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文学雑記⑧『第四間氷期』/安部公房

 すでに亡くなっている好きな作家の作品を読むことは、楽しくもあり、また、悲しくもあります。
 当然といえば当然ですが、彼らの作品が新たに出版されることが、この先絶対にないからです。一作読むごとに未読の作品は減っていき、残りが少なくなってしまうからです。
 早く読んでしまいたいという焦がれるような焦燥感と、もう少しだけでも取って置きたいという吝嗇家的な気持ちとで、私はいつもいつも板挟みになるのです。

 安部公房は私にとって、そんな作家の一人です。代表作などはすでにあらかた読み終えて、残りの作品をいつ読もうかと思案している最中の、そんな作家の一人です。
 生誕百年ということで、彼に限ってはついこの間未完の作品などが文庫で二冊出たのですが、こういうことは極めて稀な出来事です。普通は減っていく一方なのです。とはいえ、人間いつ死ぬかなど分からないし、早く読んでしまったほうがいいかもな、などと思ったりもしながらも、いやいや、でもやっぱりもったいないよな、と、いつもいつも躊躇してしまう作家の一人なのです。
 ということで今回は、気になりながらも長いこと未読にしていた本作を、ようやく読んでみることにしたのです。

 ミステリ的な立ち上がりから一気にSF展開へ、そして、なんとも詩的な情景のラストへという、大変面白い作品で、リーダビリティの高さ、という点で言えば、安部公房作品の中でも一、二位を争う出来でした。
 また、本作で描かれている人工知能などの科学技術が本当に現代的な内容を捉えており、生成AIとよく似た予言機や、環境悪化の問題など、60年以上前に書かれた作品だとは到底信じられないような内容でした。特に、故人のデータを収集してデジタル上にその人の人格を再現する、というアイデアは、本当に今日的な発想で、安部公房の先見の明に思わず唸らされました。

 と、ここで話は冒頭に戻ります。故人の意識をデジタル上に再現する、という、そういった技術を使うことで、すでに亡くなっている作家の作品を新たに作り出すことは、果たして可能なことでしょうか? 
 レンブラントだか誰だったか、すでに絵画の世界ではそういった実験が行われたというニュースの映像を、もう何年か前に見たことがあります。
 それに、昨今の生成AIの進化の速度を鑑みるに、文学の世界でもそういったニュースを聞く日が来るのは、そう遠くないことなのかもしれません。
 V・ソローキンの『青い脂』では作家のクローン人間をわざわざ造り出すことで、新たな作品を彼らに書かせていましたし、また、出来上がったその作品も、青い脂を生成する際の副産物に過ぎなかった訳ですが、そうではなく、すでに亡くなっている作家たちの新たな作品を造り出すこと自体を目的として、デジタル上に彼らのデータを集積し、彼らの人格を再構成する訳です。
 もしその実験が見事に成功した場合、デジタル上に存在する彼らが書いた作品は、一体どんなものになるでしょうか?
 そして、出来上がったその作品に、私は一体どういった出来であって欲しいと願うのでしょうか? 
 素晴らしい出来であって欲しい、という気持ちと、全くの駄作であって欲しい、という相反する二つの気持ちで、私はまたまた板挟みになります。
 もしそれが素晴らしい出来のものであったなら、安部公房の新作が、(少なくともそれに近い水準のものが、) 再び読める訳ですから、こんなに嬉しいことはありません。ですが、一方で、心を持たない機械なんぞに安部公房のマネが出来るものか、という反抗的な感情も、当然私の中にあるのです。
 それに、もしそれが素晴らしい出来のものであったなら、作家にとってのオリジナリティとは一体どういうことなのだろう、という新たな問題も、当然出て来てしまうと思うのです。
 安部公房本人が書いた作品と、デジタル上の『安部公房2号』が書いた作品を、我々はどうやって峻別したらいいのだろう、という、新たで厄介な問題です。

 そもそも、作家のオリジナリティとはなんなのでしょうか? 何を持ってその作家にはオリジナリティがある、と判断することが出来るのでしょうか? 
 文体でしょうか? 発想でしょうか? あるいはテーマとかでしょうか?
 誰も書いたことのない比喩表現を使っているとか、誰も読んだことのない風変わりなキャラクターを登場させている、とかでしょうか? あるいは、それらの組み合わせの問題でしょうか? 
 いえ、もしそれらのデータを集積することでAIにも複製が可能であるならば、それら全ての特徴にもなんら意味はないのかもしれません。

 ……と、ここまで書いてきて気づいたのですが、これはなにも作家に限った問題ではないと思うのです。全ての人間に当てはまる問題だと思うのです。
 人間にとっての個性とは、一体どういうものなのでしょうか? それは何処から生まれてくるものなのでしょうか?
 外見でしょうか? 性格でしょうか? あるいは、仕事や趣味や価値観などでしょうか? それらの組み合わせの問題でしょうか? 
 もしデジタル上に再現された故人との会話に全く違和感がなかったとしたら、その人が持っていたその人らしさやその人ならではの視点とは、一体なんだったのでしょうか? そして、もしそんな技術が一般に普及されるようになったとしたら、個人が死ぬことの意味や定義は、一体どうなってしまうのでしょうか? 

 すでに亡くなってしまった大切な人といつでも会話が出来る世界。
 死んだ作家の新作が毎年出版され続ける世界。
 それは果たして幸福でしょうか? それとも不幸なのでしょうか?
 私にはよく分かりません。そんな世界が来て欲しいような気もしますし、同じくらい来て欲しくないような気もします。私の心はまたまたまた、板挟みになるのです。
 こういう難しい問題に対して、我々には何か取り得る手段はあるのでしょうか? 何か考えるヒントになるようなものはあるのでしょうか?
 ……それはもちろん、生成AIに聞くこと以外で、ということで。

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