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映画『ドライブ・マイ・カー』について

この映画には、サウンドトラックが総休符になるシーンがある。音が全く聴こえないシーンだ。未だ何度かこの映画を観るだろう、私は、いつかこの音の無くなるシーンに意味を見つけるだろうか。

音:「終わりだ。でもこれで、ようやく止められる、ようやく終わる、前世から続く因果の輪から、抜け出す、彼女は、新しい彼女になる、ドアが、開く、、、」この台詞のシーンを観たタイミングだっただろうか、この映画は平和の為の、戦争について考える為の映画かもしれないと思った。

車の中でテープを聞きながら、目薬を点眼する家福、音が吹き込んだテープが再生している台詞は「今も、歳を取ってからも働きましょう。そして、最後のときがきたら、おとなしく死んでいきましょう。そしてあの世で申し上げるの、私たちたは苦しみましたって、泣きましたって、辛かったって、」という箇所であり、目から流れるのは目薬だが、それでも本人は、泣いているような気持ちになったかもしれない、たぶん。

このシーンは音がタカツキと寝ているのを目撃した後だし、目撃したことを音には隠しているし、仮に、家福に「解離」的な傾向があったとすれば、解離が常態化した者は、とかく自分がしたこととされたこととの違いが曖昧になってわからなくなることが多いそうだ。だから、目薬と涙とテープの台詞と自分の感情がいよいよごちゃ混ぜになっていた可能性がある。否、そもそも自他の境界なんて曖昧なはずのものをきっかりと分けるせんがそうでなくとも、戯曲の台詞がある種の催眠的な効果を発揮して、この重なりあいが、、、そしてこのシーンの前後では既に、音は倒れている。

車のタイヤが反時計回りに回転するのを真横から撮った映像とカセットテープの軸が反時計回りに回転する映像を列べた駄洒落は、ストレスなく無視できたが、駄洒落的な? 何だろう。。

家福:「ぼくのやり方は、戯曲の流れを本当に全部頭に入れておく必要がある。だからうんざりする程 (台詞を吹き込んだテープを) 聞く。」とあるが、この映画もまた、何度も繰り返し観て全体の流れを把握することでしか浮かび上がらない表情が幾つもあるように感ぜられる。

エレーナ役のジャニス:「台詞をちょっと覚えたせいで相手役を- 自分の演技のきっかけみたいに使ってしまいます。ただ台詞を覚えないと演技はできません。このやり方では相手の台詞まで覚えて初めて相手の感情にも、もっと注意を向けることができて、反応もできるようになります。」というのは、この映像における演者たちの独特の演技の味わいを、何よりも、西島秀俊の演技の味わいを解説しているような気が、、否、演技の技術について書かれた本とか読んでみようかな。

ドライバー:「いえ、全然。むしろ何だか、、」ここでフリスビーが飛んでくるのね、からの「私あの車が好きです。とても大事にしているのがわかるので、私も大事に運転したいと思うんです。」で、帽子を拾って「行きましょう」だもんな、余計なこと言わないの、ね。むしろ何だか、と何か言おうとしたのをフリスビーを投げ返す間に引っ込めて別の言葉に変えた?というくらいの飛躍があり、しかし犬はしっぽ振ってたし、何より、嫌な印象がまったく無いので、ねじれのあるシーンになっていて面白い、好きだ。

家福:「今、何かが起きていた。でも、それは未だ俳優の間で起きているだけだ、次の段階がある。観客にそれを開いて行く、一切損なうこと無く、それを劇場で起こす。」

家福:「チェーホフは恐ろしい。彼のテキストを口にすると、自分自身が引きずり出される。感じないか?そのことにもう耐えられなくなってしまった。そうなると僕はもう、この役に自分を差し出すことが出来ない。」

タカツキ:「彼女かヤマガの部屋に残した今日の印は、その空き巣の死体でした。___私が殺した、私が殺した、私が殺した、」扉を開ける鍵はもう無い。そして、文字お越しするわけには抵抗があった、ここでのタカツキの語りは、映画『聖なる鹿殺し』のあるシーンにも繋がる、否、戯曲の分野では随分昔から扱われてきたテーマなのかもしれない、シンボルについての物語だと思った。

