ジェンダーとセクシャリティーの違いとは〜映画:「息子のままで、女子になる」に寄せて〜

トランスジェンダー(MtF)の

ドキュメンタリー映画

「息子のままで、女子になる」

を3回も見に行ったので。

同じシーンをそれぞれ

3回ずつ見てることになるんですけど。



ドキュメンタリー映画なので

作中では、主人公の楓ちゃんが、

監督からインタビューされているシーンが

多数。



そんななかで

『ジェンダーとセクシャリティーの違い』

を聞かれて

答えているシーンがあるんですけど

本人は『模範解答!!』とかいって

自画自賛してるけど、

その回答、

当事者として雑すぎ。





なので、

わたしが変わって答えます。

あくまでわたしの回答ですが、

かなり核心を衝いている自信はあります。





いきなり結論から。


ジェンダーとは

『服よりも外側の』性別で

セクシャリティーは

『服よりも内側の』性別のこと

です。




どういうことかと言うと。

わたしの実例に即して言えば、

出生時に男根(おちんちん)らしきものが

視認されたので

わたしは男の子ということになり、

男の子として扱われ、

男の子として育てられることになり、

服装も男児用のものがあてがわれる。

これが、ジェンダー。

ジェンダー:男性。





わたしの場合、

かなり異常な家庭環境だったので、

性別問題以前に、

生きてゆくことの、

なにもかもが、

『生まれ落ちた境遇に適応する』ための

演技です。



性別以外にも、

自分では全く望んでおらず、

理解もできていないようなことを、

親から『強制的にやらされる』ことは、

たくさんありました。



そんな意味で、

幼少期のわたしにとっては

生活のすべてが

『なにもかも演技』

であり、

そのなかの一要素として

『男の子を演じる』

という部分も含まれていたわけです。




ほんとうは女の子なのに!

と主張させてもらったことはない。

唯一、ジェンダーの違和感がはっきり出ていたと言えるのは、あまりにもすぐ泣くし、よく泣く子だったので、

『おまえが泣いても可愛くないっ!!』

っていつも怒られてましたね。



ただ、

これだけだと、

『よく泣く男の子もいる』

というだけの話になりますから。





このように

『男の子を演じさせられている』

という部分は、

ジェンダー:男性

ということになります。



もう一歩踏み込んだ言い方をすると

『ほんとうはあたし女の子なの』

『女の子として扱ってほしい』

と要求したことは一度も無いので、

この点では、

トランスジェンダー女子だったことは、

わたしには、

『一度もない』

ことになります、、、、、。





それに対して、

セクシャリティーとは

『服よりも内側の』性別だと言いました。



あえて言うけど、

『こころの性別』

という表現は使いたくない理由があって。



わたしの場合、

服を着て日常生活を送るぶんには

ジェンダー:男性を演じることは

べつに不可能ではなかったんですよ。



でも服よりも内側、服の下にいる自分は、

最初から、はっきりと、女の子だったので。

(セクシャリティー:女性)



知らない男性に

接近されると

身体が怖がるし、



必要もないのに服を脱がされるのは、

恥ずかしいし屈辱的。



何の必然性もないのに

服の内側に手を突っ込んできた男は

その時点で『敵』だから、

わたしは父親(実父)のことを

生涯一度も、

身内とは認識しなかった。




まぁ彼の言い分では

『男の子だから厳しく躾けた』

みたいな理屈なんでしょうけど。



まだ幼くて、セックス、なんて本来なら言葉さえも知るはずもない年齢の頃から、実の父に組み敷かれて犯される妄想にたびたび悩まされてきた。後から考えると、トラウマとかフラッシュバックとかPTSDとかその他具体的な病名を付けられるレベルなんだけど。言い換えればそれは被害妄想を自己増殖させてゆくタイプの病気なのだから、どこまでが自分の妄想で、どこまでが本当にされたことなのか、自分でも区別が付けられない。

