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金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店)

 その言葉遣いによってどんな「役割」を持った人物かということが浮きあがるものを著者は「役割語」と命名する。そしてそれは実際には使われていない、想定の中での言語であるため、「ヴァーチャル日本語」であると位置づけている。実際には存在しなくても、ステレオタイプ的に日本語話者の言語感覚の中に刷り込まれており、世代を超えてそのイメージが強化されていく。現代語の中にあるそうした役割語のルーツを、遡って江戸時代の文献に求めるなど、面白いだけではなく、その根拠の確かさにも驚かされる論だ。日本語の人称表現の豊富さ、文末の多用さにも気づかされる。詩歌の文体の考察にも応用できると思った。
 本書は、
 一 博士は〈博士語〉をしゃべるか 
 二 ステレオタイプと役割語 
 三 〈標準語〉と非〈標準語〉 
 四 ルーツは〈武家ことば〉-男のことば 
 五 お嬢様はどこにいる -女のことば 
 六 異人たちへのまなざし  の六章からなっている。

以下は興味を持った部分への個人的忘備録である。

前書 役割語の世界への招待状
〈ヴァーチャル・リアリティは「にせ物の現実」というニュアンスが強いですが、重要なのは、我々にとって「ほんとの現実」(リアリティ)と「にせ物の現実」(ヴァーチャル・リアリティ)は本質的に区別できない、という点です。ヴァーチャル日本語もいっしょです。言われてみれば嘘だとわかるのに、いかにもそれらしく感じてしまう役割語。いったい、日本語にとって、言語にとって、「現実」とは何なのでしょう。〉
 本書ではあまり他言語との比較が言及されていないが、例えば英語は役割語の特性が弱い言語だといえるだろう。例えば、”Hi, I'm Chris.” と書かれていれば、発話者の性別も年齢も分からない。しかしヴァーチャル日本語である役割語では、それがはっきり分かるように話される。役割語を考えることは日本語を考えることでもある。

一 博士は〈博士語〉をしゃべるか
〈この老人は、江戸の人間であるはずなのに、西日本型の文法形式を多く用いて話している。なぜ、江戸の老人は西日本型の言葉をしゃべるのだろうか。〉
 現代のマンガなどに登場する博士語のルーツは江戸時代の戯作の老人の話し方がルーツだとする。そしてそれがなぜ西日本型の話し方なのか。
〈近世後期には歌舞伎において〈老人語〉の表現類型が既に定着していたらしい(…)ここでいう上方風というのは、西日本型の文法で話すということで、断定の「じゃ」、打ち消しの「ぬ・ん」、ア・ワ行五段動詞連用形のウ音便(「こうた」「しもうた」等)、形容詞連用形のウ音便(「ようわかる」「あこうなった」等)を用いるこという。逆に東国風とは、断定の「だ」、打ち消しの「ない」、ア・ワ行五段動詞連用形の促音便(「かった」「しまった」等)、形容詞連用形の非音便(「よくわかる」「赤くなった」等)を用いることをいう。〉
 これは江戸時代だけでなく、今でもそうだ。西日本型の文法で話している当人としてよく分かる。
〈若年・壮年層の人物が、いち早く江戸の新共通語である東国的表現を自分たちの言葉として駆使していた時点で、老年層は未だ上方語的表現を、規範的な言葉として手放さなかったというような構図が、江戸においてある程度現実に存在したのであろう。〉〈文芸作品、演劇作品の中では、伝統的に「老人」=上方風の話し方という構図がそのまま受け継がれていくのである。〉
 世故に長けた老人の「老人語」が博学な博士の「博士語」として受け継がれていく。

