読書って
ぼくはこどものころから本が好きだった。
本がもっている物語の中に入るたのしさを
いちはやくおぼえたから、なのかもしれない。
本を読んでいるとなぜか
まわりの大人が感心していた。
「そんなに本を読めてすごいね」と
多くの大人が言ってくれるのにおどろいた。
悪い気はしなかった。
どうやらほめられているらしい。
気をよくしたぼくは、もっと本にのめりこんだ。
・・・
こどものぼくの「読書」は
本のすみずみまでを読んでようやく
「読書」が終わるとかんがえていた。
「読み残し」はもったいない、と思った。
一字一句、すべて頭の中で声にして読むので
けっこう時間がかかっていたけどしかたない。
ぼくがそれを「読書」と決めていたのだから。
家のなかにある本を手あたりしだいに読んだ。
ひとつ読むたびになにかが満たされていった。
でも、小学校にはいって
図書室にはいったぼくは
どきんとショックを受けた。
こんなに本が読めるのか!というよろこびと
こんなに読まなければいけないのか!という
負担めいた重さをいっしょに感じてしまった。
落ちついて考えれば、図書室にある本すべてを
読みつくすことなんかできっこないってわかる。
でも当時のぼくはそんなことよりも
(どの順番で読んでいこうかな)とかんがえた。
小学校に上がりたての男子児童といえば
ほとんどの漢字を知らない。
漢字もそうだけど、単語の意味も知らない。
聞いたことのない言い回しもよく出てくる。
だから、漢字の多い本はあとまわし。
読めそうな本をえらんで読むことにした。
本というのはふしぎなもので
わからないはずの言葉でも
するりと意味がわかる感覚がある。
いわゆる「文脈」で正しい意味がわかる現象。
これはとてもたのしい感覚。
スポンジに水をしみこませるように
どんどん言葉を知るのがたのしかった。
なにしろどんどん応用が効くようになって
いろいろな本を読めるようになるのだから。
・・・
読書感想文がにがてだった。
いや、原稿用紙を埋めることはかんたんだ。
本のあらすじを少し書いてから
ところどころで自分の意見を書けばいいだけ。
それで「埋める」ことはすぐにできる。
にがてなのは、先生の頭の中のことだ。
ぼくは「課題図書」をひとつえらんで
読書感想文を書いているのだけど
先生は「課題図書」を読んでいるのか?
一字一句あまさず読んだうえで
ぼくの読書感想文を読んでいるのだろうか?
とてもそうとは思えなかった。
なんせ、課題図書は一冊ではない。
生徒の数だけ課題図書を、最低でも10冊ほど
先生は「読書」完了していなくてはいけない。
「速読」や「ななめ読み」はぼくにとって
禁じ手。やってはいけない読み方だ。
作者に敬意を払うように、あとがきまで読む。
それを先生がやっているだろうか?
そんなことは無理だろう、と思った。
どうかんがえても時間が足りなすぎる。
けっきょく、先生というのは
授業だから仕方なしに
ぼくたちの書いた読書感想文を読んで
一言、二言、感想を書いているのではないか。
そんな思いがはなれなかったこともあって
読書感想文はにがてだった。
なんというか、フェアじゃない。
・・・
「これ、おもしろいから読んでみろよ」
高校生になったころ、数少ない読書仲間から
一冊のハードカバー本を貸してもらった。
ありがとう!と喜び勇んで読書を始めるが…
つ、つらい。
冒頭部分が壊滅的におもしろくなかったのだ。
ぼくは文句を言った。
この本、ひどくない?
本当におもしろいの?
「その通り。確かに冒頭はつまらない。
でも、そこを乗り越えたらあとはすごいから」
彼は自信満々に言ってのけた。
ぼくは彼を一部だけど尊敬している。
性格がちょっとヘンテコな部分はあるけど
読書と勉強とゲームにおいて彼はただしい。
だから素直に彼の言うとおりに読んでみた。
つらくてだるい「第一章」を読み終えると
そこからは鳥肌がたつほどおもしろかった。
彼はやはりただしかった。
その本はぼくのお気に入りの一冊となり
自分で文庫本版を購入した。
定期的に読み返している。すごい名作だ。
(一冊でキッチリ終わるところもいい)
こんな本もあるのかぁとぼくはうれしくなった。
やっぱり本は、ぜんぶ読んでから評するべきだ。
・・・
そしていま。
ぼくは「読書」というのは
自分とともに変わっていくもの
だと思っている。
幼いころのぼくは、一字一句を
最初から最後まで読んでいて
それを「読書」としていた。
それは今でも正しいと思う。
でもそれは、読める本の数が少なかった
「幼いころの世界」での話だ。
図書室を知り、本屋を知ったぼくの「読書」は
徐々にスタイルが変わっていった。
少し読んでつまらなかったら、やめる?
いいじゃないか。
ミステリ本を、事前に結末を知った上で読む?
いいじゃないか。
一冊の本を、何年もかけてじっくり読む?
いいじゃないか。
けっきょくのところ、読書というのは
本を読むってだけの行為。
本の読み方なんて人それぞれ。
「こうしなければ読書ではない!」なんて
誰かに強要される読書なんて息が詰まるだろう。
昔どこかで聞いたことがあるけど
この世には読み切れないほど本があるのだから
読みたい本を読めばいいのだ、という言葉。
まったくその通りだと思う。
こどもには、こどもの読み方。
学生には、学生の読み方。
社会人には、社会人の読み方。
その時々で読み方が変わっていいじゃないか。
読みたい本を読んでいいじゃないか。
それに、本を読みたくない人だっている。
そんな人をつかまえてしたり顔で
「きみきみ、読書はいいよお!」
なんて言っても舌打ちされるだけではないか。
ぼくが思うに、そういう人は
「まだこれから」の人なのだ。
まだ、本を楽しめる状態ではないだけ。
なにかひとつのきっかけで
本にドハマりすることもある。
無理やりに読書をすすめて
「わたしが!彼に本の素晴らしさを教えた!」
なんて鼻息荒くいばるひとにだけは
なりたくないなといまでもおもう。