東畑開人 著:「ふつうの相談」レビュー
大学院で、ある特定の流派の「心理療法」を自分のオリエンテーションとして学んだだけでは、「現場臨床」では通用しない。
これは、すでに私がかつて「精神分析の歩き方」をレビューさせていただいた、山崎孝明氏も強調していたことである。
東畑開人氏の「ふつうの相談」は、このテーマについて、新鮮で包括的な視座を与えてくれる名著であるというのが、本書を2回通読した私の結論である。
この本の、まずは凄いところは、特定の流派の「心理療法」の現場での適用に対するアンチテーゼとして、誰もが日常、お互いを支えあうために取り交わしている「ふつうの相談」や「ふつうのアドバイス」を、むしろ中心軸としてとらえるという、「コペルニクス的転回」の仮説を提起したところにある。
著者がとり上げている例のひとつを示そう:
私なりの想像だが、rigidな「精神分析系」のカウンセラーだったら、
「こんなの、彼女が葛藤から『行動化』に移して逃れるのをサポートしているようなものだ」
とか、
「抑うつからの『躁的防衛』を肯定している」
とか言い出すかもしれない(^^;)
だが、日常的な悩みの解消法としては、誰もがやっていることである。
そして、日常の中で、相談を受けた場合も、このようにアドバイスするのは、典型中の典型、まさに「ふつうの相談」であろう。
これで、特に何も問題ないことが多いわけだ。
ただ、私が思ったのは、東畑氏のここでの女性への「アドバイス」は、実は女性の心情を十分に「慮(おもんば)かった」上での発言であるということだ。
例えば、親にひどいことを言われ、時には手をあげられ、あざや傷まで身体に残しているのを繰り返している十代の友人に対して、
「それって、『ふつう』じゃないよ。はっきり言って、『虐待』じゃない?児童相談所や警察に相談した方がいいんじゃない?」
とアドバイスした場合には、いい意味での「普通」の感覚=村瀬嘉代子のいう「常識」=カントの言う「世間知」が発動していることになる。
ところが、たとえば、うつ状態で引きこもりの友人に対して、
「少しは外に出て運動したら?
もう少し頑張れるのが『ふつう』だと思うけど」
とアドバイスしたとすれば、無神経で、傷つける応対以外の何物でもないのは明らかである。
「ふつう」であることには、そういう「光」と「影」があることを、東畑氏は、もう少し公平に論じてもいいのではないか?
もっとも、東畑氏はこうしたことに決して無自覚なわけではない。
この本の別の個所で、「ふつう」ということが、そのコミュニティや社会におけるマジョリティーな価値観への「順応」への圧力となる場合があることを、はっきり指摘している(p.104)。
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さて、援助的専門家における「ふつうの相談」とは、各人のおかれた状況(文脈)によって、異なったものになることを、東畑氏は、次に指摘する。
東畑氏の場合は、開業心理オフィスという「個室」において、料金を直接クライエントさんからもらう、という状況にある。
実は、心理職の中で、自分の主なる業務形態として、こうした独立開業の形をとれていることは、日本では少数派である。
更に、東畑氏が教育を受けて来た、拠って立つ「心理療法」(カードA)は、精神分析的なものである。
それに対する「カードB」が「ふつうの相談」である。
多くのカウンセラーは、3枚以上のカードを持つことまでは無理だろう、これでいいのだというのが東畑氏の慰め(?)である。
つまり、精神分析を身につけていて、認知行動療法もできて、EMDRも状況に応じて使い分けられる、というところまで、マルチプレーヤーである必要は必ずしもないのではという意味のことを述べている。
こういう意味では、東畑氏の見地は、むしろ安易な「折衷主義」とは一線を画している点には注意が必要である。
東畑氏が強調しているのは、必要があれば、ベースラインとしての「カードB」としての「ふつうの相談」に立ち返れるということなのだ。
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さて、東畑氏は、次に、そうした「ふつうの相談」で用いられる技法にいて列挙して、わかりやすく説明して行く(pp.50-61)。
列挙すれば、
1.聞く
2.質問する
3.評価する
4.説明する
5.アドバイス
6.環境調整
7.雑談・社交・世間話
それぞれの内実については、本書自体をお読みいただければと思う。
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東畑氏のいう「ふつうの相談」とは、内的な探求というよりも、現実的な問題の解決をめざすことを指向する性格を持つ。