実際に起こったこととして、

確実に言えるのは、

物心ついた時からすでに

わたし自身は

父親から性欲を向けられていることを自覚しており、ほとんど条件反射的に『性暴力を免れる』ことしか考えられないので、恐怖の対象でしかなく、顔を見るだけでor近寄って来られるだけで怯えて震える(場合によっては泣き出す)ありさまでした。

『男の子は父親をライバル視する』とか

『父親はちいさな男の子でも一人の男としてライバル視する』だとか。

そんな世界は、

わたしはまったく体験していません───。





セクシャリティー(としての性自認)が、

わたしの場合は、

はっきりと女の子でしたから。

本来あるべき姿としては、

父親は『わたしを守ってくれる騎士』

なのでしょうけど。

そんなことを感じる余地も無く。

はじめから彼は

恐ろしい暴力存在であり、

外敵であり。

したがって、

彼を『身内』として認識できたことは

一度もありません。











ここで、トランスジェンダー映画

「息子のままで、女子になる」

の内容にすこし触れると。


まぁタイトルからしてかなりビミョーというか挑発的なんですけど。

このタイトルの美点は、

トランスジェンダーが持つ、悪しきイデオロギーに感染していないことでしょうね。

つまり、

トランスジェンダー(MtF)当事者は、

『自分は女だ!』と言い張りたいあまり、

男性としての自分自身を否定し抹殺することに血道をあげることになってしまう。

そーゆー実情が、

あまりにも強くてですね。



この映画でも、

主人公:楓ちゃんの、

そんなシーンも描かれていますよ。


でも、

それでも、

れっきとした男性である部分もあえて描き、

それが、

「息子のままで」、

つまり、父親との関係性です。



『父親に認められたかった』と

本人が打ち明けてるわけですよ。

このシーンを初めて見たときは、

ショックでした。

なぜなら、

わたし自身には、

実在の人物として思い描ける父親が

存在していないからです。





わたしは実家では

ジェンダー:男性を演じていましたから、

『父親にとって男の子はライバル』

という話に、

形だけ合わせてあげるだけなら、

できるんですけど。

内実は、

(わたし自身の内面では)

セクシャリティー=性自認:女性のわたしは、

『犯されるかもしれない』ことに

ただ怯えているだけで。

ライバルもクソもない。

あれは父親ではなく、

ただの外敵、ただのエイリアン。

────そんな腐った家庭環境でした。



セクシャリティー:女性のわたしは、

自分が自覚している自分自身としては

女性以外の何物でもないんですけど。


生まれ落ちた家庭環境が

あまりにも過酷だったため。

また、

男尊女卑の現実を理解していたため、

『女の身で生きること』の過酷さを思うと、

『ジェンダー:男性』を演じ、

あたかも女性ではないかのように

偽装できることは、

ある意味、理想的ですらありました。



実際、

身の危険、

いわゆる『身の危険』が、

すこしでも感じられるうちは、

自分としても、

『男性を偽装している』状態のほうが、

安心できた、

という事実があるわけです。



わたし個人の歴史的(個人史的)経緯としては

実家に住んでいた時期や、それ以後もまだ実家との関わりが残っているあいだは、性転換願望のことなど、おくびにも出さずに過ごし、

実家および両親と縁が切れた

次の瞬間、

誰にも何の相談もせず、

おもむろに女性化を始めました─────。









ここまでの話をまとめてみると。

セクシャリティー:女性のわたしは、

いわば『女性目線でしか』物を見られないわけです。

それだけでなく、

身体反応もはっきりと女性のそれです。

ほとんど瞬間的な反応で、

男性に不用意に接近されると嫌がるし、

接触されると怖がるし、

服の内側にまで入ってこられたら、

『外敵の侵略』です。


別の言い方をすると、

男性に接近されるだけで

『犯される!?』とか

『殺される!?』とかの

被害妄想的な反応を、止められないのは、

セクシャリティー:女性だからです。

(※もちろん全ての女性がそのように反応するわけではありません。このような反応の仕方には過去のトラウマも関係があることでしょう)

ここで理解しておいてほしいのは、

たとえ股間に男性器らしきものがあろうと

たとえどれほど筋骨隆々な身体を得ようとも

(↑得たことはないですが💦)

