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#50 生き方についての愛を語る
自分自身のことが、自分でわからなくなる。今日は朝から少し調子が悪くて、思うように体を動かすことができない。「正しい」生き方って、何なのだろう。真剣に考えようとするたびに、心がうまく働かなくなる。
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つながりの糸と始まり
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誰とも繋がれなくて、だからこそ誰かと繋がりたいと、こっそり、だけど切実に願っているのかもしれない。
今、わたしはもしかすると人生の岐路のひとつに立っているのではないか。思わず耳鳴りがして、その場でうずくまる。誰かひとりひとりと適切な関係と距離を保とうと思っても、自分が不器用なばかりに時々その距離の測り方を誤る。ドクドクと脈打つ心臓の音がやけに、大きい。
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遡ること、5月の初旬。札幌の朝の日差しは、空気が澄んでいたおかげもあってか、とても柔らかかった。この時期特有の、爽やかな匂いは初夏の訪れを思わせた。さすがに気温は東京と比べると、肌寒い。さっぱりとした気持ちで街を歩き、透き通る風を掴むかのようにひたすらカメラのシャッターを押していた。
到着してから3日目、小樽へ早くから散々歩き疲れて私は自らの足で宿を目指した。時刻にして、19時ごろくらいだろうか。旅の最中で泊まっていたホテルは、すすきのから徒歩5分程度の場所だった。すすきのと言えば、三大歓楽街にも数えられる街である。
ふとした拍子、緑白青の看板が目に入った。ちょうど一息つきたいとおもっていたので、ホットのブラックコーヒーを買う。外へ出てふたを開け、ゆっくりと液体を流し込んだ。横を見ると、簡易的な喫煙用の灰皿が置いてあって、そこには数人がタバコを燻らせていた。流れる煙はいびつで、意思のない虚ろな何かを思い起こさせる。
ちょうど二人組の男性たちが話をしていた。
「おい、どうだった?当たりだった?」
「いやーそれがどうにも。パネル見て選んだんだけど、やっぱり実物をみると違ったなぁ。前のほうが良かったかもしんねぇ」
彼らが発する言葉は、ほんのわずかだが訛りを感じた。地方からやってきた人かもしれない。彼らが発する言葉には、「今日晩ごはん何食べる?」くらいの軽快な響きがあった。
彼らの言葉の端々から、「快楽」という二つの言葉がチロリと覗いている。
何かわからないけれど、私の頭の中でドロリとした黒い液体が流れた気がした。その正体は今もってわからないけれど、微かな不協和音のようにギリギリと音がするのだ。遠く、蝉のミンミン喚く音が弾ける。
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抗えない反動の感情
彼らのそうした会話に対して、強く否定する気もないし、その気持ちもわからないでもなかった。人は何か暗い部分を少なからず持っていて、その部分がぽっかり空いているのだ。満たされたいものを抱えていて、それ故に補おうとして求めてしまう。
でもね、とつい逆接の表現を用いたくなってしまう。人の本能としてそうした行為を求めてしまうのはある種当然の成り行きなのかもしれないが、それをどうしてもただの「目的」にしたくないという思いがわたしの根底にあった。頭のこめかみをギュッと締め付けられるような痛みが伴う。
思えば学生のころ、友人たちとは思春期ならではの話になったこともあったのだが、どうにも乗れなくてそれが何でかなと改めて思い返してみる。ひとつには自分の過去にちょっとしたトラウマがあったことも関係しているだろうし、あるいは何かその中でも自分なりに正しさを見つけようとしたのだろうか。
たとえ、それが人の本能であったとしても。何かうまく自分の中で言葉を消化することができなくて、その度に息をすることができなくなる。反面、清廉潔白でない自分もきちんと自覚している。結局その得体の知れないものの正体は、わからないままだった。満たされず、溺れそうになった日のこと。
絶えず自問自答するたびに、あの時のわたしの生き方は間違いだったと思うこともある。結局すべてを吐露できずに、記憶の中で堂々巡りをし続けるわたし。立ち止まると、その場で体を支えられなくなりそうな夜。
