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ここは眺めのよい音楽

 手首にビビットな一筋の赤色がある。

 覚えがなくて、よくよく思い返してみればさっき書類の束から引き出したファイルの片隅がそのあたりにひっかかったような気もした。怪我というほどでもないひっかき傷はテストではねつけられる赤ペンより薄く明るいビビットな赤だ。人工的な赤だった。
 血管は青く見える。だんだんと飛行機雲のように見えてくる。どこへ向かった軌跡がわたしの体に残るというのか。すぐに消えるだろう傷跡と、死ぬまで消えないだろう血管の薄く重なり合った場所が意識すればすこし痛む。
 そのことが、大切な気がした。

 andymoriを聴いている。なんというか、これは眺めの良い音楽だ。心臓の音と、リズムの心地が全員に合う感じで、尚且つふかく染み込むきらいがある。今更聴いているなあと思うけれど、音楽に今更なんてないとも思う。
 sunrise&sunsetをかけながら、初夏の風を頬で受ける。後ろ向きなまま、前向きに生きる。それはきっとコツのようなものなのだろう。

 新潮七月号で、川上弘美さんの「あなたたちはわたしたちを夢みる」を読み切った。
 静かな気持ちになるし、悲しいと静かはすごく近いのにすごく遠いかんじ。からだがあってこころがあって、生活があって海がある。言葉の形が重なりきらずに崩れても、それを眺めることができる関係は美しい。
 そんなことを、思った。

 ぜんぜん関係ないのだけれど、よしもとばななさんの「ごはんのことばかり100話とちょっと」を読んでいて、ユーモラスで大変小気味よく、されどおおらかでおしゃれでいつも通り空気のある文章で素敵だったのだけれど、こういう自然体で美味しいものを愛することはこだわりと捉えられてしまう一面があるというか、その人には明確にくっきり見えているラインが一切わからないような人が増えているような気がして、そちら側から見るとこの本はたいそう偏屈に思えてしまうだろうなと感じた。
 ひとつひとつに真剣に向き合うような姿勢みたいなものを、いちいち携えていきてゆけるひとは強いのだと思うし、それこそ愛情をもって生きている。日常の延長線上にそれらがあって力むわけじゃなくてただ物事に感じる表面積を広げたままにしておいているというか。海外の市場のひとに愛情を足したみたいな感覚。日本じゃ珍しいのかなと思ったり。そういう感じがした。

 で、何が言いたいかというと、わたしが選んだお店に行くたびに声がひどく小さくなる人がいて、つまりそれって大変萎縮しているというか、リラックスして楽しむべき場でそんな態度をとらせているわたしって合っていないということ…?という気持ちになってしまったという。
 だってこの間カレーうどんのお店にすすめられて行った際にはそんなことはなく、わたしが選んだカフェではほとんど聞き取れないような声で注文していた。
 気取ったカフェではなく、古民家を改造したような場所で、隣接した公園がお庭の向こう側に見えて涼やかな風が吹き込む、とても居心地のよいカフェだった。わたしは手書きのメニュー表から見つけ出したカッサータをわくわくと頼み、相手はアイスティーを頼んでしばらくじっとしていた。
 カッサータは洋酒のたっぷり入ったアイスケーキのようなもので、パウンドケーキのアイス版、みたいな味がする。銀のフォークで少しずつ切り分けながら、相手がじっと見ているのを見ていた。たべる?と一口あげても、何も言わないので苦手なのかなと思ったりした。聞くと、美味しいと言っていた。
 そういう、お店と人との相性みたいなものって仕方ないものだけれど、選んだ側が気に入っている場合、気に入ったわたしと相手は合わないのかなあと思ったり。だけどそういう掠れるほど小さな声で話すカフェや喫茶店を気に入らないわけではないのか、あとで苦手だったかなと思っているとすごくおいしかっただとか肯定的な意見を口にする。まあそれなら、と思うのだけれど。

 久しぶりに書くと止まらなくておもうままに脈絡のないことを書いてしまった。
 端切れのような記憶と、今の感情をふっくらあたためてここに記しておきます。




2024.0615 

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