二 ステレオタイプと役割語
〈「小説の中の会話は、小説用に再構成された虚構のことばである。私などは、なるべくそういう型としてのことばではなく、リアルなことばを書きたいと思っているのだが、それでも完全にそう書けるわけではない。」清水義範『日本語必笑講座』〉小説だけでなく、短歌にも当てはまる。
〈ここまで見てきたとき、役割語とは、言語上のステレオタイプに他ならないことがわかる。〉
〈この、物語の構造という点について述べた、興味深い著作がある。クリストファー・ヴォーグラーのThe Writer's Journey(作者の旅)である。ヴォーグラーはハリウッドで映画シナリオの分析・評価をしている人物であるが、神話学者ジョゼフ・キャンベルのThe Hero with a Thousand Faces(千の顔をもつヒーロー)という著作に感銘を受け、その内容が、映画や劇のシナリオを書くために大変役立つことに気づいた。そして、この研究書のエッセンスを下敷きにして、シナリオ・ライターのためのガイドブックを書いたのである。ヴォーグラーによれば、キャンベルは、世界各国の神話に共通する構造があることを指摘し、それを「ヒーローの旅(hero's journey)」と名付けた。「ヒーローの旅」は、ヒーローが出会う一定の役割(祖形:archetype)を担った人物と、それらの人物との出会いを含めた出来事・事件の時間的配置としてのモデルからなる。〉
 日本の子供向けのアニメでもこの型は多用されている。ポケモンなどもそうだ。
〈ヴォーグラーは、この構造を分解し、重ね合わせ、繰り返し、ふくらませ、近代的な人物描写を付け加えること等によって、近代人の鑑賞に堪えうるストーリーを作り出せるとした。〉
 逆にこの構造に乗っかっていればある程度の成功は得られる。時には大ヒットも。この構造に沿って造形される脇役登場人物には役割語が当てられる。そしてヒーローには〈標準語〉という役割語が当てられる、と著者は次節で説く。

三 〈標準語〉と非〈標準語〉
〈本書では、〈標準語〉の範囲をかなり広く考えている。〈標準語〉は次のように細分される。
1 書きことば(a)常体(ダ・デアル体)(b)敬体(デス・マス体)
2 話しことば(a)公的な話しことば(b)私的な話しことばⅰ女性語ⅱ男性語〉
〈「書きことば」は役割語の定義に合わない。しかしあえて書きことばまでを役割語として考えるのは、書きことば(とくに常体(ダ・デアル体)のもの)が「誰もしゃべらない言葉」すなわち「誰も想定することができない」言葉だからである。逆にいうと、〈標準語〉の書きことばから少し語彙や語法を変えたり、終助詞やイントネーションを加えたりすると、たちまち特定の人物像が現れてくる。そういう意味で、〈標準語〉の書きことばは、役割語の原点、基準点のような性質を持っているのであり、だからこそこれを役割語の中に含めておく必要があるのである。〉
 無色透明な〈標準語〉はある意味誰のことばでもない。ゆえに基準点となる。つまり「役割語」ならずとも、誰の言葉にも必ず何らかの付加要素があるということだ。
〈典型的な〈ヒーロー〉の言葉は、役割語度1+αというところであろう。+αの部分が、個々の〈ヒーロー〉の個性ということになる。なお、役割語度0の〈標準語〉の書きことばは、誰の言葉でもない代わりに、誰の心をも自由に描くことができる、いわば〈内面語〉としてふさわしい。〉
 だから標準語には誰でも感情移入しやすいのか。
〈どんな言葉だったら自己同一化を行いやすいか、〈ヒーロー〉の言葉としてどのような言葉がふさわしいか、ということを模索し、実験を重ねたのが明治時代の文芸改良運動(「言文一致運動」もその一部に含まれる)であったのだ。言文一致完成と前後して学校教育や新聞・雑誌などのマスメディアを通じ、国民に対する訓練が始まった。つまり〈標準語〉を話す人物に自己同一化せよ、という訓練である。〉
 それは意識的なものだったのだろうか。かなりの精度で成功していることは言える。
〈なお、江戸語や上方語による作品は、庶民の娯楽のためのものである。武士層を中心とする当時の知識人は、古文や漢文(およびその読み下し文)で書かれた文章をもっぱら読み書きしていた。江戸語や上方語で書かれた戯作でさえ、地の文は古文や漢文の読み下し文で書かれていた。また、当時の手紙は「候文」という、漢文と話しことばの中間のような文体で書かれていた。結局、日本全体として見ると中心的な文体というのは、漢文の読み下しや候文のような文語であったといえる。〉
 ここは詩歌の文語口語を考える上でも大切な論考だ。
〈明治時代に入って、日本は近代国家として再出発をすることになった。それは、政治、経済、軍事、文化等、国家としてのあらゆる側面において近代化を進めることを意味した。これらのすべての問題に深く関わっていたのが言語の問題であった。言語の近代化に関わる問題群を、「国語問題」と称する。〉
 言文一致はその一つに過ぎない。

