「スピリチュアル」って、何かしら?【note一周年の振り返り】
note初投稿から一周年となりました。
あの日のわたし、よくぞnoteを始めようと思い立ってくれました!
たまたま主人が話題にしていたそのプラットフォームに、「なんとなく」初投稿をしたことに、大きな覚悟や深い意味はありませんでした。
本当に、ただなんとなく。
世間一般の価値観でいうと、「なんとなく」って、それほど重要な意味は持たないかもしれません。
けれど、noteの世界に身を置いて投稿を繰り返すごとに、「なんとなく書きたくなったことを発信する」ことの力を感じるようになりました。
「なんとなく」思いついたことを発信する。
たとえば仕事や学業なら、何かしらの決まりや制約が伴うけれど……それをいっさい手放して、ただその瞬間、自分がなにを書きたいのかにフォーカスする。
自分を縛らない。
なににも縛られない。
すると、自分のなかで揺れるなにかを感じるようになりました。
方向を示してくれる羅針盤の針ようなもの……といったらいいかもしれません。
制約があったときには、それに氣をとられて氣がつかなかった、自分を導く何か。
そんな「なんとなく」の氣持ちに導かれ、投稿してきた一年分の記事をふりかえってみたら……ああ、いいなぁ、と思えました。
秩序だって整列していないかわりに、自由に点在し、色とりどりに点滅している過去の投稿。投稿と投稿の間には、うっすら引かれた糸のような線がみえます。
それは羅針盤に導かれ、記事から記事へ、わたしが進んできた軌跡なのだと感じます。
ちょっと、星座のようだなあとも思いました。
星みたいな投稿と、それを結ぶ軌跡。
そう思って目を閉じたら、noteの宇宙の星々が、まぶたの裏で鮮やかに輝きました。
くりすたるる座がみえます。
それから、わたしの大好きなnoterさんたちの星座。そして天の川。
あの人座、この人座。
あの人川、この人川。
ああ、わたしはいま、幸せな宇宙を眺めているなあ!
あらためて数えてみたら、わたしの星座は、60の投稿という星でできていました。
一年でぴったり60個──というのが、少し嬉しいです。
その60の記事の文章中に、「スピリチュアル」という言葉を使ったことは、たぶんなかったと思います。
わたしにとって、スピリチュアルと日常との間にたいした区別はありません。
ですから、その差をあまり意識することなく記事を書いてきましたが、この節目にあらためて、向きあってみたくなりました。
あくまでも、「こんな見方もできるよ」というひとつの側面に過ぎませんが、「スピリチュアルは日常の延長である」という自分の思いを、61個目の「星」として投稿しようと思います。
それでは早速ですが……下の図をご覧ください。
人の脳を簡略化したイラストです。脊髄から繋がる「脳幹」、それを覆う「大脳辺縁系」、そして最も外側にある「大脳皮質」に大別して色分けしてあります。
その働きを大まかに記すと、次のようになります。
中心に近い部分ほど、基本的な生存のための機能を支え、外側にいくほど、より高度な人間的活動を展開させる。
そのような成り立ちを、ご理解いただけるかと思います。
「身体→感情→思考」とも表すことのできるこの発達の構造は、「爬虫類脳→哺乳類脳→人間脳」と表現されることもあります。
実際に、爬虫類では脳幹が、霊長類以外の哺乳類では大脳辺縁系が、脳の働きの大半を担っています。それが人になると、大脳皮質が全体の約9割を占めるようになり……そこに「進化」の過程を端的にみることができます。
これをふまえて、「今後の人間の脳の発達」を予測するとしたら……こんなふうになっていくのではないかしら。
どうでしょうか、上の予想図。
「人間脳」の更に外側に、別の層が形成される。
これまでの脳の発達を踏襲すれば、ごく自然な「進化」だと思うのです。
この新しく形成された紫の層。
ここを「スピリチュアル脳」と、仮に名づけたいと思います。
大脳皮質を持たない爬虫類が人の思考を想像できないように、この新しい脳の働きを、いま人間が完全に理解するのは難しい。
逆にいえば、将来「新しい脳」を得た人間が理解できるようになる領域──それがスピリチュアル。そういう解釈が成り立ちます。
そして、この「スピリチュアル脳」は現在進行形で発達中である。わたしはそう考えています。
だってそうでなければ、スピリチュアルという概念が、こんなに広く世界に浸透しているはずはないからです。
もちろんそれは、図のように成長した「スピリチュアル脳」ではないでしょう。いま、人が保有しているとしたら、せいぜい大脳皮質の上をニスか膠のように覆う、うすーい膜のようなもの。
だから、その脳力には限界があります。
それでもゼロではない。
そこに重要な意味があると、わたしは感じています。
ところで、こんな図をご覧になったことがあるでしょうか。
多少なりともスピリチュアルに関心のある方なら、類似したものをご存知かと思います。
人体の外側に存在するといわれる「みえない体」。この「体」の捉え方はひと通りではありませんが、そのなかで最もポピュラーと思われる解釈で図を起こしています。
肉体のすぐ外側を覆うのが「エーテル体」、その外側に「アストラル体」「メンタル体」「コーザル体」が重なります。「霊的身体」「感情体」「精神体」「霊体」と呼ばれることもあります。
この「みえない体」と脳を、図で比較してみますね。
ちょっと、似ていませんか?
