【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その4
出版情報
タイトル:聖徳太子: 地球志向的視点から
著者:中村 元
出版社 : 東京書籍 (1990/9/1)
単行本 : 251ページ
前回まで
【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その1では、東洋思想研究の世界的権威である著者中村元の紹介と、私のこれまでの断片的な聖徳太子像、それから飛鳥・奈良時代のコスモポリタン的な空気感を本書を通して紹介した。
聖徳太子は一義的には、当時の政治家=為政者であった。中村は、冠位十二階や十七条憲法、仏法興隆で内政を整え、当時の大国 隋に対して対等外交を行なった聖徳太子を実質的な日本の建国者ととらえた。
【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その2では聖徳太子が特に重要であると選んだ三つのお経『維摩経』『勝鬘経』『法華経』と、そのお経について解説した三経義疏について述べた。驚いたことに三経義疏は日本最古の古典なのだ。帝王といってもよい政治家である聖徳太子が説いた三経義疏は後代においても非常に尊重された。それこそが聖徳太子が世界規模で思想史上の偉人の証の一つであろう。そのことを日本人はもっと知ってよいのではないだろうか?
【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その3では著者 中村の専門である比較思想史によって、十七条憲法を軸に古代の『普遍的帝王』と聖徳太子を比較し、聖徳太子の世界思想史的な意義を明らかにしている。十七条憲法には、1. 君臣民の関係を説いている、2. 議論することを重要視している、3. 人格者たる理想の官僚像を説いている、4. 和を重んじる、などの特徴があるが、特に1. と2. が独特であり、君=天皇の権威を絶対的なものとしながらも、ことにあたっては議論で決めるという、独裁主義ではない我が国の伝統を反映している。もちろん3.と4.についても中村は聖徳太子と『普遍的帝王』を詳細に比較してに論じている。さらに漢文で書かれている十七条憲法は簡潔で風格に富んだ名文であると評価が高く、内政文書であったと同時に外交的にも我が国の国家レベルを示す重要な文書であったと推測できる。
本記事では、視点を変えて、聖徳太子を敬慕する人たちについてみていこう。後世の人々は聖徳太子をどのようにとらえ評価していたのか。あるいは評価を超えた存在として信仰していたのか。現代を生きる私たちは江戸時代までの太子のイメージを知らない。そうした太子像を取り戻すことで、私たち自身が日本とは何か、日本人とはどういう人々なのか、また自分自身について考える機会となれば、と願っている。
聖徳太子を慕う人々
昭和の私たちには、紙幣の肖像としての聖徳太子が馴染み深い。一万円札と五千円札が昭和33年ごろからほぼ昭和が終わるまで発行されていた。だけれど、聖徳太子のことをどれだけ知っているか?といったら、歴史の時間に習った「日出処の天子」という隋への書簡、冠位十二階、仏教興隆、一度に十人の話を聞き分けたという伝説、修学旅行の法隆寺とほど近い中宮寺…(そのほか昭和時代の私たちがアクセスしやすかった本や漫画など本記事末尾のおまけに掲載した)。
だけど、江戸時代まで、もしかしたらつい戦前までは、いいえ、地域によっては現代でも、太子信仰というものがあって、聖徳太子は身近な信仰対象として慕われていたし、今も慕われている。
では太子信仰とは、どのようなものなのか?例によって長くなるがウイキペディアの太子信仰から引用する。
本書が出版されたのは平成2年(1990)であるが、昭和45年(1970)に責任編集した『聖徳太子』(日本の名著)第2巻の解説に加筆修正したものである。上記の引用で言えば「懐疑派」「虚構派」が現れた時期であった。本書ではそうした意見の存在を認めつつ、否定できることは否定し、否定しきれないものがあっても、「聖徳太子を信仰の対象にしていた人たちがいたこと自体は事実である」という姿勢が印象に残っている。
本書を読み、また上記Wikiを読んで、一番ピッタリくるのは太子信仰は日本の社会や思想の移り変わりを反映する時代の鏡という部分だ。
そもそも聖徳太子は政治家であり学者であり宗教家でもあるというまさに八面六臂の活躍ぶりである。伝説では「愛馬にまたがり、富士山に登り、信濃・三越を経て三日で帰った」p204などという後の役行者などにもつながるようなエピソードまである。また後の太子信仰では大工・職人たちに技術の神、芸の祖として崇められたというp210。仏教を保護する中で、瓦や建築技術をはじめとする職人たちの保護、また仏像や絵画など直接仏教に関するものだけではなく、歌舞音曲など大陸由来の芸術の保護なども実際に行っていたのかもしれない。
「太子信仰は皇族から被差別階層に至るまで広まったことも特徴の一つであり、各時代で様々な人々が太子をどのように捉え、何を投影し、何を信仰し、どう批判されたのかを解明することで、日本の宗教・精神・思想・美術・文化の変遷を明らか」(上記wiki)にすることが可能であるほどに、聖徳太子は私たち日本人の精神性に深く浸透し、支えとなってきてくれた。私たちはもっと積極的にこの事実を捉え、それを現在や未来に活かしていく可能性に開かれてもよいのではないだろうか?
