【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その1
出版情報
タイトル:聖徳太子: 地球志向的視点から
著者:中村 元
出版社 : 東京書籍 (1990/9/1)
単行本 : 251ページ
東洋思想研究の世界的権威:中村元
著者の中村元は東洋思想研究の世界的権威だそうだ。出身地松江には、名を冠した記念館まである。そのWEBの紹介ページには、
とある。東京にはそれとは別に中村の名前を冠した中村元東方研究所が存在する。
大正元年(1912)生まれの中村が本書を出版したのは平成2年(1990)。昭和45年(1970)に責任編集した『聖徳太子』(日本の名著)第2巻の解説をもとに、諸講演録集を付加して適宜加筆・修正した、とある。
つまり著者58歳の仕事に20年後、78歳の時に加筆修正した、と。亡くなったのが平成11年(1999)の誕生日直前、86歳なので晩年の作である。が、とにかく瑞々しい。まるで初めて飛鳥村や斑鳩寺に訪れたかのような筆致なのだ。
著者は東洋思想の第一人者として、サンスクリット語はもちろん、パーリ語にも精通し、語学に明るいだけではなく、龍樹の空論など私にはまったく歯の立たない分野にも詳しいらしい。我が国では取得が難しいと言われている文学博士を31歳で取得している。つまり著者は…左脳人間さんだ。だが、下記の著者に関するエピソードを読むと、中村は単なる東洋思想研究者ではない。
中村は東洋思想を体現し、仏道、菩薩道を歩んでいる人のように感じられる。20年間の業績を無に帰されても怒りに飲み込まれることなく執筆が再開できるとは。空海が空中から得た白紙に感嘆できるのはまさに空を体感しているからだろう。また色紙によく書いた言葉は、インドの文字での「いつくしみの心」だったという。世が世であれば、彼を拝む人がいても不思議ではないような人なのだ(もちろんそんなことは中村は望まないだろうが)。右脳とか左脳とかを超越している学聖。中村にこそ相応しい言葉ではないだろうか。
日本人みんなに知ってほしい聖徳太子像
聖徳太子は、何よりもまず、古代の政治家…為政者だった。著者 中村は聖徳太子は実質的な我が国の建国者だったというp11。内政を整え、大国 随に対して対等外交を行なった。太子も関わった物部と蘇我の争いが終わり、蘇我による随分物騒な崇峻天皇弑逆があり、叔母の推古天皇が即位。太子は幼少の頃から天才の誉高かったが、叔母の補佐についた。外交的には遣隋使を使わして、「日出処の天子、日没処の天子に致す」と書簡を送って我が国(日本)は貴国(隋)の属国ではありませんよ、と宣言し、内政的には冠位十二階や十七上憲法を制定し、仏教を保護した。十七条憲法は日本で初めての成文憲法であり官吏に向け、その心構えを説くものだったp35。十人の訴えを一度に聞いても聞き分けたという伝説を持つ。昭和の時代には千円札も一万円札も聖徳太子が描かれていた。偉人だった。
だけれども、聖徳太子には、さらにそれ以上にいくつもの側面がある。まず、太子の子孫たちの滅亡。それから、厩戸で生まれた、というイエスキリストを彷彿とさせる伝説。そして、戦後生まれの私たちの多くは、知らないままでいた、あるいは積極的には知らされないままでいた、聖徳太子の思想家や宗教家としての側面。著者中村元によると「聖徳太子は世界規模で思想史上の偉人」でもあるという。思想史上?の偉人?聞いたことなかった。どういうことだろう?