東畑氏が「ふつうの相談」の機能として列挙したのは次の通り:
1.外的ケアの整備
2.問題の知的整理
3.情緒的サポートの獲得
4.時間の処方と物語の生成
それぞれの内実については、本書自体をお読みいただければと思う。
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東畑氏の考察は、ここから文化人類学的見地からの、メタな比較心理療法比較論へと飛翔する。
ますは、レヴィ・ストロースにおける、シャーマニズムと精神分析の比較。
精神分析は「個人的な神話」を患者自らが創出する。
これに対して、シャーマニズムでは「社会的な神話」を外から与えられる。
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次に、進化人類学者、クラインマンのヘルス・ケア・システム論に進む。
クラインマンは、あらゆる社会に、人々は心身の不調に対応し、健康を追求するための仕組み(システム)が備わっているとし、それは以下の3つのセクターから構成されているとした:
1.社会的に公認された専門家たち(医者など)による専門職セクター
2.占い師や拝み屋のようなオルタナティヴな専門家たちによる、民族セクター
3.知り合いや隣人、親類、さらに素人の権威者に助言を求める民間セクター
後者ほど、広範囲をカバーしている、日常的に機能している「ふつうの相談」に近づく。
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さて、次に、東畑氏は、クラインマンに従い治療における「説明モデル」の話題に進む。
「説明モデル」とは「臨床に関わっている人すべてが抱いている病気エピソードとその治療についての考え」であると定義されている。
呪術師であれば「おまえに取り憑いている『霊』」の仕業であり、それをお祓いや、シャーマン自身が憑依されることで解消するわけである。
これに対して、
心理療法家:心理すること
精神科医:生物学すること
ソーシャルワーカー:社会すること
古代ストア派:哲学すること
となる。
こうした説明を、ユーザーが納得し、共有できるかどうかが、その後の治療的共同作業の行方を決定づけるわけである。
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さて、東畑氏は、今度は #中井久夫 氏の「治療文化論」における、
「普遍症候群」・・・近代西欧における診断分類にあてはまる。
「文化症候群」・・・地域性を持つ。「キツネ憑き」など。
「個人症候群」・・・「創造の病」など。
という3次元の分類の話題に振る。
後者ほど、周囲の人の「熟知性」・・・その人が、どういう人で、どういう状態におかれてきたか、などの個人情報的なものを含む・・・によって支えられている。
「個人症候群」としてとえるだけでは苦痛が過ぎる状態になった時、はじめて人は、精神科医やカウンセラーの門を叩き、周囲もそういう専門家のもとを訪ねることを勧めるわけである。
地域コミュニティ(そして、宗教的コミュニティ)がなくなった今、特に都市部において人々は孤立しており、周囲の人への「ふつうの相談」をリソースとして活用できない。
援助的専門家に依存せねばならいわけだが、ところが専門家の方は、「ふつうの相談」という「カードB」をうまく使いこなせず、硬直した「専門バカ」として、「カードA」の使用にのみこだわることは、ありがちかと思う。
(以上、東畑氏の主張と思われる内容を、私なりにかみ砕いてみた)
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実は、「ふつうの相談」という本には、まだ若干続きがある。
しかし、その部分のかなりの内容を、私はこれまでの部分で、実質的に述べてしまっていると思う。
そこで、とりあえずこのあたりで、私の今回のレビューの筆を置きたい。
重要な追加事項があると考えた時点で、適時付け加えていきたい。
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【追加】:
#臨床心理士 は #公認心理師 よりエラいと思いがちだが、前者は未だに心理療法中心の専門教育を受けていて、現場の職域別の教育に視点を置いた訓練に弱みがある。 後者は職域別の現場教育に軸足がある点に強みがあることを東畑さんは指摘している。
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