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北極星を語る夜に
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「人は人を変えることができない。できるのはまず自分が変わって、それがきっかけとなって他の人も変わる、そんなことだけだ」
巡るめくべくして手にする本が本当にこの世には存在するのではないか、と思うことがある。ちょうど先日、図書館へ赴いた時もそんな感じだった。その際手に取ったのは、李琴峰氏の『ポラリスが降り注ぐ夜』という本。新宿二丁目をめぐる女性たちの7つの物語。
ポラリスとは北極星のこと。北極星はこぐま座を形成する星の一つで、2等星と比較的明るい。昔の人たちは、北極星を探してそこから自分たちがいる方向を認識したという。誰かの進む道を、照らす星。表紙に惹かれて思わず手に取った。
読み終わった時、わたしは深くため息をついた。彼女たちはそれぞれ異なる性認識を抱いている。パンセクシュアル、デミセクシュアル、ノンセクシュアル、Aセクシュアル、バイセクシュアル、トランスジェンダー……。世間の大多数が持つモノサシから外れて、異なる趣味嗜好を持つ人たち。わたしの頭の中に、ぼんやりと「多様性」という言葉がチラつく。
もともと、わたしはいわゆる「普通」の人とは異なる姿勢を持つ人たちに対して、名前をつけるという行為が嫌いだった。そんなものに、名前をつけて何の意味があるのだろう。そもそも「普通」とは何か。そんなラベル貼りに、いったい何の意味があるのだろう。
自分自身もたぶんに人とは異なるものを抱えていて、それが未だに鈍い傷となっている。自分が、どこか欠陥品ではないかという不安と恐怖。その波は時々突然わたしを襲って、くらくらと眩暈がする。それが普通とは違うと認めてしまうと、自分自身を否定してしまう気がする。この世に、「普通」の人って存在するのかな。
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それでも、生きている
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多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突きつけられる言葉のはずだ。
時を同じくして、朝井リョウ氏の『正欲』を読んだ。思うところはたくさんある。この世界は、情報化されすぎて世間一般で正しいと思われるもの以外をひたすら排除しようとしている。自分たちが受け入れられないものは、徹底的に蓋をしようとするのだ。
その中には、確実に理解されない思いを抱えた人たちがたくさんいる。苦しくて、息もできない。最近になってLGBTQという言葉が広がって、マイノリティの人たちのことが認知されるようになってきた。これまで肩身の狭い思いをしてきた人たちが、ようやく胸を張ってこれが私なのだと主張できる世界。
それでも、その言葉たちが本当に理解されているのかというと微妙かと思う。「分かっている」と「理解する」という言葉は別の次元だ。私も、本当に「理解している」かというと正直自信がない。理解したいという一方で、彼らの思いに寄り添うことができているのか、でもそんな考え方自体も烏滸がましい気さえする。
そしてその定義からも漏れでた人が一定数いる。通常の世界では必然のように振る舞われる人に対しての関心興味、そこから外れた考えを持つ人たち。それは、場合によっては受け入れられ難い。至極当たり前で本能とも呼ぶべきものから逸れるというのは、それだけで生きづらい世の中だ。
だから、誰にも知られないよう水面下で息をする。自分が本当はこの世界に間違って産み落とされてしまったのではないか、という気持ちにもなってくる。「正しさ」と「誤り」の狭間で揺れる。正しく生きているように思うのに、どうしてこんなにも苦しくなるのだろう。
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見えない未来の行く先
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幸せの形は人それぞれ。多様性の時代。自分に正直に生きよう。
そう言えるのは、本当の自分を明かしたところで、排除されない人たちだけだ。
「正しさ」とは、世間一般で捉えられている常識の範疇に合わせることを指しているのだろうか。だとするならば、これほどまでに文明が発達した中でも、息をしづらい世の中だと思った。
