海賊王の真似をしてもいいだろ──物語の共時的要素と通時的要素──
序
SNSにて何某かのコメンテーターが「マンガやアニメを観てこどもが真似をする可能性がある(悪影響の話だろうか)」といった言葉を発している映像の切り抜きが出回り、それに「海賊王を目指すわけないだろw」のような反論めいたものがなされているのを見た。そう言いたくなる気持ちはわからなくもないが、私はどうもモヤモヤしたものを感じざるを得なかった。
コメンテーターの発言とそれに対する反論について、ここには大きく分けて3点の誤謬があるように思う。①共時的要素と通時的要素を区別していないこと、②単純にこどもの想像力を大人の固定観念のうちに制限してしまっていること、③表象文化からいい影響を受ける可能性も想定されること。①と②は反論側、③はコメンテーター側の問題である。今回はこれらを紐解いてみようと思う。
なお私は挙げられたマンガ・アニメについて深くは知らないのだけど、みなさんも名前を聞いたことくらいはあるだろう、ということで話を進める。
①共時的要素と通時的要素を区別していないことについて
共時的要素と通時的要素
いずれも私が勝手に生み出した言葉だ。今後使うかはわからないが、とりあえず覚えていただきたい。
共時的/通時的という言葉はおもに言語学の分野で使われるものだ。参考に辞書から引いておこう。
言語学的な見地からは、ある年の流行語は共時的な現象、音韻変化は通時的な現象ということになるだろう。
さて、共時的要素は時間の流れを考慮しない要素群の総称である。登場人物の外見的特徴や性格といった設定、飲み物を飲む、たばこを吸うなどの描写、ある時期の都市の様子など。このようにある特定の期間では大きく変化しないと思われるものだ。なお「特定の期間」は鑑賞者側から操作できる。
あるいは物語を通じて無時間的に継承され続ける可能性のある要素とも言えよう。外見的特徴と性格の組み合わせ(ex.赤髪ツインテールのツンデレ)が物語を通してまったく変化せず、そのキャラクターの強力なアイデンティティとなる場合がある。ただし先述の通り「特定の期間」は可変であるため「このキャラクターのあのときの髪型」「このときの性格」といったものも共時的要素であると言える。
一方で通時的要素とは、時間の流れを考慮した設定群である。物語のあらすじ、物語世界の歴史観、登場人物の生い立ちや将来の夢など、時間軸の一点から見て過去または未来の存在が想起させられるものがそうだ。
こちらは外部から「特定の期間」を決めることは難しい。それが物語に取り込まれている限り、安易に期間を操作することはあらすじの崩壊に繋がりかねない。「海賊王になる」も通時的要素だろう。これの部分を恣意的に切り取り、主人公がそれを目指すことになったきっかけ、あるいはゴールそのものをなくすとストーリーの意味がわからなくなってしまう。
両者をしっかり区別しよう
これは通時的要素は共時性要素よりも、実現可能性が有意に低いだろうという想定に基づく。髪型や性格は真似できる。主人公のイケてる仕草を模倣したっていい。しかしあらすじそのものはどうか? 特に日常との解離が大きい「海賊王になる」といったものを実現するのはなかなか難しいだろう。つまり前者は手に取りやすく、後者は手の届きにくいものなのだ(あるいは異世界転生を目指してしまう人物はいるかもしれないが……)。
共時的要素として「たばこを吸うシーンがこどもに悪影響を与える!」「あの主人公は破廉恥過ぎて教育上よろしくない!」というのならまだわかるのだが、そもそも現実的に成し得ない通時的要素をやり玉に挙げるのは如何なものなのだろうか。なお逆説的ながら、実現可能性が有意に高い通時的要素もあるであろうことをご留意いただきたい。「高校生の主人公がレベルの高い大学を目指す」ようなストーリーがあれば、それを真似すること自体は可能だろうし、現実のものとすることもできるかもしれない。
共時的要素と通時的要素は区別して考えよう。これが①の誤謬に対する指摘だ。私も切り取りしか見ていないため想像の域を出ないが、おそらくコメンテーターはたばこを吸うシーンといった、共時的要素による悪影響について言いたかったのではないだろうか。
②こどもの想像力を大人の固定観念のうちに制限してしまっていることについて
正直②と③はおまけみたいなものとなる。夢見るだけなら海賊王になろうとしたって別にいいだろ!? というのがここでの指摘である。真似しようと思えばなりきることはできるはずだ。
③表象文化からいい影響を受ける可能性も想定されることについて
共時的・通時的両要素から「いい影響」を受けることもあるだろう。かなり間接的な例を挙げれば、「私は『海賊王になりたい』という主人公の熱意に感銘を受け、その真似をすることでここまで頑張ることができた」という人物がいてもおかしくない。
それに倫理的観点から見て、善と悪の二項対立を促す可能性があるものは、枚挙に暇がないのではないだろうか。その意味では一部の表象文化だけ列挙されることにも違和感が残る。そもそも善悪、良し悪しとは何だ……と袋小路に入りそうだから、このあたりで締めておこう。
おわりに
SNSで散見される不毛な争いに対して、自分なりの指摘ができたように思う。重要なのは実現可能か否かということ、しかし夢はでっかく持ってもいいこと、何事もいい側面と悪い側面があるであろうということだ。
こどもが真似をするから、彼らに悪影響を与えるからといって、表現に文句をつけられるのも致し方なしとは思うものの、もう少し冷静な議論ができればいいのにとつくづく感じている。なにも生まない現象は、共時的なものにとどまるよう努めていこう。ここまでご覧いただき誠にありがとうございました。