四 ルーツは〈武家ことば〉ー男のことば
〈「いやだわ」「よくってよ」「すてきだこと」等の表現は、現在典型的な女性語として認識されているが、とりわけ「~てよ」「~こと」などは上流階級の女性が使用するという印象が強い。つまり〈お嬢様ことば〉である。しかし明治三〇年くらいまでは、これらの言葉づかいは識者から下品で乱暴な言葉づかいとして排斥されていた。〉
 飛田良文の論と一致する。こうしたお嬢様ことばは、今では現実に存在しない「役割語」となっているというのがこの作者の論だ。(次章参照)
〈たとえば、明治時代の知識人の講演や文章(言文一致体で書かれたもの)を調べてみると、存在動詞・進行・状態等の「おる・~ておる」や打ち消しの「~ん」等、案外西日本型の特徴が多く見いだせる。(…)学問用語としての、漢文訓読文の影響も考えられる。〉
 存在動詞は曲者だ。先日読んだ本には存在という言葉が明治時代の翻訳語だと紹介されていた。存在という観念が明治以前の日本ではどう表現されていたのか。
〈小松(寿雄)氏によれば、「僕」はもともと、儒者たちの用いる、強い謙譲の意識をもって使用された自称詞であった。〉
 吉田松陰が盛んに使っていたように記憶する。
〈文部省の「礼法要項」(一九四一(昭和一六)年)は、自称について、次のように規定している。
 ・自称は、通常「私」を用ひる。長上に対しては氏または名を用ひることがある。男子は同輩に対しては「僕」を用ひてもよいが、長上に対しては用ひてはならない。〉
 そんなものにまで規定があったとは。そして「少年語」において「僕」を次第に「おれ」が凌駕していく過程を「巨人の星」や「あしたのジョー」を引きながら説明している。

五 お嬢様はどこにいる ―女のことば
〈非難されていた「てよだわ」
 このような表現が現れはじめた明治二〇年頃から明治四〇年代まで、文学者、教育者、マスメディアなど指導的な立場にあった人々の言説では、一貫して、品格のない、耳障りで乱暴な表現として、排斥されていた。〉
 前掲の通り。
〈この仮説が正しければ、役割語としての〈男性語〉〈女性語〉は、すぐに忘れ去られることはないであろう。社会に〈男性語〉〈女性語〉の知識が共有されている以上、作家たちはその知識に安易に寄りかかりがちになる。その結果、さらに人々の役割語の知識が強化され、子供たちへの新たな刷り込みが重ねられていくからである。 
 また、個々の話し手も、仮面(ペルソナ)の一部として〈男性語〉〈女性語〉を用いることがある。(…)
 こうして、私たちの役割語の知識は、現実のありさま以上に、私たちに言葉の男女差を増幅させて見せているといえる。〉
 役割語の最も分かりやすく、しかも根深い部分だ。

六 異人たちへのまなざし
〈また、近年の子供向けアニメーションに多く見られるタイプとして、一定の語尾を発話の終わりに付加するものがある。たとえば、ゲームソフト「ファイナルファンタジーⅨ」(二〇〇〇(平成一二)年発売、スクウェアソフト)に登場するモーグリという妖精は、「何かご用クポ?」のように、「クポ」という語尾を文末に付ける。このような、特定のキャラクターに与えられた語尾を、「キャラ語尾」と呼ぼう。〉
 この考え方は使えるかもしれない。何なら文語の助動詞も現代の若者の「ス言葉」もキャラ語尾の一種という可能性もある。
〈異人たちを印象づける役割語は、言語の投影にしても、ピジンの適用にしても、〈標準語〉の話し手=読者の自己同一化の対象からの異化として機能し、容易に偏見と結びつけられてしまうことを確認した。
 役割語は、つねにわかりやすい。使い手の人物像を瞬間的に、受け手に伝えてしまう。(…)役割語なくして、日本語の作品は成り立たないといってもよい。その結果、新たな刷り込み、活性化が重ねられ、役割語は補強されていく。
 私たちの日本語の知識というものは、一面において、そのような役割語の集合としての、ヴァーチャル日本語なのであった。普段は、そのことに何の疑いも抱かないで暮らしている。そして、そのヴァーチャル日本語の中心に、〈標準語〉が位置している。ヴァーチャル日本語は、〈標準語〉とその偏差によって階層化された体系であるということができる。〉
 日本語の根幹に関わる問題を提示している論だと思った。

岩波書店 2003.1.    本体1700円+税


 
 
 

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