かに情熱を傾けている人は美しい。必ず、誰かがその人のことを見ていて、頑張れ頑張れと旗を振りながら応援している。
一人だけど、ひとりぼっちではない。誰かがいつだって優しく手を伸ばして私の手を引っ張ってくれていること。その手のひらの温もりを感じながら、今日からまた私は新しい世界を受け入れて、ただただ思いっきり背伸びをする。
そう、私たちは見えない光をただ、追い続けている。「不安」という言葉に乗せられた明日の朝を穿つために。
※お詫び
本当であれば、織田 麻さんが企画されていた#年越しの支度に参加させて頂こうと思っていたのですが、なんと気がつけばすでに年が越えてしまっていました。期限過ぎてしまい恐縮ですが、ハッシュタグこっそりつけさせていただきます。素敵な企画を立ち上げていただきありがとうございました。
改めて、本年もよろしくお願いいたします。