【知られざるアーティストの記憶】第97話 マサちゃんの火葬式(上)
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第13章 弟の死
第97話 マサちゃんの火葬式(上)
マリはマサちゃんの火葬式に、できることなら参列したいと思った。彼もまた、
「キミも来ていいんだよ。」
と、強くそれを願っているようであった。マリの夫は、マリが参列するのは故人本人との関わりの深さからなのかと問い、マリがワダイクミのパートナーとして参列することを嫌った。マリは夫の気持ちを押し切って参列することを決めたため、当然と言えば当然のことであるが、忙しい朝に夫の協力を何も得られなかった。
2022年3月10日、斎場への道順と集合時間は、その前に三男を保育園へ送迎しなければならないマリに、送迎のあとに一度帰って礼服に着替える時間を与えなかったために、マリは朝から礼服に着替えて三男の身支度を手伝わなければならなかった。食べ物が付いた油っぽい手を襟の後ろに回して三男に抱きつかれ、巻き付いた脚でワンピースがしわくちゃになっても、気にしている時間などなかった。
言われた開始時刻に間に合うかどうか、きわどい運転の最中にスマホが鳴り、
「今もう全員揃っていて、マリさんが到着するのを待っています。」
とノリオさんが受話器の向こうで穏やかに告げた。誘導されながら斎場の入り口に一番近いところに車を滑り込ませると、ノリオさんと、その先頭には彼が心配そうにこちらを見ながら待っていた。
「私は礼服は持っていない。だからこのスーツを着て行こうと思う。」
と先日彼が予告していたオリーブグリーンのスーツは彼の体にぴったりで、若い頃の彼がこだわって仕立てたのであろう、なるほど彼によく似合っていた。ジャケットの下にはシャツではなく、彼が普段からよく着ているレンガ色のジッパーハイネックのカットソーをインしていた。それは葬儀に場違いなだけでなく、非常識な着こなしなのであろうが、彼が着ているとさほどおかしくは見えなかった。レアな彼のスーツ姿はシャープに決まり、いつものラフないで立ちの彼とは別のジャンルの人のようで――例えるならば実業家というよりも、やはりどちらかと言えば少し売れ始めた芸術家、あるいは映画監督というふうで――、マリは不謹慎にもその姿に思わず惚れ直しそうになった。彼は式から戻ると思いのほかすぐにそれを脱ぎ捨て、写真に納める隙をマリに与えなかったので、その姿は今はマリの記憶の内にのみある。
マリの到着に安堵した彼に付き添われながら待合室に向かう間、彼はマリの礼服の襟の後ろに付いた汚れを熱心に払った。待合室の長テーブルに居並ぶ彼の親戚たちの末席に座り、軽い挨拶をすると、マリは彼らの続柄を注意深く読み取ろうとした。彼らはマリが誰なのか不審に思ったはずであるが、特に尋ねる者はなかった。彼とノリオさんは斎場の職員との手続きや打ち合わせのため、終始席を外していた。マリはこの中にいる唯一の女性である、マリの隣に座るおばさんに声をかけてみた。
「この度はご愁傷様でした。ご親戚の皆さんの中へお邪魔いたします。私はマサさんやお兄さんのごく近所に住む者で、普段からマサさんとはよく会って立ち話をしたり、うちの子どもたちにお菓子をくださったりと、良くしていただいていたんです。」
「あら、そうだったんですか。マサユキくんが、そんなことをしたのね。こちらこそ、わざわざ来てくれてありがとうございます。」
細々とした声でおばさんは答えた。
「ところで、マサさんやイクミさんは小さい頃はどんなお子さんだったんですか。」
マリはあわよくば親戚から彼の幼少期のエピソードを聞き出そうとしたが、
「私はあまりよく知らないのよ。」
とこのおばさんからの収穫は得られなかった。この人が彼がよく話題にした芸術家のおばさんだろうか、と予測するも、どうも彼女からは芸術家らしい強いオーラを感じられなかった。あとで彼に確認すると、やはりその人は芸術家ではなく、別の早くに亡くなったおじさんの奥さんとのことだった。
やがてノリオさんと彼が席に戻ってきて、「喪主の代行」ということでノリオさんがその場を仕切り始めた。確かに、喪主であるイクミが喪主を務める姿は想像ができなかったが、ノリオさんが代行を務めるということも想像していなかった。親戚たちはさも当然のようにこの配役を受け入れていた。やはり、彼は一人前の社会人として親戚筋からも扱われていないのだ、という事実にマリは愕然とした。
ともすればイライラしてしまいそうなほどゆっくりとしたテンポで、しかしさすがは市役所の課長を務めあげた人の流暢な話術で、ノリオさんはマサちゃんの近年の経緯について詳しく報告をした。そして、
「今日はご近所のスナガマリさんが来てくれています。マリさんはご家族があり、お子さんもいて忙しい中で来てくれました。マサユキくんがマリさんのお子さんをあやしたりしていた仲だそうです。」
と、親戚たちにマリのことを紹介した。のちにノリオさんがマリに明かしたことによると、このときにはノリオさんはマリのことを、マサちゃんの恋人なのかと思っていたそうである。
一通り話し終えた後でノリオさんは、
「イクミからは、何か言うことある?」
と彼に話を振った。
「ないよ!」
と彼はぶっきらぼうに言い捨てた。それだけ、彼の親戚に対するわだかまりは深いということだろうが、
(それにしても、ないよ!だなんて。社会性の欠片もないんだから。)
とマリは心の中で苦笑した。
「マリさんからは、みなさんに何かお話しされますか?」
とノリオさんに聞かれ、マリもまた、
「いいえ、大丈夫です。」
と微笑んだ。
つづく
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。