映画『聖なる鹿殺し』では、酒気帯びオペによる医療ミスで父親を殺された少年が、父親を殺した医者とその家族に毒を盛り、医者の家族四人の中から一人生け贄を選べ、他の奴は助けてやる、誰も選べなければ全員死ぬと脅されて、解毒方法を吐かせようと少年を拉致して椅子に縛りつける。縛られた少年に医者が近づいた瞬間に、少年は医者の腕を強く噛みつき腕からは血が流れ、すぐに少年は自分の腕の肉を噛みちぎり、「これは、シンボルだ」と言う。

シンボルとは、ギリシャ語のシンボロン?割り札という意味の言葉が語源だったか、詰まり、木の板か石ころを割ったとして、木の板自体/石ころ自体に価値/意味があるのではなく、割れた断面がぴたり合うものを双方が持っていることによって意味/価値を持つわけだ。

シンボルとは、数値化可能/交換可能/保存可能であり、殆んど「貨幣」などと同じようなもののことだと考えられる。チャールズ・サンダース・パースによる記号論でいうところの「シンボル (象徴性) /インデックス (指標性) /イコン (類像性) 」の比率が殆んどシンボル (象徴性) にあり、確かに似ている(類像性がある)かもしれないけれど、敵討ちをしても大切な人は生き返らないことからも、その人のことが大切であればあるほど、敵討ち(復讐)が、大切な人を殺されたことと似ている(イコン的)と思える比率は下がるかもしれない。また、この時インデックス的には何を、どんな意味を指し示しているのか? 何を、どんな意味を列べたことになるのか? 

また、シンボルといえば「シンボル/儀礼/権威」のコンビネーションが重要であり、その考察と実験をおどろくべき解像度の高さで実践している奇跡の一部をユニークな配列でまとめた千葉雅也氏の著書『ツイッター哲学 別の仕方で』を読み直しながら、また、社会学者のオルランド・パターソンによる『世界の奴隷制の歴史』を読み込みながら、シンボルとは少し別の単位で、両者が研究している、イディオムについても考えながら、この映画『ドライブ・マイ・カー』における「シンボル」や「イディオム」について再び考え観察し直したい。

さて、やや別の角度からもう一度同じような話をしたい。最近、たまたま観ていたある映画の中で演劇をやるシーンがあり、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の中に「バラの花を別の名前で呼んだところで、この甘い香りに変わりはない」旨の台詞があるのを知り、後のソシュールの記号学のような視点?と感じ、気になっていた。

ジュリエット:「ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの? お父さまをお父さまと思わず、名前を捨てて。 それが無理なら、私を愛すると誓って。 そうすれば私はもうキャピュレットではない。______憎い敵は、あなたの名前だけ、 モンタギューでなくてもあなたはあなた。 モンタギューってなに? 手でもない足でもない 腕でも顔でもない、人の体の どの部分でもない。 ああ、何か別の名前にして! 名前に何があるの? バラと呼ばれる花を 別の名で呼んでも、甘い香りに変りはない。 ロミオだって同じ、たとえロミオと呼ばれなくても 非の打ちどころのない尊い姿はそのまま残る。 ロミオ、名前を捨てて。 あなたの体のどこでもないその名の代りに 私のすべてを受け取って。(シェイクスピア全集2『ロミオとジュリエット』松岡和子 訳 P.67- 68 )

「バラと呼ばれる花を 別の名で呼んでも、甘い香りに変りはない。」だなんて、後のソシュールみたいなことを言っている? これらのシェイクスピアの台詞は、私の中で、映画『ドライブ・マイ・カー』の冒頭のシーン、

音:「終わりだ。でもこれで、ようやく止められる、ようやく終わる、前世から続く因果の輪から、抜け出す、彼女は、新しい彼女になる、ドアが、開く、、、」

この台詞と繋がって強く響き合った。

映画『聖なる鹿殺し』は、一見ホラー映画的な復讐劇に鑑賞者を引きつけて、しかし本来なら過激であるような凄い状況になっているシーンすら抑制され淡々と進み、「これはシンボルだ」というシーンで突如ぐらっと鑑賞者に強く問いかける、歴史を、現実を突きつける。

