「いい子」
親友が、小学生の頃、塾でテストをカンニングしたのがバレた時の恐怖感を話してくれた。
私も小学生の頃、同じような恐怖感を経験したのを思い出した。5年生の帰り道だった。「なっちが○○の悪口言ってたの、チクられてたよ」と伝えられた時だ。
テストでいうと、返却されたテストで間違えたところを秘密で直して採点ミスとして伝えに行ったことがある。5年生の時の担任は「ほんとに?」と疑った。あの時の恐怖感も同じだ。
気が気じゃない、まさにあの感情、動揺にピッタリの言葉だと思う。
悪口の件は私の友達も含め3人でこっぴどく怒られた。
しかし3人の中で、私だけは泣かなかった。
悪口の相手も私の悪口を言っていたし(実際あとでその子に「ざまぁみろ」と言われていたらしい)、いつも横柄な態度を取っていたからだ。大きな被害を被ったわけではない。しかし少しカチンとくるような態度をとる、その子の存在自体が気に入らなかった。「その子が嫌い」という自分をどうしても殺したくなかった。泣いてたまるか、と怒られながら私も怒っていたのを覚えている。
逆にテストの件はバレそうになっただけで、そのまま終わった。だが罪悪感は半端なかった。二度とこんなことやらないと誓った。
5年生の頃のふたつの事件を比べて不思議に思ったことがある。
自分の意志を持って行動し、大人に酷く怒られても泣かないほどの反抗心を持っていた悪口の件、100%自分が悪いと自覚し納得しているテストの件、罪の意識は全然違うだろう。
しかし同じ恐怖感を抱いた。
なぜだろう。
「大きいものが怖い」
罪を咎められることへの恐怖ではなかったのではないか。私は自分より圧倒的に強い立場にいる「担任」が怖かったのだ。
確かに罪は犯さない、犯したくないという意識は5年生の2つの経験を通して大きくなった。「いい子」に近づいたのだ。
だが「いい子」ってなんだろう。
先生が求める過ごし方をする、ズルをしない、悪口を言わない。表面的にはみんなが(特に大人が)認める「いい子」だと思う。
だが私が悪口を言わないのは人を傷つけるからではない、あの恐怖感がトラウマだからだ。
大きな者に逆らってはいけない、求められる態度でいなければならない、といった強迫的な意識、上の者に逆らったことが咎められる恐怖、それに促された良い態度、、、本当にいい子なのだろうか。
親に「まだ帰ってこないの?遅くないですか」というメールを送られた時も、私は恐怖感を抱く。同じ原理だ。早く帰らなきゃ、そう思うのは親の心配や自分の安全のためではない。怒られるからだ。
倫理より恐怖の経験で行動が決まる。
偽物の「いい子」、そんな気がする。