このような条件反射的な反応は

変えられない、

ということです。

逆に言えば、

わたしがだれか女の子を見て、

どれほど『かわいい』と思ったとしても

『やりたい』と思うことは、

ありません、、、、、、。





このように、

わたしの場合は、

セクシャリティー:女性で、

この部分は一切、妥協も変更もできない。

なので、

自分が自覚している自分自身は、

どこからどう考えても

女性以外の何物でもない。


それに対して、

ジェンダー:女性という部分は、

『わたしの場合は』ですが、

わりと妥協が可能だったのです。


女の身ひとつで生きていくのは危険だから、

男性になれる(偽装できる)のなら、

それもひとつの手段。


そんなふうに考えられるのは、

ジェンダー:女性という部分が弱くて、

もしかしたら、

いわゆるXジェンダーに

近いのかもしれません。


余談ですが、

わたしは、

女性ホルモンの効果で、

女性にしか見えない容姿になった今でも、

すっぴん(ノーメイク)のままで外を出歩くことは、

わりと平気です。

同時に、性被害サバイバーだからか、

ナマ脚ミニスカートには抵抗があるし、

踵の高い靴は、絶対に履きません。






ここでふたたび、

映画:「息子のままで、女子になる」

の話に戻ると。

これはトランスジェンダー(MtF)の物語であり、

主人公の楓ちゃんは、

ジェンダー:女性なので。


わたしの区分でいえば、

服装の選択や、

服よりも外側の世界において『女性』、

ということになります。


では楓ちゃんの

『セクシャリティー』は??


うーん、、、

父親に認められたい、

と考えている自分は、

きっと服の下にいる本人だから、

セクシャリティー:男性??!?



作中、

はるな愛さんとの対談で、

楓ちゃんは感極まって泣くんだけど。

そのとき打ち明けていた内容が、

父親の言いつけを守り抜いた話だったり。

8歳の頃から夢だった建築家という職業を、

諦めずに突き進んで実現できたことで、

自分は『オカマなんかじゃない』と

父親に対して証明できた。

そんな意味のことを涙ながらに打ち明けて

愛さんから

『男やな』と言われる(!!)。



それで本人的にOKなんだから、

その部分を直視すれば、

セクシャリティー:男性

ということになりますね。



あえて個人的な感想を付け加えると、

このエピソードを映画本編に載せたのは

かなり立派な英断だと言いたい。

人間という存在は複雑に入り組んでいて、

トランスジェンダーないしは

性同一性障害という

イデオロギーひとつで、

性自認:女性という単色に

すべてを塗りつぶしてしまうのは、

あまりにも危険だから。



統計的事実として、性同一性障害/性別違和を理由に性別適合手術までして戸籍上の性別を変更したあとで、やっぱり元の(生まれたときの)性別に戻りたい、と言い出す人も実際にいます。

そうなってしまう理由のひとつは、一度目の性別変更までのプロセスを、単色のイデオロギー(※MtFであれば、自分は女だ!)ひとつに塗りつぶして突っ走ってしまい、人間なるものの複雑さに思いを馳せる余裕が無かったからでしょう。



わたし自身のエピソードを最後に添えると、

わたしの場合はセクシャリティー:女性はかなり確定的なものだったので、父親は異性です。同性の親としてライバル視するとか、父親に認められたいとかの発想を持つことはできませんでした。

でもね、異性認識だからこそ残った思い出というのはあって。正直、親と縁を切ることができてよかったと思っているし、生涯二度と会うつもりはない。それでも子どもの頃から身体で知っていたSMというものには愛着が残ってしまって。ふつうはセックスするのに縄もロウソクも浣腸も使わない、ただ単に腰を振るだけ、という単調さを心のどこかで見下しているし、女性化した自分の身体が、言い換えれば『縛られやすい』身体つき、『縛ると絵になる』身体つきになってきたことに、どこか誇らしささえ覚えるのです。後ろ手に縛られて下乳にも縄を通されたところを鏡を見ながら想像してみたり。




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