松岡和子さん訳の『ロミオとジュリエット』は、恋愛悲劇で読者を魅了するのかもしれないが、しかしかなり過激なメッセージを忍び込ませている。冒頭から、サムソンに「売られた喧嘩は買うんだぞ」と言われたグレゴリーに「買うとも、文無しじゃあるまいし」と答えさせ、サムソンの「俺が言うのは、頭にきたら抜けってこと。」には、グレゴリーに「うん、面倒なことになったら頭つっこむより抜いたほうがいい。」と返させる。もう、徹底的に争いを避ける為の願いが込められているように感ぜられる。注意書の通り、原文とは少しばかり違っているらしいが、とにかく先ず、松岡和子氏の訳した『ロミオとジュリエット』にしびれている。やや脱線していることに苛立ちを覚えている方もいるかもしれないがこれだけは書きたい、シェイクスピアは16世紀の人だ、思想史だと私が知っている限りだが、18世紀フランスにようやく、男てあるか女であるか性別のみによって知性が左右されることはない旨の記述を残している者が現れ始めますが、まだまだティドロなどは、そんなのは例外であり、女は男に知性で劣ると言って譲らないようなムードだった。しかし『ロミオとジュリエット』で、ここにも引用したようなキレっキレの鋭い台詞は全て女であるジュリエットに言わせているのだ、ある意味でこれは、かなり早い時期のフェミニズム的な表現として解釈することもできるだろうか? 否、当時の識字率のことを考えれば、過激な革新的な危険な言葉は、書物で残したり拡散させたりというよりは、内密に、誰にでもわかる肉声で、演劇で表現したに決まっているのか? 戯曲という形でこそ様々な貴重な言葉がたくさん残っているのかもしれない、そもそもチェーホフの戯曲を読んでいないのに、何言ってるんだ? ということもここに書いているのかもしれない。私はこれまで戯曲に縁がなかったけれど、これから、勉強しようと思う。

映画『ドライブ・マイ・カー』は、タカツキが自らを痛めることにもなる誘惑、好奇心、憧れ、やっかみ、八つ当たり、ゴシップなどの闇のあり方に翻弄されることで?鑑賞者を引きつけて、そのゴシップすら材料にして、しかし複雑に諦めない、物語だ。

ドライバー:「私は母が中に残っていることを知っていました。何故助けを呼ばなかったのか、助けに行かなかったのか、わかりません。母を憎んでたけど、それだけではなかったので。このほほの傷は、その事故の時についたものです。手術をすればもっと目立たなく出来ると言われました。でも、消す気になれません。」と、このシーンも我王の物語が重なる。

家福が眠りから目覚め、ドライバーが「おはようございます」と挨拶し、それに答えるでもなく寝ぼけているのか、目覚めたことで、閉じていた視覚は開いたが、直ぐに、サウンドトラックが消える、鑑賞者の聴覚が閉じる、もしくは、鑑賞者の居る空間に、聴覚が開かれる。

否、DVD で観ていたからか、このサウンド・トラックの全休符は、物語として、意味として解釈するよりも先に、再生機器のトラブルか?と思った。

車のドアが閉まる音と共に音声が復活した直後に、音が無くなったことの意味を考えても、気に入った意味を見つけることは出来ないまま、二人は車から降りて雪道を登り始めた。雪が音を吸収するのにも限度があり、手話、、違う、家福が車の窓から粗とを眺めるシーンで音を消して、遠くから望遠レンズで車を捉えたが故にか?雪が音を吸収して微かな音しか聴こえない塩梅のシーンで微かに音が鳴り始めて、ドアを閉める音で車のエンジン音まで完全に復活する、この流れが気になって、また何度か観てみようと思う。