きっと誰しもが、人には言えないような秘密がたくさんあって。場合によっては、それをこだわりと呼ぶかもしれないし偏愛と呼ぶかもしれないしフェチと呼ぶのかもしれないけれど。ますます、それが混乱をきたす原因になる。こんなこと、人に話すことができない。
結局人と話をしている時にも、自分がいかに他の人と変わらなくて、その範疇の中で「じゃあどんな特異なことをしているのか?」というポイント稼ぎをしているような気持ちになってくる。他人へ気軽に話せる話というのは、所詮常識の中で理解できる範囲にとどまる。
それはそれで自分自身がこの世界に産み落とされた存在意義を確かめることなんだけれど、そうまでして普通の人の基準にしがみ続ける自分は一体何なのだろうと思ってしまう。誰かが勝手に決めた尺度に従って生きていて、それが形骸化されたルールの形であるとするならば、それによって誰が得をしているのだろう。
きっと、みんな人には言えない秘密を同じように抱えていて、どうしようもない葛藤と苦しさを思い描いて、眠れない夜を過ごしている。崖から落とされたかのように、ハッといつも目が覚めるのだ。身体中が汗に塗れていた。誰かに理解してほしくとも出来なくて、歯痒かった。
何事にも、きっと覚悟が必要なのではないか、と最近つと考えるのだ。自分の意思を突き詰めるとき、異なる生き方を受け入れてもらいたいとき、異物である自分の感情を飲み込むとき。すべての状況において、自分が自分であるために、他の人を傷つけてしまうかもしれないことに対して、折れない思いが必要だと思った。
生きる上での原動力。自分が突き進むことに対して、誰かにとやかく言われる筋合いはない。わたしは私として生を受け、後悔したくないから、前を向いて歩いている。もう一度生まれ変わったとしても自分でありたいし、足りないところも含めて愛していこうと思う。
そう、わたしはこの身一つで荒波に抗うよう生まれたのだから。不明瞭で幻にも思えるような現実の最中で。
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NO WORDS, NO LIFE
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「カテゴライズされることで自分自身の存在に対する安心感が得られるのなら、してもいいんじゃないかな?だって、言葉がないのはあまりにも心細いんだもの」
言葉がなければ、もっと楽に生きられたんじゃないかと思う時もある。こうやって、自分が思ったことや感じたことを、言葉の粒にして書き連ねることで息をしているにも関わらず、だ。本能のままに生きることができたらどんなによかっただろう。理性が邪魔をして、なるべく普通であろうと思う自分が時折情けなくなる。
言葉があるからこそ、人を傷つけてしまう。言葉があるからこそ、人は救われる。言葉があるからこそ、悩み、喜び、無性に泣きたくなる。言葉がこぼれ落ちた砂はサラサラとその場に染み込み、やがて自分の肉体の一部になっていく。それは、時に相手との関係性を定義づける。
誰かと真に繋がることは、どういうことかなと思った。流れゆくタバコの煙を見て。目的ではなく、「手段」だと思った。「愛」を示すための、一つの手段。最上級の、愛情表現。そう信じたいし、そうでありたい。綺麗事かもしれないけれど、人でありたいと願った。
夜を味方につけた二人の男性は、どこへ消えたのだろうか。気がつけば、灰皿からは白く細い煙が流れていた。神隠しにあったかのようだった。どうか、彼らが安らかな眠りにつきますように。
夜空には北極星が遠く見えて、わたしがこれから行く先の方向性を示しているかのごとく輝いている。
「安心して。確かに大変なこともあるけど、楽しいこともたくさんあるものよ。世界を、そして自分自身を変える力がなくても、私達はずっとここにいるの。常に複数形で、いるのよ」
みんな、心の中にあるどうしようもない隙間を、なんとかして埋めようと苦心している。その満たされない空間を、何か血の通ったもので埋めることができたらいいのにね。その何かはきっと、貴方の一番そばに存在している愛であることを祈って。
故にわたしは真摯に愛を語る
皆さんが考える、愛についてのエピソードを募集中。「#愛について語ること 」というタグならびに下記記事のURLを載せていただくと、そのうちわたしの記事の中で紹介させていただきます。ご応募お待ちしています!
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