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「自分」が嫌いなことと、「駄目な自分」を嫌いなこと。

わたくしごとですが、先日、大好きなクリエイターさんのひとり、ジセおじGAMIさんから、素敵な名前をいただきました。
クリスタ流留。もちろん、くりすたるる、に漢字をあてたものです。
親しい方は、わたしのことを、るるさんとかるるちゃんとか読んでくださるので、GAMIさん風にいえば、流留さん、ということになりますね。

GAMIさんが、この名前を思いついてくださったのは、わたしが前回投稿した詩「空色の水たまり」からの発想でした。
僭越ですが、その詩をあらためてご紹介させていただきます。

空色の水たまり

流れる言葉を使いたいと願う。
留まらず、
滞らず、
淀まない。
さらさら流れる水のような言葉。
流れることで澄んでいく、
透きとおっていく言葉。

それでもわたしは、
淀んだ水たまりに出会ったら、
たぶん立ちどまって、
映る空を眺めてしまう。
淀んでいるから映るもの。
そこにしかない、空の色。

流れたい、流れたいと願う。
それでも、
なにかみつけるたびに立ちどまる。
わたしのように。
わたしの言葉も。

この詩の最初の二行の頭の文字をとって、GAMIさんは、「るる」は「流留」であったのか、といってくださったわけです。
そんな意図はなかったので……GAMIさんの指摘にはっとしました。そして、ああそうだ、わたしは「流留」でいたいのだ、と、涙がでそうになりました。

はからずも、上の詩で著したように、「流れたいと願いながら、留まることも愛する」そういう生き方。そういう表現のあり方。

下は、GAMIさんがそのことにふれてくださった記事と、一部抜粋です。

れる言葉を使いたいと願う。
まらず、

という部分で流留でるるさんなんだなってなんとなく感覚で伝わってきました。流れる言葉を常に使いたいと思っているけど、淀んだ水たまりにも淀んでいるからこそ移る空色があり、そんな感じで何かを見つけるたびに立ち止まりたいというのもまたるるさんなんだなって、、、

GAMIさん。素敵な気づきをありがとうございました。

さて、そのせい、ということではないのですが、実はここしばらく、まさに「留まる」時間を過ごしていたように思います。
そのきっかけとなったのが、下にご紹介したアサさんの記事です。

一部、抜粋させていただきますね。

同じ様にこの世に生まれ、育っていく中で
私は価値があると思う人と
私には価値がないと思ってしまう人がいます。
子供の頃に、どちらを信じてしまったか

自分はこのままで価値がある、ある日それがやっと腑に落ちました。
そう思えて初めて、自分のしたい様に進める気がしました。
なんの制限も、引っかかりもなく
好きな事をしてもいいんだと思えました。

元々、こんな気持ちで生きてきた人もいるのか、と愕然としました。
全く同じスタートラインに立っていません。
100メートル走なのに、障害物レースをしてから100メートルを走るくらい違いました。
重いおもりを背負っている様でした。そりゃ軽やかには走れないのも当然です。

「元々、こんな気持ちで生きてきた人もいるのか、と愕然としました。」

アサさんのこの一文を読んだとき、わたしのほうが愕然としました。
ご自分を肯定できずに苦しい思いをする人たちがいらっしゃることは、もちろん知っていました。
アサさんに限らず、noteの投稿でもその胸の内を話してくださる方はいらっしゃいますし、わたしの身近にも、そこから抜けだせずにいる友人もいます。
それでもアサさんの言葉は、いままで想像しなかった鮮烈なイメージをわたしに投げかけてくださいました。
「スタートライン」に立ったアサさんの驚きが、そのままわたしにも伝わってくるように感じられました。

そうしてわたしは、この投稿を読ませていただいてから、「自分に価値がないと思ってしまう」ことについて、ずっと考え込んでおりました。
何か、わたしなりの文章にして記事で伝えられないかと──「留まって」いました。
たぶん、もうずっと以前から、自分のなかでどう向きあったらいいかわからない疑問のひとつだったのだと思います。
日常で生まれる疑問のひとつひとつに立ちどまらず、流れることも必要だけれど(そうすると、いつのまにかその答えが与えられている、ということも多いけれど)、今回は、ちょっと留まって、その疑問に向き合ってみたいと思いました。

アサさんの言葉に向きあおうと思ったときに、最初に思いだしたのは、わたし自身の辛かった経験のことです。
自分の不調をお話するのはあまり得意ではないのですが、過去に、6年程の長い歳月にわたって、心身を壊していた時期がありました。明日まで生きていられないのではないかと感じるのも日常のことでしたので、誰かの辛い氣持ちを、自分の経験に重ねて捉えることはできると思っていました。

でも、あの頃の氣持ちをふりかえったとき、わたしは「自分」を嫌いではなかった、ということに思い至りました。
何にもできない自分、どんどん駄目になっていく自分が嫌いだった。でも、わたしが嫌いだったのは、「駄目な自分」の「駄目な」部分であって、「自分」のほうではなかった。
「駄目な自分」に価値がないとたくさん泣いたけれど、「自分」に価値がないと苦しんでいたわけではなかった。
それはたぶん、アサさんのいう、「子供の頃に」「私には価値がないと」信じてしまったのとは、少し違うのだと思いました。

「駄目な自分」の「自分」の部分に価値がないのなら。
努力して、「駄目な」自分を「素敵な」自分にかえられたとしても、頑張って頑張って「最高の」自分に導けたとしても──やっぱり価値がないのです。
だからたぶん、努力して「素敵な自分」を手に入れるほどに苦しくなる。
どんなに素敵になっても、たとえ周りに評価され、褒められたとしても、いっときの喜びにしかならず……やっぱり「自分」には価値がない、という氣持ちに戻ってきてしまうから。
そうして際限なく、素敵になるための努力を繰り返すことになる。それでも結局「自分」を好きにはなれないのに。
「自分」を肯定できないって、そういうことではないでしょうか。

そんなことを、あれこれ一週間ほど考え続け、思うままに書き連ねました。
何か自分なりの答えが導ければと思ったのですが、何を書いても、ものすごく実感の伴わない、中身のない言葉になってしまいました。
だから、結局どうしていいかわからないまま──また少しずつ流れていこうと思います。
今回留まって考えたことの意味が、きっと何かにつながる日がくるのだと思います。

そのなかでひとつだけ、はっきりと確信したことがありました。
アサさんがたどり着かれた「スタートライン」──わたしを愕然とさせたその言葉の向こう側に広がる世界。
そこには、ものすごい価値がある。
スタートラインに立ったアサさんが、それまでどんな道を通り、何に出会い、何を背負い、何を手放してきたのか、本当のところはわたしにはわかりません。重りがどのくらい重たくて、それを背負って走るのがどのくらい辛かったのかも想像することしかできません。
けれど、いま、スタートラインに立って、こちらを向いたアサさんの背中の向こうに、確かに大きな世界がみえます。
アサさんを苦しめ続けた世界に……朝日が昇り、いまは光りながらアサさんの背中を讃えていることが、わたしにはわかります。
アサさんは、その大きな大きな世界をご自分の味方につけている。

わたしに、知らなかった景色をみせてくださったアサさん。
このタイミングで、流留、という素敵な名前をくださったGAMIさん。
ありがとうございました。
ご縁に心から心から感謝して……またゆるりと流れていこうと思います。



記事中でご紹介した詩を掲載した記事はこちらです。




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