命がけの登山中に降りてきた不思議な感覚
ちょっとスピリチュアルにも見えるタイトルだけど、たぶんそういう性質の話題とは違うような気がする。
先日、りなるさんが記事で紹介されていた番組を見てみた。ロッククライミングが舞台のドキュメンタリー。
それによって自分の昔の体験を思い出したので、記事として書いてみよう。どんな体験かというと、人生でたった一回だけ経験した不思議な感覚について。
避けてきたロッククライミング
何度かnoteに投稿したように、僕がドイツで住んでいた当時は頻繁に登山をしていた。合計90回。
登山にもいろんなスタイルがあるけれど、僕は普通に歩く日帰り登山を楽しんでいた。ロッククライミングにはそれほど興味がなく、従ってわざわざスクールなどで習うほどの情熱はない。かといって自己流でトライして、痛い目に遭うことも望んでいない。
それよりは身体を壊すことなく、長いあいだ登山を楽しむことの優先度が最も高いので、自ずとロッククライミングには踏み込まなかった。
ただそうは言っても、日本と比べるとワイルドな登山道が多いドイツのこと。中級以上の登山道に入ると、しばしば両手を使ってクライミングの真似ごとが必要なコースにも頻繁に足を踏み入れることになった。それでも、相応の注意を払っている限りにおいては、命の危険はないレベルのコースだった。
そんな中で、本当に命の危険を伴うロッククライミングのコースに、二回踏み込んでしまったことがある。
危険を伴う登山
いずれも、現地のガイド本では黒色で表示されているコースだった。
これの意味するところは、現地の基準で上級者コースの難易度。でも、実は上級者コースといってもピンキリで、かなり簡単で物足りないようなコースも含まれていた。
という経験に基づいて、あまり警戒せずに登り始めたのが、前述の2回のうち1つ目のコース。しかしこの山では途中から急峻な岩場になっていて、万一ミスをしたら岩場をほぼ垂直に数十メートルは滑落し、明らかに命を失う地形だった。ただ、岩がしっかりしているから、ミスをしない限りは大丈夫。実際、恐ろしくはあったけれども、危なげなく登山を終えることができた。
問題はもう1つのコースだった。
登ったのは、11月の上旬。地図で見るよりもずっと懐の深い山で、七合目あたりに到達した時点で、既に4時間近く登り続けていた。道中は霜も降りて、なかなかの寒さ。
七合目からは急に岩登りのルートになっていた。山頂が視野に入ってきたが、そこに至る先々のルートは、ただならぬ険しさ。平均しても60度くらいの角度はありそうな。斜度60度といえば、感覚的にはほぼ絶壁に見えるもの。
「まあ、いけるところまでいってみようか」
と言って岩場に取り付き始めたものの、問題がいくつかあった。
まず、岩壁がかなり脆い。うっかりと脆い岩に手や足をかけて体重を預けてしまうと、滑落してしまう。また、滑落しないにしても、岩を崩してしまうと下の登山者を落石の危険に晒す。
あと、ドイツ人と日本人の体形の違い。一般的にドイツ人は日本人と比べて、そもそも背が高いことに加え、体のパーツの比率がだいぶ違う。たとえ同じ身長だったとしても、彼らの手と足は何割か長い。そして実は、ロッククライミングでは手足の長さが非常にものをいう。手足をかけられる岩の出っ張りの選択肢が格段に増えるからだ。
ドイツ人たちが長い手足を伸ばして難なくサッサと登っていけるような「現地基準では何てことはない岩壁」であっても、僕の場合は難儀する場合があって、時間もかかるしリスクも増える。それだけ神経を消耗する。
他にも、岩場の中に雪渓が混じっていること。11月だったとはいえ、日の当たらない北壁ルートで、既にところどころに雪渓ができている。雪渓に入ると滑らないようにアイゼン(靴の下に装着するスリップ防止の爪)を付けて登る。しかし、雪渓を抜けてまた岩場に入ると、アイゼンを外した方が良い。アイゼンの鉄の爪は、岩の上を滑ってしまう。
しかし、垂直に近い切り立った狭い足場の上で、片足で立って登山靴にアイゼンを付けたり外したりする動作は体力を消耗するし、それなりのリスクも伴う。荷物を背負ったままうっかりと体の重心が岩壁の逆側に移ってしまうと、バランスを崩してそのまま数十メートルか、場合によっては数百メートル落ちてしまう。命があるとは思えない。
そして問題は時間。もう冬至も遠くない時期で、17時くらいには暗くなってしまうだろう。明るい時間に下山できるとはとても思えない。
リュックサックの底には、何ヶ月か前に充電したヘッドランプを放り込んであるが、電池が未だ残っているのかどうか。もし電池が放電していて灯かなくなっていれば・・、さすがに暗闇の山道をスマホ画面の弱々しい明かりだけで歩くのは無理がある。
そんな中、引き返すことも考えた。しかし、岩場は登りよりも降りる方が難しい。ろくに休憩できる場所もないまま引き返しても、体力や筋力、そして何より集中力が持つ自信がなく、まずはそのまま登り続けることにした。
ようやく、なんとか頂上へ到着。少し広いスペースで、簡単にパンを食べて30分くらいは休んだだろうか。