本書を読めば、それがどういうことか、よくわかるだろう。菩薩行をごく自然に行う著者中村は平易な文章でそれを順序立てて教えてくれる。
私もしばし、みなさんと一緒に、中村元が案内してくれる聖徳太子像を知る旅に出ようと思う。記事を書きながらの旅。みなさんは、もちろん本書を読むのが一番だ。この記事は私の記録用だ。なので、もし、よかったら、ということで。
私の知っているこれまでの断片的な聖徳太子像
戦後世代で高度成長期生まれの私にとっての初めての聖徳太子は梅原猛の『隠された十字架』。それからBL(=Boys Love:ボーイズラブ)の走りのような山岸涼子の『日出処の天子』。令和に入って茂木誠と田中英道の対談本『日本とユダヤの古代史&世界史』だの、経済評論家 三橋貴明の『聖徳太子の英雄物語』だの。多分、どれも「それまでの太子像からは、だいぶ?少しばかり?逸脱した」太子像を描いたものばかりを読んでいるのかもしれない。なので、本書はその原典/原点とも言える、ある意味オーソドックスなものに戻ってきた…そんな感じなのかもしれない。
梅原猛の『隠された十字架』:法隆寺は、血脈的に抹殺された聖徳太子の魂を鎮魂し、ある種の恨みを封じ込めるための寺院であるという仮説を述べている。
山岸涼子の『日出処の天子』:BLの元祖!?聖徳太子の持つ不思議な力とそれを受け止める蘇我蝦夷の関わりを描いた漫画。聖徳太子の力が半端ないってことは、この漫画で印象付けられた。
茂木誠と田中英道の対談本『日本とユダヤの古代史&世界史』:記事にも書いたが、田中によれば蘇我氏は帰化ユダヤ人でキリスト教ネストリウス派の信仰を持ち、聖徳太子は彼らによってキリストの代わり?生まれ変わり?として持ち上げられていたのでは、とのこと。これだけを読むと、トンデモ説に聞こえるが、通して読むと不思議に説得力がある。
三橋貴明の『聖徳太子の英雄物語』:三橋によると聖徳太子は、日本で最初に権威と権力を意識的に分離した偉人であるという。太子が摂政になる以前は日本は政治的に大混乱。内戦もあり天皇すら弑逆される。それを収めたのが、太子による権威と権力の分離であるとのこと。(一方で記紀では「うしはく」と「しらす」を分けて記述されており、この2つを分離する文化が聖徳太子より以前からあったのでは?とも思うのだが…。もちろん、記紀が成立したのは聖徳太子よりも後ではあるが、概念は聖徳太子より以前からあったのでは。たとえば卑弥呼とその弟の治世だってある種の権威と権力の分離のように素人目には思えるのだが…)
どれもこれも一冊の本になるくらい興味深く内容も深いテーマなのであるが、明治以前、平安、鎌倉から江戸期までの太子像は、まったく違ったものだった。聖徳太子そのものが信仰の対象だったのだ。悟りへの道標としての生きた人間である、太子。
これから本書『聖徳太子: 地球志向的視点から』に沿って、宗教家、思想家としての太子をみていく…のだが、例によって長くなりそうなので、数回に分ける事にした。本記事では、まず著者中村が挙げている例に沿って、飛鳥・奈良のコスモポリタンぶりをみていこう。
地球都市:奈良の空気感
物理空間としての奈良。そして、時空を超えて思想史と結びついている奈良。その縦横を、最初は物理空間として、次に思想史的な空間として案内してくれる著者 中村。
中村は『コスモポリタン』という言葉を使っている。本書の題名中にある『地球志向』がすなわち『コスモポリタン』ということなのだろう。現在問題視されている『グローバリズム』や『グローバリスト』は、経済=お金という価値観のみを評価基準にして、人々の暮らしを破壊し、支配しようとしている、と目されている。中村が本書の骨格を書いた昭和の高度成長期に『コスモポリタン』と呼ばれた人々、そして著者中村が『コスモポリタン』とみなした飛鳥・奈良時代の人々は、たぶん、個人だ。個人が志を持って、自らの命も顧みず、異国の地に渡る。相手国の人々の幸せを願って。この教えを聴く人々が幸せになるように、と。異国の地の習慣に慣れ、言葉に慣れ、人々の中に溶け込んでいく。そして教えが広まっていくように、尽力する。まさに菩薩行だ。
予備校講師で著述家の茂木誠は『感染症の文明史』の中で、「新しい宗教が人々に受け入れられるときには感染症への恐怖があったのでは?」「新しい神様仏様にすがりたかったのでは?」と仮説を立て、感染症と新しい宗教勃興や受容の様子を歴史上の事実と照らし合わせた。実際にローマ世界でのキリスト教信者の爆増、イスラム教の勃興、さらに日本では「仏教公伝と共に日本で疫病が流行り出す」などの幾つもの事実が確かめられた。聖徳太子の生きた六世紀に天然痘が日本に伝わり以降周期的に流行したという。同じく六世紀、東ローマ帝国ではペストが流行し2500万人もの命を奪った。一説には気候変動が関わっているのでは、とのこと。
世界中の人の往来が増すとともに感染症も拡散し、同時に「同胞(である人類)を苦しみから救いたい」という気持ちもまた強まってゆく。