中村は、次のようにいう。
太子自身が超人的な信仰対象でもあったし、それとは別に聖徳太子が観音菩薩の生まれ変わりであるp141とか、シナ天台の南獄慧思禅師の生まれ変わりであるという伝説が日本でも古代シナでもかなり広く知られていたp141。チベットでもソンツェンガンポ王は観音菩薩の生まれ変わりであると信じられていたというp141。日本とチベットにはこういう点で何か共通する心象の働きがあるのかもしれない。
また聖徳太子の思想は、当時東アジアの中心であったシナにさえも影響を与え、鑽仰された(褒め称えられた)。太子の『勝鬘経義疏』は唐代にシナ大陸にもたらされ、明空という僧が注釈書を著したp218。それだけの影響力が聖徳太子にはあったのである。シナ大陸という海外で仏教的な研究業績が評価されたことも、太子信仰にプラスに作用したことだろう。
太子信仰にとって危機的な時代もあったが、信仰の火が消えることはなかった。まさに聖徳太子は日本的精神のなんらかの支柱であり、なんらかの指標のようにも思えてくる…。
聖徳宗や和宗は戦後まもなく、それまでの宗派から独立してそれぞれ法隆寺、四天王寺が総本山になって開いた宗派である。著者がいうように太子信仰が「拡大し、質的に高まったとはいえない面がある」とのことであれば、寂しい。聖徳太子の事績の今日的な意義がより明確にならないものだろうか?
太子信仰へのインフルエンサー
鎌倉時代に近づくと、聖徳太子信仰が社会的に影響力のある僧侶たちによって、さらに深まっていき、広まっていく。一人は浄土真宗の親鸞であり、一人は鎌倉末期の忍性律師である。
親鸞に影響を与えた聖徳太子
親鸞に関して、私は浄土真宗を創設した、と言う日本史的な知識しかない。親鸞にたどり着くまでの、聖徳太子像はどのように変遷していったのだろう?
