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【知られざるアーティストの記憶】第95話 あの日、彼のことを見続けていた人影

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第13章 弟の死

 第95話 あの日、彼のことを見続けていた人影

マリはマサちゃんのことを想った。昨年の11月2日にO病院への転院に付き添ったとき、マリがお腹に愉氣をすると涙を流したマサちゃん。その月の25日に彼と一緒に面会に行くと、転院のときよりも遥かにはっきりと受け答えをし、早く家に帰って好きな物を食べたいと語っていた。月一度の面会が許されるのなら、毎月会いに来ようとそのときのマリは心に誓ったのに。

翌12月から1月まで彼が緊急入院となり、退院後から通院しながらの抗がん剤治療が始まり、1月末のS医院への転院、その通院が落ち着いたら今度こそマサちゃんに会いに行こうと思っていた矢先のマリ一家のコロナ感染であった。また、ちょうどその頃から、通称「まんぼう」と呼ばれた流行病の「まん延防止等重点措置」が施行されたのを機に、O病院もついに「全面面会禁止」となった。

3カ月近くもの間、家族が会いに来ない日々を、マサちゃんは何を感じて過ごしていたのだろう。誤嚥性肺炎というのは、やはり苦しいのだろうか。
(どうか、どうか生きる望みを失わないで。)
とマリはマサちゃんに祈りを送った。

マサちゃんのことを忘れてなどいなかった、とマリは思いたかったが、コロナに罹ってから夫との離婚話に向き合う日々の中で、マリは束の間マサちゃんのことを忘れた。兄のイクミの心には常にマサちゃんの存在があったはずであるが、マリとの間で話題にすることはなかった。しかし、彼の家の廊下に無造作に貼られた年間カレンダーには、これまで何も記入されていなかったのに、マサちゃんが入院してからというもの、マサちゃんの病院に関わる日程だけが書き込まれていったことにマリは気づいていた。


©Yukimi 彼のスケッチブックより 落描き、色見本


2022年2月27日、マリは自宅待機の期間が明け、11日ぶりに彼に会いに行った。彼は取り立てて感慨もなく、いつものように淡々とマリや家族の体調について尋ねた。

「昨日の晩、体が少し熱っぽくなったから、キミからもらった葛根湯を飲んで早く寝たんだよ。そしたら、キミが夢に出てきた。キミはビキニを着ていたよ。」
彼はだしぬけにそんな話をした。

マリは昨年、四十を過ぎてから人生初めてのビキニを着たことを、彼にはまだ話していなかった。若い頃のマリは今より遥かに太っていて、自分の体型に自信がなく、そうでなくても元来、ビキニなどを着て女であることの魅力を誇示するタイプの女ではなかった。そんなマリに四十路を過ぎてからビキニを着せたのは、「ビキニは制服」だと言って確信犯的にその姿をインターネット上に公開していたマリの気功の先生であるダージャであった。

気功によって引き締まった今の体であれば、自分もビキニを着てみるのも悪くないなという気分になっていた矢先、ダージャがお気に入りのブラジリアンビキニの福袋に入っていて、自分では着ないデザインの一着をプレゼントするという企画があり、マリが見事当選したのであった。そのプレゼント企画には、ダージャの気功を継続し、その体型変化のビフォーアフター写真をこのビキニを着て撮影してくれる人、という条件があった。マリが写真の上手い友人に撮影を頼み、ビキニ姿をSNSにアップすると、多くの女友達が絶賛し、その体型変化に驚いて気功を始める人が後を絶たなかった。マリは生まれて初めて自分の体型に自信を持ち、ちやほやされることに気をよくしていたのであった。

よくぞ言ってくれた、という気持ちで、マリはスマホを取り出し、嬉々として自らのビキニ姿の写真を彼に見せた。かわいい、とか、綺麗などと言ってくれることを当然のごとく期待して。すると彼は、
「夢で見たのはこんなの・・・・じゃなくて、もっと若くて豊かな・・・・・・・・・キミだったんだけどな……。」
と、夢のイメージを壊されて失望したように言うので、マリの自尊心はまたもや砕かれた。彼の夢に出てきたマリは、いったいどのようなビキニ姿をしていたのであったろう。不思議なことに、この2022年2月27日は、マリが気功に出会ってちょうど1年の日であった。


©Yukimi 『未来へのレクイエム』P・10


久しぶりの外出は、食料の買い出しや短時間の気功だけでもマリをヘロヘロにくたびれさせ、いかに体力が落ちているのかを自覚させた。気功は昼過ぎにゆっくりと行った。すると、途中でマリのスマホが鳴った。それは、初めて受けるノリオさんからの着信であった。

「もしもし、マリさんですか?オサダノリオです。さっきイクミが電話をしたらしいんだけど、出なかったって言うから、私の携帯からかけました。今日の午前中に、マサユキくんが息を引き取りました。マリさんにはいろいろとお世話になったので、マサユキくんも感謝していると思います。ありがとうございました。」
「え、今日の午前中ですか?それは……、ずいぶんと急でした。わかりました。お知らせくださりありがとうございました。」

彼は夕方に帰宅した。
「キミが帰ったすぐ後にO病院から電話がかかってきて、マサさんが亡くなったという連絡を受けたんだよ。それですぐにキミに電話をしたんだけど、キミは電話に出なかった。ノリオさんに電話をしたらすぐに来てくれて、一緒にO病院に行ってきたんだよ。」
スマホの履歴を確認しても、彼からの着信らしきものは見当たらなかった。彼は相変わらず淡々として、感情を露わにすることもなかったが、やはり気落ちしているように見えた。そして、思い出したように一つの記憶を辿った。

11月25日にマリたちが面会に行った少し後に、支払いのために彼とノリオさんだけでO病院に行ったことがあった。そのときは面会の予約を取っていなかったため支払いだけで帰って来たのだが、帰りがけに彼がマサちゃんの病棟を見上げると、人影が彼のことを見下ろしていたという。
「あの時、顔は見えなかったけど、それがどうもマサさんのような背格好に見えたんだよ。でもはっきり分からないから、そのまま帰ってきたんだけど。マサさんはずっとこっちを見ていたよ。」

マサちゃんに会いに行かれなかったことを、誰よりも悔やんでいたのは彼であった。

2022年2月27日、O病院から誤嚥性肺炎の連絡を受けた数日後にマサちゃんは逝ってしまった。マリが濃厚接触者にさせてしまったために彼は弟の死に目に駆け付けられなかった。マサちゃんもまた、兄のことを待たなかった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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