ダロウェイ夫人(1925年)
これはおもしろかった。
いわゆる「意識の流れ」という手法を用いた小説。
登場人物が考えていることが、川の流れのように描写されていく。ある人物から別の人物へ、さらにまた別の人物へ。無関係な人物についても描写されているように感じるときもあるが、実は関係がある。
ストーリーの枠組みはシンプルだ。
朝、主人公のダロウェイ夫人ことクラリッサが、家を出てパーティ用の花を買いにいくところから物語がはじまる。彼女は自分の存在に価値を見出せていない。町に出て花を買い、家に戻る。一見クラリッサとは関係がなさそうな、セプティマスの精神病とその自殺が描かれる。やがて午後になるとクラリッサのパーティが開かれて、さまざまな人々が訪れる。その中にはクラリッサの昔の恋人ピーターもいる。パーティに訪れた医師がセプティマスの自殺の話をする。最初は自分のパーティに死を持ち込んだ、と不快に思うクラリッサだが、やがて、セプティマスの死によって、自分の生を実感する。最後にピーターはクラリッサを見て心を揺り動かされる。
こうしてみると、本作は物語の基本構造をきちんとおさえていることがわかる。
クラリッサが家を出て、町にいき、家に戻ってくる。これが行きて帰りし物語の構造になっている。彼女はこの冒険を経てなにを得るのか。それは自分の価値、生きる意味だ。
こうして自分なりに読み解いてみると、意識の流れという手法を用いて、さまざまな人々の思考を流動的に描いているだけに見える本作が、非常に緻密な構成になっていることがわかる。
おそらく当時、「意識の流れ」という手法は最先端の表現方法だったのだろう。この小説は当時の最先端をいく手法を用いて書かれた、野心的な作品だったのかもしれない。それでもやはり神話的な物語の構成からは離れられないというところが興味深いところだ。