親鸞はどういう人かというと…平家の全盛期に源氏の子として生まれ、出家することが運命付けられていた。比叡山で修行をするも、思うようには得るものがなかったようで、山を下る。聖徳太子ゆかりの京都にある六角堂に籠って修行していたところ太子からのお告げを授かる(wiki)。「それによって結婚の決意を固めたという」p207。また別の言い伝えでは「聖徳太子の示現の文にあずかり、それから法然上人の門に入ったという」p207ので、とにかく結婚と師を定めるという人生の2大イベントに対して聖徳太子の夢を感応した。
こうして、親鸞によって聖徳太子は民衆の間で、ポピュラーな存在になっていった。さらに保守的な諸宗派でも聖徳太子は熱心に信仰された。
そして聖徳太子の生涯を絵によって説明する絵伝が鎌倉から室町にかけて盛んに作られたという。
何だか、漫画の走りのようだ。こういう絵伝の伝統が今日の漫画文化に繋がっているのだろう。
このように太子信仰が庶民レベルにまで伝わると、さらに太子信仰そのものにも大きな変化が起こる。それは太子講などと呼ばれ、職人・大工集団や芸能集団などの、太子信仰へとつながっていくp210。また農村でも、大師講と混同されながら、太子講はレクリエーションを含めた農耕的信仰行事として普及していくp210。
社会奉仕の精神への影響:忍性律師
聖徳太子は社会福祉にも熱心だった。
忍性律師は鎌倉後期の真言律宗の僧で、一時、四天王寺の別当をしていたときに、聖徳太子の精神を受け継いだというp212。
彼は奈良県北部の般若坂にも、ハンセン氏病患者のための収容施設を建てた。北山十八間戸という。ここからは、遠くの興福寺の塔や、法隆寺の塔が見えて、病人たちは心の安らぎを得られる。そこまで考えてこの地に建てたのだろうと中村は推測している。忍性律師は、病人を背負っては、奈良の町へ連れて行って買い物をしたというp212。なんて慈悲の人だろう!すごい…。
忍性律師は、その後東に下って諸方で大変な活躍をした。
年間3000人もの人々を収容し、8割以上の人が治癒したとは、多分当時にあっては、すごいことだと思う。
社会福祉にとどまらず、インフラ整備など公共事業を行なった、ということだ。インフラ整備こそが社会福祉につながる、人々の暮らしを守り、豊かにする。それは現代の土木工学・社会工学の京大教授 藤井聡氏の持論にも直結している!つまり現代にも通用するのだ!
さらに中村は、忍性律師の業績を西洋の人々との比較を試みる。
上記パリの病院がオテルデューのことであれば650年のことであるので、聖徳太子の悲田院の少し後のことだろう。
さらに中村は西洋と東洋を比較する。
私の思う聖徳太子の今日的意義
聖徳太子: 地球志向的視点からを読むその1、その2、その3、その4(本記事)では、著者中村元の描く地球的視点から見た聖徳太子像を順番に見てきた。
印象に残ったのは、飛鳥奈良時代のコスモポリタン的な空気感と、聖徳太子の偉業と言われているものは、どれもその後の日本に大きな影響を与えたことである。十七条憲法は大国 随が迫るなか、日本の独自性を守りながら律令制国家に変貌していく土台となった。一般的には知られていないが、三経義疏は一万点を超える仏典の中から聖徳太子が特別に選んだ三つのお経について解説したテキストとなっている。この選び方もまた、俗世で生きながら悟ることをよしとする、その後の日本の仏教の方向性を決めたといってもよいもので、後世に多大な影響を与えた。また大陸にも三経義疏の素晴らしさは届いていた。本記事では、太子信仰を中心に、日本人の心に、そして社会奉仕の精神に、どのように太子の心象が残っていったかについて述べた。
こうして見てみると、聖徳太子は危機の時代に、仏教や律令制という外国の制度や宗教を取り入れながら、日本の国柄を見事に守り切ったといえる。
現代日本は、グローバリズムに侵食されつつあり、実は国家主権がないのかもしれない、という実態が明らかになりつつあるように思える。やはり、危機の時代なのである。
こういう時代にこそ、聖徳太子が何を選択して、どう行動したので、日本を守り切ることができたのか、今一度見直してみても良いのではないだろうか?
戦後生まれの私たちは、聖徳太子の偉大さを教わる機会がなかなかない。改めて太子の偉大さの一端に触れるためにも本書を手に取ってみるのはどうだろうか?
そんな感想を持ったのだが、みなさまは、どう思われますか?
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
中村元東方研究所 https://www.toho.or.jp/
仏教と天皇、上皇の関係
お妃を唐とネパールから迎える王子さま。それぞれが自分の地の仏教をチベットにもたらした。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/209096/1/Himalayan-17-146.pdf
和辻哲郎 日本倫理思想史
親鸞といえば歎異抄
下記は現代語訳ではないとのこと
忍性律師についての本
少ないらしいです。