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竹中優子『輪をつくる』

 第一歌集。角川書店。第62回角川短歌賞受賞作「輪をつくる」収録。非常に微妙な、細かい心の動きを描いている。自らの感情を中心に据えて、人間の嫌な面を仮借無く描く。細かい心理の襞に分け入り、一切のきれいごとを排して詠う姿に清々しさを感じる。

才能がないと言い出すひとがいてこんな感じかなって顔で聞く

 友人の話に相槌を打つ作中主体。子供を産んだばかりの友人、小説はもう書いていないという友人の歌に続く一首。それらの友人が別々の人か同じ人かは分からない。才能が無いから、おそらく小説を書くのを止めた、そんな話を聞きながら、どんな顔をして聞けばいいのかと考える主体。そしておそらく「こんな感じかなって顔」に辿り着き聞いている。この表現が上手い。心の中ではおそらく反感が浮かんでいるのだろう。才能がある人なんてほとんどいない、止めても痛くも無い努力だから止められる。そんな気持ちではないか。

かわいそうなひとからわたしを慎重にしんちょうにただ引き剝がしてゆく

 前後の歌からこの「かわいそうなひと」は主体の母のようだ。自分で自分をかわいそうと位置付けた時から、人との関りは決まってしまう。誰もかわいそうなひとを慰め切ることはできない。常にかわいそうを抱えているひとに疲れ、他人は離れて行くのだ。しかし子であれば、無下にすることもできない。少しずつ距離を置いていく。感情を入れずに「ただ」引き剥がす。「慎重にしんちょうに」という漢字とひらがなの繰り返しに主体の痛みが宿る。

行くことと帰ること等価値でなく明るい話題をいくつか交わす

 同じ距離の移動でも、行くことと帰ることは等価値ではない。行った先で起こったことがその価値を決めてくる。母から離れることを「帰る」というようになった、と同じ連作にあるので、行く時は気が重く、帰る時は軽いのではないか。そんな自分をごまかすように、母と明るい話題をいくつか交わす。また、一首独立で読めば、母と限定しなくても、同じように行き帰りの気分の違う場面の歌と読む事ができる。

嘘だけはつかない子だと思っていたと言われればなぜ傷つくのだろう

 他はとにかく、という無言の前提に傷つくのだろう。他にダメなことは色々あるけど、他にとりえは無いけれど、「嘘だけはつかない子」だと思われていたのだ。そんなに他からの評価が低かったのか、と傷つく主体。しかもこの時どうやら嘘をついてしまったようだ。さらに自分の評価が低まった。そんな場面を苦い回想と共に描き出す。

下の句を取り替えるように許されて許されたはず紫陽花が咲く

 苦労して作ったはずの歌の下の句。でも取り替えようと思ったら取り替えられる。気持ちさえ切り替えれば。そうやって下の句を取り替えるように自分は許された。しかし、本当に許されたのか、と紫陽花を見ながら考える。許されたはずだ、けれど自信が無い。色が変わる紫陽花が一首によく合っている。

上手く行かないことをわずかに望みつつ後任に告ぐ引継ぎ事項

 とても嫌な心の動き。丁寧に後任に引継ぎ事項を告げている。しかし、その人がやるより自分がやっていた方が上手く行っていた、周りにそう言われたい、思われたい、そんなかすかな望みが兆す。主体はそれを仮借無く捉えて描く。自己美化などしない。自分の気持ちの醜さは「わずか」であっても見逃さず歌にする。それが心理詠の究極のリアリズムだと感じた。

嫌いな女は結局わたしに似ていたり 高架下駐輪場を抜ける

 自分にとって好きな人、嫌いな人がいる。みんなそんなもの無いかのように澄まして生きているが、言わないだけで誰にでもあるはずだ。作中主体ははっきり「嫌いな女」と言い切る。しかもその女は自分に似ているという発見も添えている。似ているから腹が立つ、嫌いになるのだろう。友人や同僚の話かも知れないし、母かも知れない。高架下駐輪場といういかにも冴えない場所とそこを「抜ける」という動作が上句の述懐に合う。

鈴虫を頭蓋に飼えばねむたくて人を許すという人が怖い

 鈴虫を飼っていれば、ずっと鳴き続けるその声が頭蓋の中から聞こえるように感じられるのだ。そしてその声に耳を澄ませていると眠くなってくる。その眠みの中で考えている内容が下句だ。人を許すなどということが出来るのか。人を上から見て許す、と言っているのか。そんなことを言う人が怖い。主体は自分なら、人を許すことは無いだろうし、またそれを第三者に言うことも無いだろうと考える。下句の気持ちがよく分かる歌だ。

自分より少し不幸でいてほしい人に短いメールを送る

 これも自分の嫌な面、醜い面を描き切った歌。人と自分を比較して幸不幸を考えるのは不毛なことだ。誰でもそれは頭では理解していることだろう。しかし現実の心の動きとしては、自分より少し不幸な人の存在は、自分の心の安定剤のような役割を果たす。私より少し不幸でいてほしい、それもずっと。そんな気持ちが伝わらないようにメールは短く済ませておくのだ。

死んでいくからテレビはつけていてほしい真っ白な父を正面に向ける

 死期の近づいた父。入院中のベッドでずっとテレビを見ている。周りにはテレビ好きだと思われているが、実は目が見えないし、耳も片方聞こえない。入院中の父について兄と金の算段をする歌も一連にある。父母は離婚してしばらく父とは音信が無かったようだ。見えないしあまり聞こえないテレビに向けて、麻酔ですこし意識が混濁している父の身体を動かす。「真っ白な父」という修辞に驚いた。命の重さを、人生の長さを失って真っ白になった父。テレビを見ながら死んでいってほしいと父の身体をテレビの正面に向ける。読者に強く重い衝撃を与える一首。

角川書店 2021.10. 2200円(税別)

*竹中優子『輪をつくる』を読んで何首かの土屋文明の歌を思い浮かべた。下に挙げておく。

ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交(まじはり)絶(た)てり                       土屋文明『往還集』(1930)/吾がもてる貧しきものの卑(いや)しさを是(こ)の人に見て堪へがたかりき/死(し)病(びやう)ならば金をかくるも勿体(もつたい)なしと父の云ふことも道理(もつとも)と思ふ/病む父がさしのべし手はよごれたり鍍金(めつき)指輪(ゆびわ)ぞ吾が目にはつく

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