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湊かなえ『母性』感想:母親が愛されるための道具としての娘

2022年11月23日(水・祝)に主演:戸田恵梨香・永野芽郁で公開される映画『母性』。
新しいブログにて編集・加筆バーションを公開しているので、ぜひ見てください。

数年前に手にしていたものの、つい最近まで読めずに放置していた湊かなえの『母性』。
先日やっと手に取り読み終えたので感想を。

※ネタバレあり。

「愛能う限り」の怖さ

いちばん印象に残った「愛能う限り」。

「命ある限り」とか「私が私である限り」とか、そうしたニュアンスなんだろうと、最初に出てきた時に読めないながら文字の羅列を目でなぞった。

きっと多くの人が、日常生活で出会うことのない言葉だろうと思う。

子どもへの、恋人への、何に対してでもいいけれど、愛を語るなら使い古された表現を避けたい気持ちがあるのはわかる。

けど、これはまた別の熱さというか、執着を感じて気持ち悪い。

母親の表情はわからない。
泣き出しそうな張り詰めた表情なのか、顔を伏せているのか。

ただ、どんな表情を貼り付けていても、そんな言葉を出せる自分に恍惚としている様子が文字に滲んでいる。

「愛能う限り」を理想的だとか、美しいとか、そう見る人もいるかもしれない。
字面の怖さだけでなく意味を考えてもやっぱり、私はこの五文字の並びが嫌。

条件付きの愛情

この母親のいう愛能うの「能」は、才能、可能、機能といった言葉にあてられる。

「能う(あたう)」で「できる」、可能を意味する。

語源としては打ち消しを伴う否定の表現だったものを、明治以降に肯定の意味で用いられるようになったらしい。

参考:goo辞典 能う(あたう) の意味

「可能」の他にも「理にかなう、納得のいく」や「値する、相当する」という意味がある。

言語学は好きだけれど専門的に学んでいるわけではないので、どの意味が正しいのかはわからない。

可能:「(私が)愛を与えられる限り」
納得のいく:「愛が与えられるべき存在と私があなたを認識している限り」
適する、相当する:「(あなたが)愛を受けるに値する限り」

どの意味でも、「愛能う限り」の愛は限定的。
「限り」がついているからそもそもそうなんだけれど。

親が子に注ぐことを期待される、健やかな人格形成に欠かせないとされる「無条件の愛」は、「愛能う限り」の五文字にはない。

作中で母親は、自分は無条件に愛や賞賛を受けるべき存在であると認識しているのにも関わらず、与える側になると使える愛はとても限定的。

まるで愛を注ぐと自分が枯渇してしまうのかのように。
その通り、愛を注いでくれる自分にとっての母親が亡くなると、子との関係の歪さに拍車がかかる。

人生の価値に他の人間を組み込むこと

少し脱線。

「子どもを産まないと、老後面倒見てくれる人いないよ。」
「一人になりたくないなら、旦那はいなくても子どもをもてばいい。」
「子どもがいると、人生充実するので持たないと損!」

などなど、この世界には子どもを持つことのメリットを高々と掲げ、掲げるだけでなくその旗で持たない人の足をぶったり、横顔を叩いたりする。

子どもは物体でない。
思考し、行動する一人の人間。

自分と違う人間なので、反発することだってある。
意に沿わない言葉を発したり対立することもある。

なのに、自分の人生の保険として。
または、充足感を得るための趣味として。
あるいは、喪失感を補うための癒しとして。

子を望む人たち、望まない人でもその考えが頭を過ぎる瞬間がある。

ただ、それって自分の人生をコントロールするために他者を組み込むということで。
成人二人が互いの了承を得て、一枚の紙に誓いを記入するのとは訳が違う。

結果として、子どもがいて良い人生だった、というのと、自分の人生と他者の人生をぐっちゃり混ぜるのは違う。

「親子だから」という言葉は子どもが自分を満たしたり、補う道具となることを了承した合言葉ではない。

子どもは自分が愛を注いでもらうための存在

『母性』では祖母の意に沿うようにと、娘は母の望むように振舞うことを要求される。

母親が考える祖母を喜ばせるための行動は、祖母が孫にこうして欲しいと伝えたのでなく、母親が先回りして勝手に予想したもの。

祖母を喜ばせる以外にも、母が愛されるような行動が求められる。

義母(祖母)を刺激しないとか、かわいそうな姑(叔母)に優しくするとか。
そうした母親の意に沿う行動をしている時には優しい。

けど、娘が母親のことを思っての行動は、母親の意に介さないものであれば拒絶される。
なぜあなたは私の考えるように動けないの。
なぜあなたは私が愛されるように行動しないの、と。

娘から向けられる愛情には価値がない。
何故ならこの母親にとって、娘は自分が愛されるための道具に過ぎなかったから。

まさに「愛能う限り」。
自分が愛されるための行動をするなら、あなたを愛すよということだった。

道具に好かれても、満たされることはない。
道具ならば、自分にとって使いやすくて当然。
壊れたハサミは新しいハサミへと買い換えられる。

だから娘ならまた産めばいい、と言い放てた。

この言葉がすべてだと思う。
崖の上に立たされたから、口をついて出た深層。

ラストをハッピーエンドと捉える人もいたけれど、私にとってはそうでない。まったく。

娘が向ける愛情が持続する限り、この母娘の関係は続く。
選択の余地がない分、親よりもよっぽど、無条件の愛らしきものを注げるのは子ども。


愛して欲しい、という見返りを求める気持ちもあるけれど、道具としてみる例はきっと少ないだろうから。



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松岡ふぶき
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