音 (サウンドトラック) を失ってしまった、ということ?まさか、このタイミングで。。

家福の差し出した手に対して、「汚いですよ」と遠慮したドライバーのを迎に近寄って手を貸す、貸させて貰う家福、というやり取りはきれいなものと汚いものとが同居していることと、それをまるごと慈しむことの象徴として解釈できるし、ドライバーの「さち」についての語りも、愛しさと憎しみの同居についての物語であり、音が家福を愛していたことも、ドライバーが「家福さんは、音さんのこと、音さんの、そのすべてを、本当として捉えることは難しいですか? 音さんに何の謎も無いんじゃないてすか? ただ単にそういう人だったと思うことは難しいですか? 家福さんを心から愛したことも、他の男性を限りなく求めたことも、何の嘘も矛盾も無いように、私には思えるんです。おかしいですか? ごめんなさい。」と言うのも、同じ意味として解釈できる物語を別の語り方で、質や角度?を変えて、三種の表現を列べて合わせて一つの物語を見せられると、魅せられる。また、この物語を見て手塚治虫の『火の鳥』の我王の物語を思い出した。

我王の物語は、生まれて直ぐの我王を背負って崖を登る父親が転落して死に、我王は片目と片腕を失うが生き残るところから始まる。我王は、病弱で寝たきりのの母親?と二人暮らしで、他所の家に侵入してはその家族を皆殺しにして家財を奪って、それで母親を養って何とか生きている、腕っぷしが強いのだ。詳細を思い出せないが、村八分にでも合ったのか、母親が亡くなったのか、ひとり旅に出るのかな、で、二転三転して、ある坊主に仏を彫ってみろ!と言われ、最初は嫌がるも、彫ったらこれが頗る素敵な仏で、それを見て救われる者まで出てくる。それで我王は仏を彫って彫って彫りまくる、人びとは我王の彫った仏によって、救われ救われ救われまくる、しかし晩年ふらりと現れた見知らぬ人物が我王に対して失礼なことをしたんだったかな、我王は迷わずその者をぶっ殺す。

我王は、ひと一人の一つの人生の中で奪われ奪い与えまくり再び奪うわけだ。

自分自身をちゃんと見つめて、欠点や罪悪感の見つからない奴なんていないはずだ、これを見ようとしないような奴でなければやらないようなやり方で、安全なところから、抵抗できないようなところにいる誰かを責め立てているような奴がいるんじゃないのか? そいつにも事情があるのかもしれないが、それを差し引いて、どうなんだ? フェアなのか? 誰かを責めるような気持ちになったときには、これを思い出して、一旦引っ込めなければならない、そう自分に言い聞かせる。

家福:「でも、だから、それを見ない振りをし続けた、自分自身に耳を傾けなかった。だから、僕は音を失ってしまった、永遠に、今わかった、」という台詞は、タカツキが車の中で家福に向かって語った台詞と繋がる、「でもそれが自分自身の心なら、努力次第でしっかりと覗き込むことは出来るはずです。結局のところ僕らがやらなくちゃならないことは、自分の心と上手に、正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか? 本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く、真っ直ぐ見つめるしかないんです、僕はそう思います。」と。しかこの台詞は、このタカツキが語るから危うくバランスの取れている台詞なのであって、この言い回しも、他の誰か、家福やドライバーが言ったのでも、バランスを崩してダメになるはずだ。勿論、私にはこんな台詞は言えないし、もう、この岡田将生が言うのでなければダメだ、きっと。

家福:「大丈夫、僕たちはきっと大丈夫だ。」という台詞も、この西島秀俊が言うのでなければダメだ、きっと。

そういえば、オーディションでマリーナ役のエトウ・ユミが「あなた、私の台詞未だ終わってないの、ま、まあ、いいわ、」と言うシーンも好きだなあ。

勿論、家福がドライバーのワタリの車の運転を褒めるシーンも大好きだ。

どうも、この映画では、俳優が何らかの役を上手に演じているというのではなく、映画の中で家福が語ったように、役者は、役/台詞に自分自身を差し出しているのか、だから、その人自身の無防備な本当の気持ち/姿を観ているような印象があり、この映画に出演しているどの役者さんも好きになっちゃうというか、気になる。

この感想文は、今は、これで仮止め。

斉藤有吾

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