その間に、登山好きのドイツ人同僚にスマホから写真を送って、もし何かあった時にはどの山を登っていたかをそれとなく知らせておいて。あと日本の実家へ手短に電話して、山の頂上にいることをさりげなく伝えて。これで、やることはやった。
さて、下山。
先ほど書いたように、岩登りは降りる時の方が難しい。特に、岩場が脆いときはなおさらだ。一回一回、足をチョンチョンと岩場に掛けてみて、崩れないかどうかを確認しなければならない。多大な集中力が必要になる。
集中力全開で必死で降り続ける。時折り、上から降りてくる人たちが崩した岩の塊が落ちてくる。自分も時々岩場を崩してしまい、軽い落石を起こしながらも降りる。とにかく必死だ。
すると。そのうちに不思議な感覚を感じるようになった。
自分自身の身体と、取り付いている岩壁との区別が、感覚的に分からなくなってきた。
自分と岩壁が一体化したような。どこからどこまでが自分の身体で、どこからどこまでが岩壁なのか。更にいえば、そんな区別すらどうでもよくなってきた。
自分自身と地球の境目が判然としない中で、無心で降り続ける。
新しい感覚だった。
滑落する気がしない。なぜなら、自分と岩壁とが一体のように感じているから。実際、スルスルと危なげなく降り続けることができた。
そうはいっても、途中でルートがなくなって、1mくらい飛び降りなければいけない袋小路に入り込んだり、明らかに登山ルートではない岩壁を伝ったり。
そんな中で、自分の限界を超える神がかった集中力を発揮して、なんとか岩場を降り切って七合目まで到着。
一難去って、また一難。その時間には、既に暗くなりかけていた。
リュックサックの底からヘッドランプを取り出して、灯けてみる。
と、幸い煌々と光を放ってくれる。
ああ、よかった。
呟いて、夜道を急ぎ下山していく。11月の山は、動いているうちは体も暖かいからいいが、途中で動けなくなったらどれくらいの寒さを感じるのやら。少なくとも、家の布団よりも快適な一夜が待っているとは思わない方が良いだろう。どこまでヘッドランプの電池と僕の体力がもってくれるのか。
そんな不安の中で、慎重にかつ急いで下る。心細さを感じている余裕はない、と自分に言い聞かせながら。
ふぅ、ようやく麓まで下山できた。時間は既に19時を過ぎて真っ暗闇。登り始めから11時間は経っていた。
ハンガリー人の登山好きに聞いてみた
さて、そんな文字どおり命懸けの登山からしばらく経って。
会社のハンガリー人同僚とよもやま話をしていた時に、その時の僕の経験について聞いてみた。
彼はいつも自分の限界にチャレンジして、常に自分を成長させようとしている人。仕事も、趣味も。
趣味についてはかなり本格的な登山をしている。冬にはスロバキアの山岳地帯に入って行って、滝が凍ってできた氷の壁をピッケルとアイゼンで垂直に登っていくような本格派。また、トレイルランといって夜通し山の中を100km以上もランニングするような競技にも出ていた。
彼の名前は仮名でイアンとしておこう。
イアン
「どうだ、最近自分自身の限界を越えるような登山はしたか?」
僕
「うーん、2回くらいはちょっとやり過ぎな登山をしたなぁ。いずれも意図して経験したものではなかったけれど」
といった体験談を説明をした流れで、イアンに聞いてみた。
僕
「ところで、その2つ目の山で岩壁に取り付いて必死で下山している途中に、不思議な感覚を感じたんだよね。自分が、地面というか地球と一体化している感覚を」
イアン
「ああ、その感覚は分かるよ」
イアンは即座に答えを用意していた。
イアン
「その感覚は、つまりこういうことなんだ。自分の全ての集中力を使って、自分の手足を動かして、支えになる岩を探す。そして身体のバランスをとろうと、死に物狂いになるだろ。人は、その状況把握と動作に脳の全てのチカラを使う。すると、それ以外のことに脳のチカラを使えなくなるんだ。脳のキャパシティーを超えてしまって。
そうすると、自分が地面や岩の壁と一体化した感覚になる。なぜなら、もはや自分が必死に取り掛かっている部分以外に脳のチカラを使う余地がないからね。その時、その瞬間だけに集中して、自分の身体と、自分が感じる感覚だけが全てになる。そうすると、自分自身と周りのものの区別がなくなるんだ。これが自分が自然と一体化した感覚になるメカニズムだよ」
ということらしい。
このイアンのロジックが真実かどうかは分からない。
ただ、いずれにしても、こういった精神の内面の感覚的な事象が科学的に解明されているとも思えないので、彼のロジックは誰も否定できない一つの説ということなんだろう。
まとめ
以前に投稿した、厳冬の雪山を登山していて感じた「いま、ここにいる自分が全て」という感覚。
あの時に感じた感覚とはまたちょっと違って、今回記事にした「自分が大地と一体化した感覚」は、今でも輪郭を持った自分の感覚として明確に思い出せる気がする。ただ、わざわざ命を懸けてあんな思いはもうしたくない、とは思うけれど。
山や自然は、他にどんな感覚を人間に用意してくれているのだろうか。
僕はまだ、その底を見ていない。
by 世界の人に聞いてみた