書きだして比較してみます。
似ています……よね。
この「みえない体」と「脳の働き」との間に相関関係があると考えても不思議ではないほどに。
その相関関係を正確にお伝えするには、わたしのスピリチュアル脳は十分に発達していませんが──それでも、この「四つの体」について、はっきりわかることがあります。
前回の投稿で、わたしはこんなことを書きました。
「チーム」と表現したのは、実はこの「四つの体」のことで、本当は、それは誰もが知っているはずのことだ……とわたしは思っています。
シンプルに考えてみてください。
「身体」「感情」「思考」、そしてときに「直感」とともに、わたしたちは生きている……誰でも知っていることです。
ただ、多くの人は、それを「自分の一部」だと捉えている。
でも実際には、わたしたちは心臓ひとつ、自分で動かすことができません。感情をうまく制御することもできませんし、思考がどこから生まれるかを知りません。直感なんて謎だらけ。
そう考えると、「彼ら」を「自分の一部」だと捉えることに疑問がわきます。
それよりも、「四つの体」の主を、自分とともに生きる「チームメイト」だと考えるほうが自然です。
そして実は、「彼ら」の存在を認識し、そこに意識を向けることそのものが、「スピリチュアル脳」の成長につながると、わたしは考えています。
「四つの体」は、通常わたしたちが生活している物質社会とは、少しだけ次元の違うところにあるからです。周波数が違う──といったほうが、イメージしやすいかもしれませんね。
物質より少し高い周波数を纏う「彼ら」に意識を向けるだけで、自動的にチューニングが成されます。
知らないうちに自分の周波数をあげる機会を持つことになり、「スピリチュアル脳」も少しずつ育まれていく。
だから、結局スピリチュアルって、自分の身体や心を大切にすることの延長線上にあります。
わたしは、そちらを向いていたいと思う。
そちらを向いて、発信していきたいと思う。
それがわたしの61個目の星。
note一周年、節目の投稿です。
最後に、記事をひとつご紹介させてください。
わたしの大事な「星座」のひとつである、noterきむみ23さんのご投稿。きむみさんが、ご自身の次女さんと共有した光景の記録です。
次女さんには障がいがあり、定期的に病院に通われてました。
その日も通院のため、きむみさんの運転で、県境の大きな橋にさしかかったところでした。
そのとき、まるで時間が止まったようになり、普段より数段まぶしい空と景色が、きむみさんの目の前にひろがったのだそうです。
バックミラーには、穏やかな表情で、窓の外に顔をむける次女さんの姿が映っていました。
止まった時間のなかでみえた光景は、当時、目がみえているかどうかさえ定かではなかった次女さんの「みている景色」だと、きむみさんは直感したそうです。
前述した「四つの体」は、「外側」にひろがっていくほどに、他者と共有しやすくなる性質を持ちます。
自分の「身体」より「思考」のほうが、他人と共有しやすいですよね。
その「思考」より、さらに外側にあるスピリチュアルな部分で、きむみさんと次女さんは、感覚を共有したのだと思います。
きむみさんご自身が、
と記事に書かれた通りのことが起こったのだと……数か月前のご投稿をあらためて読み、感じました。
先週、その次女さんが、星になりました。
きむみさんのご投稿を通して、わたしたちにもたくさんの愛を届けてくれた次女さん。
追悼の氣持ちを、この記事に込めて贈らせてください。
次女ちゃん、ありがとう。
いつまでも、わたしのnoteに瞬く星でいてください。
こちらの記事に、数週にわたり、四つのコングラボードが届きました。
記事にご協力くださったみなさま、スキをくださったみなさま、本当にありがとうございました!