正倉院ではなく法隆寺、四天王寺、飛鳥大仏、石舞台
奈良は文字通り千年の都。いや710年からが奈良時代なので千三百年の都だ。正倉院は誰もが知る、千三百年の都の宝物を収めた校倉造りの建物だ。その御物にはシルクロード由来の中東、インド、シナ、朝鮮半島、はたまたゴビ砂漠、などなど異国の品があふれかえっている。
だが中村は正倉院ではなく、聖徳太子由来の法隆寺や四天王寺、飛鳥大仏、石舞台から、往時のコスモポリタンぶりを読み解いていく。
私は飛鳥大仏のことは知らなかったので、ここで取り上げたいと思う。
著者によると、「細く整った顔つきは必ずしも日本人のそれではなくて、朝鮮人・シナ人のそれに近いと言えるだろう。インド的でもなければ、中央アジア的でもなかった」p31。どうなんだろう?私の印象ではシナの人々はどちらかといえば面長とは真逆だ。朝鮮半島の人々はどうなんだろう?むしろこの像の特徴は高くしかも大きな鼻、アーモンド型の目にある。中村も「眼が二重瞼で杏仁形というのは、日本人の間には類例乏しく、むしろインド、パキスタン、イランのアーリア族(Caucasian=コーカサス人)の間にる多く認められる。このすがたはむしろ西域から東アジアへ入ってきたのではなかろうか」p31-32と述べている。
当時は瓦葺屋根が最先端技術であった。「日本書紀には今から1400年前の西暦588年に百済が日本に対して4人の瓦博士を献上した」と記述があるとのこと(全国陶器瓦工業組合連合会HP)。飛鳥寺の跡地からは瓦の破片が見つかっているという。「宮殿といっても藁ぶきか茅ぶきに過ぎなかった時代に、瓦ぶきで礎石を持った、壮大な建造物が出現したのであるから、当時の人々にとっては途方もない驚嘆であったことであろう」p32。「そうしてこの巨大な権力に支えられて、異国的な、したがってコスモポリタン的な雰囲気が飛鳥地方に出現したのである」p32
唐招提寺
聖徳太子より時代は降る(奈良時代)が、幾度も渡航に失敗しながら、盲目になってまで、日本にやってきた鑑真和上。知らない人はいないだろう。
中村は唐招提寺において鑑真和上が大切にされている様子を墓所の大きさから描いている。
そもそも唐招提寺という名称。私は唐から招かれたお坊さんが菩提(ボディサットバ=悟り)を説くお寺という意味かと思っていた。そうではなかった。唐はそのまま唐の国からきているのだが、「招提」はパーリ語チャトゥッディサ(catuddisa)の音を模したものであるという。チャトゥッディサとは四つ(catu)の方角という意味で、「四方向への」=「万人への」(愛情)という意味なのだそうだ。まさに鑑真和上は四方の人=コスモポリタンというわけだ。
鑑真和上は来日した当初はもとより江戸時代になっても尊敬の的であった。中村は芭蕉の俳句「若葉して 御目の雫 拭はばや」を引用しているp70。
思い出さないだろうか?「幸せな羊太夫」のことを。和銅開珎を作ったとも銅の採掘に関わったとも言われている多胡羊太夫。鑑真と同時代人か、もうほんの少し早い時代の人と思われる。彼もまた、日本の中に溶け込んでいった一人だ。当時の多くのコスモポリタンがそうして日本の国づくりに貢献してくれた、ということなのだろう。感謝の思いが改めて胸に迫る(ご興味のある方は『日本とユダヤの古代史&世界史』についてのこちらの記事をお読みください)。
鑑真が命懸けで伝えた戒律ではあったが、時代とともに日本人は忘れ去ってしまった。「それは日本の現実の生活に適合しなかったからである。しかし鑑真に対する尊敬と親しみは決して失っていないのである」p72。
仏足石
仏教といえば仏像。それが現代日本人には当たり前のことになっているが、釈尊が入定して(その時期は確定しておらず紀元前7世紀から紀元前5世紀頃とかなり幅広い)から紀元100年ぐらいまではそうではなかった。お釈迦さまを想起させる法輪や菩提樹、ゆかりのものを用いで釈尊を表した。仏足石もその一つだった。そして世界中の他の地域では、そうした遺物は捨てられたり破壊されたり顧みられなくなり失われていった。奈良の薬師寺の仏足石が現存する最古のものであるという。薬師寺のものは側面の銘文より天平勝宝5年(753)に作られたことがわかっている。
仏足石はその紋様が写し取られ、世界中に伝わっていった。薬師寺の仏足石はインドのマガタ国の華氏城にあった図案を長安へ、さらにその図案を石に刻んだものを平城京へ、さらに画師が貴人の亡夫人供養のためにと依頼されて別の石にコピーした、と。
マガダ国の華氏城(パータリプトラ市)はかつてアショーカ王が都したところだとのことp76。アショーカ王は仏教の理念(ダルマ)による統治を行い、スリランカやビルマにも布教した、とも。いずれにせよアショーカ王はマウリヤ朝全盛期の王であり仏教を輝かせた一人だろう。そういう地からさまざまに媒体を変えながら転写され、奈良まで運ばれた仏足石。釈尊とつながりのある地から奇跡のようにやってきたのだ、と。当時の人々はそのような心持ちで、この仏足石を拝んでいたに違いない、と中村はいう。ぜひ薬師寺のHPで仏足石をご覧になって欲しい。
