【ルックバック】自分の初期衝動を見つけてみましょう
映画「ルックバック」を見ました。
作者が伝えたいことは何かを真剣に考えさせられる情緒的な映画で、そこには他人との交流を通じて得られる楽しい気持ちや、それと表裏一体の苦悩や寂しさ、自己の葛藤などを感じることができました。
そんな中でも私が最も強く感じられた本作のテーマは、「初期衝動とそれを継続する上での寂しさ」でした。
注)以下ネタバレを含む感想になります。
藤野と京本の絵を描く初期衝動は何か
藤野と京本はお互いに影響を及ぼし合っている二人です。
藤野は京本の画力が、京本は藤野の四コマがそれぞれお互いを惹き合うように作用します。
ですが、この作用はお互いの絵を描く理由に大きな影響を及ぼしていません。
藤野は自分の漫画が世に出て認めてもらったり楽しんでもらうということが絵を描く根源的な目的で、京本は絵が上手くなる又は描きたいものが明確に存在しているので絵を描いているということが最初から最後まで徹底されています。
それがはじめに感じられるのは、藤野と京本の四コマ漫画のテイストの違いです。
藤野の漫画はセリフやシチュエーションを重視したものになっていますが、京本の漫画は城など建物が精密に描かれており、絵のこだわりがはじめから違います。
また、藤野は画力を向上させようと行動に移したことは彼女の行動原理から反していると思いそうになるのですが、これもやはり同級生の四コマ評が気に食わなかったことが原因で、漫画自体の「凄さ」が劣っているのが悔しかったのだと思います。(小学生にとっては漫画の「凄さ」=絵のうまさ)
そして四コマを描くのを辞めた理由も、京本に絵の上手さでは追いつけないことを悟り、漫画の作者としての敗北を感じてしまったことが理由なのではないでしょうか。
漫画の作者的には人気が無いことはショックなのでしょう。
その後、京本が藤野の四コマのファンだと伝えた後のシーンでの藤野のはしゃぎようは、漫画自体を褒めてくれたことが何よりも嬉しいということでもあり藤野の絵はあくまでも漫画の上に立っています。
この時点で藤野が漫画を描いている理由が絵がうまくなって描きたいものがあるというわけではないことがはっきりと感じることができました。
初期衝動はIFルートでも変化なし
IFルートの二人は出会わない世界線なのですが、やはり京本は背景美術を学ぶために美大にいて、空手をやっている藤野は漫画を描いていると言います。
二人が出会わないという世界においても絵を描く初期衝動は存在しています。
私はIFルートが存在する理由は以上のことを示したかったからだと考えています。
京本の死で自分を見つめなおす藤野
京本が亡くなって、「絵なんて役に立たないもの。」「京本が死んだのは私が絵の世界に誘ったから。」と自責の念に駆られる藤野。
このとき藤野は京本が美大に通っているのは自分と関わったことが大きいと考えていますが、京本の部屋を見て考えを改めることになります。
大切に飾られたサイン付きのちゃんちゃんこ、大切に補完された自分の四コマ漫画など遺された物を通じて、京本が藤野の漫画の一ファンであることをまじまじと見せつけられ、藤野は決心したような足取りで職場に戻っていきます。
このとき、藤野は「藤野に影響を受けた京本」の像を想像することではじめて美大に行くと別れた京本の意志やその人生に向き合い理解するようになったのではないでしょうか。
またそれは鏡のように自分自身を映しているのだということにも気づき、藤野は自身を漫画で人を楽しませるために絵を描いているということを再確認した印象的なシーンであると私は考えています。
最終的な感想
「背中を見る」という意味でのルックバックは、本作では藤野と京本の二人に置かれている立場によく当てはまっていました。
藤野に連れられた京本は藤野の背中を見て前に進んでいきます。
藤野は京本の部屋に遺されたちゃんちゃんこを見て、京本と自分の背中の両方を見たのでした。
また遺された藤野は絵なんて役に立たないと考えと漫画を待っている読者のために絵を描く喜びを両方持ちながら、なお漫画を描き続けるというやりきれなさを抱える寂しさのような感情を持ち続けるのではないでしょうか。
以上、創作における初期衝動とそれを肥大化させるフィクションの力を良くも悪くも感じることができました。
余談
途中やたら京本から見た藤野の背中が描かれるなあと思ったら、最終的に京本の背中を遺品で示すシーンがあり、面食らいました。すごい表現だ。
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