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「永遠についての証明」と正しさ。
⚠︎ネタバレを含みます。
キャラクター紹介
三ツ谷 瞭司 数覚(理論を見出す能力)に優れた天才、厳密な証明が苦手。
熊沢 勇一 数学オリンピックに出場、瞭司には劣るが数覚を持っている、厳密な証明が得意。
平賀 厳密な証明を得意とする。証明の穴を見つけることが得意。着実な成果をあげ、数学界で派手さは無いが評価されてる。
「もうひとつ言っておく。数学の世界では、完全な証明を示した者だけが解決者として認められる。つまり、少しでも証明に穴があれば解決者とはみなされない。それを修正して完全な証明を作り上げた者だけが解決者になる。」
数学の世界では(正しさ)に勝るものはない。どれだけ鮮やかな解法も、軟新な着眼点も、(正しさ)には勝てない。だからあの時、ひと言も反論することができなかった。あの、針穴に糸を通すような緻密さを、瞭司は持ち合わせていない。
数幾何学における評価基準は、理論を構築するアイデアよりも、それをより速く完璧に証明したものが実績として名を残します。感覚という曖昧なものではなく、明確な理論でないと解決者にはなれず、どれだけ貢献し、かつ稀有な才能であったとしても記録上は、アイデアの提供者にしかなれないのです。
新しい理論が生まれた時、人は数学者が理論を創造したと思いこむ。しかし数学者がそこにいようがいまいが、理論は厳然と存在する。創造するのではなく、見出すのだ。
英語で<理論>を意味する<theory>は、ラテン語で見る)という言葉に由来する。たったひとりの天才が目撃することでしか、理論はこの世界に姿を現さない。
日本人で初めてフィールズ賞を受賞した数学者、小平邦彦は随筆でこう書いている。
数学が分かるとは、その数学的現象を『見る』ことである。『見る』とは或る種の感覚によって知覚することであり、私はこれを数覚と呼ぶ。
主人公の瞭司は数覚が優れており、21世紀を代表する様な画期的な理論を発見します。基底的な整数の理論で、それが解決されれば、他の無数にある未解決問題も多く解決される重大な発見です。
瞭司は、そんな稀有な才能を持っていますが、厳密な証明が苦手なために、協力者である仲間と離れると、一人では思うような評価を上げることが出来なくなります。
真理は瞭司の中だけで確かに存在しますが、それは誰にも理解されません。
「僕はね、クオークの先を説明できると思っているんです。だってそうじゃないと、辻褄が合わないんですよ。実験的に証明できないからってそれをないものとして扱うのはおかしいでしょう。僕はあの実験主義というのかな、そういうのが好きじゃないんです。あなたも数学をやる人ならわかるでしょう」
藤井聡太というたった一つの脳が持つ計算処理速度が、Aiの速度や発想を超える様に、専門家の脳が持つ膨大な経験値からくる最善手の感覚による帰納法的な精度の高いアナロジー(類推)は存在します。
陰謀論的な発想ですが、瞭司の優れた感覚が導いた画期的な理論で、目に見える現実が高い整合性を取りながら説明できる時、それは彼にとって自明と断言していいほど明確な事実なのです。
「だったら私たちにも見せてくれ。今すぐに」
あからさまに、平賀は冷笑してみせた。瞭司の顔色が蒼白から赤へと変わる。
「真実を誰にもわかるような形にすることこそが、数学じゃないのか。証明できない妄想の垂れ流しは数学ではない。それを妄信する人間も、数学者ではない」議論の勝敗は誰の日にもはっきりしていた。赤黒い顔をした際司は、強く下唇を噛んでいる。犬歯が食いこみ、今にも血が流れだしそうだった。血走った視線が熊沢に向けられた。助けを求めている。
できるだけさりげなく見えるよう、熊沢は頬杖をつくふりをして視線を逸らした。
相手は平賀だ。助けられるわけがない。そもそも、暸司が皆に理解できるよう説明していれば、恥をかくこともなかった。妄想の垂れ流しではなく、(数学)の言葉で話していれば。
