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【京都学派】浜崎洋介&茂木誠対談【近代の超克】
今、推すとしたら、間違いなく、このお二人。そのお二人が対談しているなら、そりゃ見るでしょ。というわけで、見たら、すごいヒントがあった。
というわけで備忘録。
この記事は、シリーズ7番目の動画の、いきなり肝心なところだけ書き出したものなので(自分のために)、全体を知りたい方は、このシリーズを1〜7まで順にご覧になることをお勧めします。(8以降も続くと思われます)。
それに『推し』と言っておきながら、お二人の著作をすべて読んでいるわけではありません。ですので、ほんとにメモ程度です。
近代の超克とはなにか?
『近代の超克』とは戦前に、京都学派が中心になって行われた、いわゆる知識人たちによる座談会である。京都学派の思想的中心には西田幾多郎という哲学者がいた。座談会に集まった人々は、戦後になって公職追放などにあって、報われないこととなった。また、座談会の内容そのものも、戦後顧みられることはなかった。
浜崎洋介と茂木誠の対談動画は、2024年8月27日現在、1〜7までアップされているが、これ以降もアップされるのでは、と思われる。本記事は7についてのメモである。
近代とはなにか?
では、近代とはなんだろう?
浜崎は、鈴木成高による『近代の超克』の定義から、逆説的に、次の3つであると言っている。近代を象徴するものは「政治においてはデモクラシー、経済においては資本主義、思想においては自由主義」である、と。
途端にまさに21世紀の現代日本人が直面している肌感覚、つまり「あっれ〜、民主主義って結局なんか出鱈目っぽい?(2020年米大統領選挙など)」「資本主義ったって、30年、経済成長してないし、外資に産業食われまくっているし、能登半島にお金回さずにウクライナ支援?バカ言わないで」「自由主義??その果てがLGBTであり、パリ五輪開幕式??んで言論の自由が奪われつつある現状??」のように、「どれもダメじゃん!!機能してないじゃん」となって、「なんかもっと良さそうなものを探さないとあかんじゃないの??」と、まさに21世紀に生きる私たちにこそ、『近代の超克』(=近代を乗り越える何か)が必要なのではないか?という問題意識に行き着く。
そう、今の私たちは、もしかしたら82年前の日本の人々が持っていたのと、同じ問題意識を持っているのかもしれない、と気づくことになる。
ちなみに鈴木成高による『近代の超克』の定義は、「政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克」ということになる。
中世から現代まで引き継がれる(政治的)倫理観
神皇正統記という中世の歴史書であり思想書に、次のようなことが書いてある、と浜崎はいう。
「神皇正統記において『鏡』というものは別格に扱われている。私たちの??政治家の??胸の奥には鏡があって、その鏡には『民心』が映っている。(調和のとれた優れた政治を行うためには)鏡が曇っていてはダメで、妄念(=物欲、我欲など)を払っておく必要がある。妄念を払うということが日本人の中に一貫してある倫理。それを神道と呼ぼうが、儒教と呼ぼうが、仏教と呼ぼうが」という趣旨のことを言っている。
確かに私たちは、「政治家って汚いよね」と言いながら、どこかで「我欲がなく、民衆のためを思う、『本当の政治家』はいないかな?」と思ったりしていないだろうか?「本来はそうなんだけどな?」と。つまり、私たちの心の奥底には『本物の政治家の倫理観』が何かしら存在していて、それを元に批判している、ようなのだ。
もちろん浜崎は、文芸批評家であり思想家であり大学の先生なので、もっと丁寧に、ここまでの道筋を説明してくれている。なので詳しく知りたい方は、動画を見ることが一番だ。とはいえ、もう少し説明を試みる。
「便利は正義」という近代社会の中で、システムに飲み込まれてしまう私たち
浜崎はいう(以下は浜崎の言説の要約)。
ーーーーーーーーーーーーーーー要約ここから
物質をコントロールし様々に便利な道具を次々に作り出す近代社会。例えばスマホ。便利だけど私たちは、たちまちスマホに依存する。便利になって楽になったけど、便利なはずのシステム=仕組みが私たちを凌駕し飲み込んでいく。人間が削られていく。
都会に集住し、大地や食糧の生産現場=第一次産業から切り離され、コミュニティから切り離された個人は、エゴイストになっていく。自分は自分だけで生きているのだ、と。そういう人々を『大衆』という。『大衆』は何も考えていない。『民衆』や『庶民』はもっと大地に根ざしている。『大衆』はそこから切り離された個人の集団だ。
こういう個人の集団でいることには限界があるのではないか?バラバラになった個人を乗り越えようとする試み。それが近代の超克である。
都会に生きる個人が飲み込まれがちなさまざまな妄念。そこから距離を取る一つの手段が瞑想=坐禅だ。瞑想して無になる。それは意識がなくなる、悩みが消えてなくなる、というわけではない。妄念は妄念としてあったまま、あ、妄念なんだ、それと距離を取る手段なのである。
これを(クライテリオンの中では??あるいは近代の超克のグループの中では??)主体的無の立場と呼ぶ(らしい)。これは近代を超克するための一つの手段である。
ーーーーーーーーーーーーーーー要約ここまで
茂木は無になるには、畑仕事が良い、と言っている。妄念が取り払われる、集中の時間。右脳で全体性とつながる時間。
集団の中の適切な立ち位置という調和
浜崎はいう(以下浜崎の言説の要約)。
ーーーーーーーーーーーーーーー要約ここから
福田恒存は、「全体があって全体の中の適切な立ち位置を探ること」、それを「私たちの倫理」と呼んでいる。全体の中の適切な立ち位置。調和、そして無。禅。素直で正直な心。素直で正直な純粋経験。
ここには系譜が見出せる、と浜崎はいう。福田恒存、小林秀雄、西田幾多郎、そして神皇正統記まで遡れるような。
こう言ったこと全体が、日本人の倫理観なのではないか、と。
ーーーーーーーーーーーーーーー要約ここまで
全然違う例を出すんだけれど、大経連(やまと経営者連盟)の主宰者が動画の最後に毎回「ご機嫌に中今を」とキャッチフレーズをいう。
中今とは右脳体験、である。左脳の妄念=考えとは対照的な。
彼は目の前のことに集中することで、そのまま大調和が生まれる、という趣旨のことを言う。
ん?これって上記の議論とまさに同じことを言っていないだろうか?
いろいろなところで、すでに近代の超克が始まろうとしている??
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
浜崎洋介先生と京都学派を語る01
浜崎洋介先生と京都学派を語る02
浜崎洋介先生と京都学派を語る03
浜崎洋介先生と京都学派を語る04
浜崎洋介先生と京都学派を語る05
浜崎洋介先生と京都学派を語る06
浜崎洋介先生と京都学派を語る07
浜崎洋介の著作
茂木誠の著作
近代の超克の人々
とりあえず、近代の超克の座談会部分は読めるらしい。竹内好による解説はひどいもののようだ。
西谷啓治
やまと経営者連盟
特にお勧めしているわけではないが、なんか言っていることがシンクロしている気がするので。
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