仏足石も国宝なのだが、もう一つの国宝 仏足跡歌碑も大変貴重なものだ。当時は仏足石の周りを廻りながら歌を歌っていたのではないか、という。その歌が万葉仮名で石碑に刻まれているのだ。
万葉仮名ではない仮名漢字混じり文が、wikiにある。「御跡作る 石の響きは 天に到り 地さへ揺すれ 父母がために 諸人の為に」。なんて優しい歌だろう。なんだかキリスト教の讃美歌のようにも、縄文の磐座の前での歌唱のようにも思えてくる。同じような碑文が西パキスタンにもあるというp78-p79。優しい歌の輪が世界に広がっていた。その裏には疫病や戦争があったのだろう。一方で優しさを伝えたい、その輪を広げたい、そういう希望もあったのだ。
バラモン僧正
奈良の大仏(盧舎那仏)は鎮護国家と民衆の幸せの願いを込めて聖武天皇が発願し、約9年の歳月をかけて建造した。疫病に天災、政変、反乱など当時は社会不安が満ちていた。人智を超えた仏法の力を頼りにしたのである。大仏建造は国家事業であったと同時に多くの人々が進んで協力した側面もあったようだ。原材料である銅、スズなどの金属が全国規模で好意的に集められ、寄進者は42余万人、仏像製作に携わった作業者は延べ218万人だったとされ、当時の人口の40%もの人々が携わった一大国家プロジェクトであったという(有限会社日向キャスティングHPより抜粋)。現代のプロの目から見ても当時の技術力は相当高いものがあるようだ。
大仏の開眼供養はインド人の僧 菩提僊那が導師を務めた。彼は入唐大使 多治比広成に従い、ヴェトナムの僧 仏哲および唐僧 道璿とともに日本に来たp80。唐や朝鮮半島をはじめ諸外国の珍しい音楽や舞踊などが披露され、当時においては世界最大級の国際イベント(公益社団法人 奈良市観光協会HPより要約抜粋)であった。
その後もバラモン僧正は日本に残り骨を埋めた。故郷そっくりの山を奈良市富雄に見つけそこに寺を開いた。故郷 中部インドの霊鷲山の略称霊山からとって寺号を霊山寺とした。聖武天皇と行基の後ろ盾もあり立派な寺だったことだろう。現在も立派な寺であるが、バラモン僧正の墓は、中村が尋ねたときはだいぶ寂れて寂しいものだった(1986年頃だろうか)p82。
霊山寺は今も日本の地域の寺院として立派に機能し、四季折々さまざまな行事を行なっている。だが菩提僊那ゆかりの品は何ひとつ残っていない。「菩提僊那は空に帰しているのである」p83。かれの魂は故郷の山に帰っていったのか、それとも日本の人々を温かく、時に厳しく見守っているのか。あるいはとっくにどこかに転生しているか、あるいはすでに解脱して宇宙に溶けていったのか。
論理への肉薄
日本人は論理思考が苦手という物言いがある。和歌などに見られる叙情性が得意なのだ、と。しかし中村はそんなことはないはすだ、という。なぜなら奈良時代の我が国の因明学者たちは、西洋ではカント哲学によってやっと取り上げられることとなった二律背反の問題を、「相違決定」という名で論じているからだ、とp85-p86。
西洋の論理学はギリシャに発したものだが、因明学は仏教の論理学のことで「インドに発した仏教の論理学がシナを経て奈良に伝えられ、その伝統は今日にまで生きている」p84。「チベットでは因明の研究は近年まで行われてきた」p84「かつてインドで会ったヴェトナムの高僧が、日本からこの書を送ってもらいたいと言って『因明瑞源記』と漢字で書かれたのに驚いたことがある」p85。
専門家でないので、本当に直感的な印象と独断のざっくりとしたことしか言えないのだが、西洋の論理学は、AならばB と BならばC が両方成り立つならば AならばCである と細かいところから積み上げていくのに対して、東洋の論理学は、いきなり「世界はどんなところか」という議論「世界の時空間は有限である」という命題と「世界の時空間は無限である」という命題が同時に成り立つかどうかを扱ってゆく(これはカントによってたてられた有名な二律背反のひとつである)p85。どうやら、専門とする人にとってはこうした議論は量子力学などにも繋がっていくようなのだが、私には正直なところさっぱり、だ。
だが、この伝統があったからこそ、幕末・明治で西洋論理学が入ってきたときに、「これは因明だ!」と気づいた人がいて、「裁判などもその方法で行われている」と喝破したのだという。
著者 中村はこの高度な因明の議論を、やっと万葉集や古事記を編纂し始めた奈良時代の学僧たちが行なっていたことに注目している。暗に「もっと自信を持っても良いのでは」とささやいてくれているように感じられるのは、私だけだろうか。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
中村元東方研究所 https://www.toho.or.jp/
ちょっと昔の因明の現在。
現在の因明の着地点。
因明より理解可能…かな?