セミナー室の壁を見つめているうち、黒い想念に覆われていく。急速に拡大する蔑みの感情は、もう熊沢自身にも止められなかった。
こいつは数学者じゃないんだ。
どうして今まで、こいつを天才だと思っていたんだろう。
演壇に視線を戻したとき、すでに瞭司の姿はなかった。部屋の隅で寒さをこらえるように身を縮めている瞭司を、熊沢は温度のない目で見た。
平賀に厳しく批判され、共同研究者であり、理解者兼友人だった熊沢にも、数学の言葉で話せないという欠点で見放された。瞭司の全てである数学の成果が認められないという苦しみ。
この様な事は、フィクションだけでなく現実でも起きています。そもそもこの話自体が、現代でもABC予想を巡る証明問題をモチーフに作られています。
ABC予想は、世界の数学者が証明に挑んできた整数論の難問。京大数理解析研究所の望月氏が、自身で創った「宇宙際(うちゅうさい)タイヒミュラー(IUT)理論」を使って証明に挑み、論文が2021年、数学誌に掲載された。
ただ、IUT理論は「どこが分からないのかさえ分からない」と言われるほど難解。さらに理論を疑問視する見方が消えず、理解者側と懐疑派の議論はかみ合わず膠着(こうちゃく)状態だ。見かねた日本の実業家が挑戦を促すため、理論の「間違いの証明」に100万ドルの賞金をかけている。
これらの論文において望月教授の主張する証明は、数学界に対する前例のない独特な挑戦であった。彼は20年近くの歳月をかけ単独で研究を行い、このIUT理論を構築した。実績と緻密さで評価を得ている数学者である彼の主張の影響は大きかった。だが、彼が発表した4本の論文はほぼ理解不能な上に、500ページを超える論文は全く新しい形式で書かれており、多くの新しい用語や定義がなされていたのだ。
既存の数学界に存在しない語彙や定義で書かれており、多岐に渡る数学の分野を繋げる包括的な理論を理解できる人間は、非常に限られた人数しかいません。
フェルマーの最終定理とポアンカレ予想もそれぞれ正しいという評価が下るまでに3年かかり、賞の授与は更に数年かかりました。ABC定理はとても重大な証明なので、時間がかかるのは仕方がないのかもしれません。
2018年発表の論文なので、もう6年経っているのですが、世界での査読も進まず、停滞した状態が続いています。望月新一氏自身が、みんなが理解できる様に論文を書かなければ解決しない問題だ、という意見も出てきています。
物語では、天才少年が出てきて解決に進みそうな希望が示唆されますが、現実では未だ解決の目処が立っていないません。
著名な海外の数学者から、定義が間違っているのではないかという正式な文書のやり取りがあったものの、望月新一氏が太字でComplety False!と書いたり、挑発的な文書で応答した事によって質問者が気分を害し、やり取りは終了してしまいました。
正しさの証明というテーマ
文学や芸術の評価基準は、当然のことながら実証主義的な価値観で測ることが出来ません。文学も構造主義的に最小の意味単位まで分解する事により、正しさを作ろうとしましたが結局定義出来ませんでした。数字では無く、言語という記号にはトレンドなどによって色が付き、解釈を固定することが出来ません。
文学ではオフィシャルの明確な評価基準を作成する事は不可能で、正しさが存在しないという思想が唯一の正しさに成りました。
「僕、テストって嫌いだけどね。テストの問題って答えがあるでしょ。答えがあるってことは、すでに誰かが解いてるってことだよね。他の誰かが解決済みの問題なのに僕が解く必要あるのかなっていつも思う」
既存の価値観として既に社会的に正しいとされている事を、わざわざ念押しとして肯定する行為に対する本質的な意義を見出すことは難しいです。
相手が望む言葉を渡すだけの、ポルノ(セラピー)を作ることは楽しくありません。
驚かせたいや目立ちたいという初期衝動のまま、愉快犯として虚構の正しさを創作する、エゴイスティックで反社会的なものが、私にとってのエンターテイメント(文学)です。