見出し画像

「日野富子」は悪女か救世主か。

北条政子、淀君と並んで三大悪女と言われている日野富子
彼女は本当に悪女だったのでしょうか?

正直、私は彼女の生きた時代はまだまだ勉強不足で、本当のところの理解には及んでいないのかもしれません。

特に「応仁の乱」の理由も、実に様々な要素が絡まっていて、文献を見直すたびに、新たな疑問が湧いてしまい、なかなか細かく事情をくみ取る事が出来ないでいるのです。

今後、私の解釈が変わる可能性もありますが、ここでいったん現時点での私なりの解釈をまとめてみます。

そうじゃないと、ホントにややこしくなる💦


画像出典:刀剣ワールド



結婚当初から波乱万丈

生まれは名門貴族

彼女が「日野」という名字を名乗っていたわけでありません。
室町幕府・足利将軍家と縁戚関係の「日野家」の出身で、正式名は藤原朝臣冨子ふじわらのあそんとみこと言いました。

日野家は貴族の名家で、特に鎌倉時代以降は朝廷との関りも深く、室町時代の3代・足利義満以降、将軍の正妻は日野家から迎えていたほどです。

そんな由緒ある名門で育った富子も慣例に従って、16歳の1455年、20歳の8代・足利義政の正室として輿入れしたのです。


すでにライバルだらけ

彼女が輿入れした時点で夫の義政には複数人の側室とすでに2人の子供がいて、その後にも1人誕生しています。

富子は早々から、ライバルに囲まれて大きなプレッシャーにさらされます。おまけに4年後にやっと授かった第1子も死産となり、苦難のスタートとなります。



悪女と言われる理由

日野富子が悪女として後世に伝わる主な原因は3つあります。

1,夫の乳母と側室達を追放

夫の義政には今参局いままいりのつぼねという乳母がいて、他の時代と同じく、将軍の乳母ともなれば立場は非常に強く、政治の実権まで握っていました。

当残ながら富子とは対立関係にありました。
さらに、姑である義政の母・重子は同じ日野家出身の大叔母に当たり、彼女もまた今参局いままいりのつぼねを疎ましく思っていました。

そんな状況の中、富子の第1子の死産は、この今参局いままいりのつぼねの呪詛によるのだという噂が立ち、富子と重子が2人タッグを組んで、義政に詰め寄り、今参局いままいりのつぼねを琵琶湖の沖島へと追放させるのです。

義政にとっては最愛の乳母であったはずで、ここは義政の優柔不断さと気弱さが情けない💦

そんな義政の性格を熟知している重子と富子は、義政の気が変わる事を想定して、今参局いままいりのつぼねへ刺客を差し向けます。

ところが今参局いままいりのつぼねはまだ一枚上手で、刺客が来ることに感づいて、自ら切腹して命を絶つのです。

この当時女性が切腹した前例はなく、彼女は日本史上初の切腹した女性だと言われています。

おそらく呪詛の噂は、重子と富子のでっち上げか??

さらに富子は自分が世継を生むために、その他の4人の側室たちも追放しています。


2,「応仁の乱」の原因を作った

1467年~1477年にかけて11年間も続いた「応仁の乱」の原因にも彼女にあると言われています。
この長い大きな戦いは、本当に彼女だけに責任を問われるものだったのでしょうか?

その大まかな諸悪の根源を整理してみます。


[理由1] 8代将軍・義政の後継者争い

富子はその後も2度出産するものの女子しか生まれず、とうとう1464年に、出家していた義政の弟を還俗させて義視よしみと名乗らせて後継者とします。

ところが、
皮肉なことにその翌年の1465年に富子は待望の男子・義尚よしひさを出産するのです。

義視よしみを後継者としたのは義政の独断だった?
安易に決めてしまったのかもしれない。

富子は当然ながら、我が子・義尚よしひさを将軍にしようと地固めをはじめ、後見役の山名宗全やまなそうぜんや日野家の権威を利用して働きかけます。

そこに先に後継者として準備していた義視よしみの後見役・細川勝元かつもとと山名宗全との守護大名同士の対立関係となるのです。

元はといえば、富子が強引に我が子を時期将軍に据えようとしたのがキッカケだと言われているのです。


[理由2] 畠山氏の家督争い

守護大名である畠山義就よしなりとその従兄弟の畠山政長との家督争いも原因のひとつ。

義就よしなりには山名宗全、
政長には細川勝元、
それぞれに有力大名が味方したことで、単なる身内同士の小競り合いに収まらず争いは大きくなります。


[理由3] 斯波氏の家督争い

畠山氏と同格の有力大名であった斯波氏でも、家督争いが起こります。
斯波義健しばよしたけの養子・義敏よしとしが重臣と揉めて、ついに家督を取り上げられてしまいます。

また、義政の仲裁により新しく斯波氏の養子となった義廉よしかどへ尾張・越前・遠江の守護に任命しますが、その後も義敏との間で家督争いが勃発します。


ついに1467年5月、
細川方が東軍、
山名方が西軍として、
「応仁の乱」は火ぶたを切ったのです。

大雑把にいえば、室町幕府の将軍家と管領家の後継者争が複雑に絡み合ったことが発端で、富子だけが原因ではありません。



3,戦乱の最中、金儲けに夢中

戦乱は終わらない

先が見えない

夫の義政は早々に隠居してしまう

後を継いだ我が子義尚よしひさはまだ10歳


こんな状況で富子が実行した事は、「蓄財」でした。
・京都七口に関所を作って関銭を徴収
・米の投機
・高利貸し
・賄賂

その結果、現在の価格にして70億円もの資産を有していました。


見方を変えれば
「悪女」ではない

効果的なお金の使い方

戦乱で庶民たちが苦しんでいる中、一人勝ちのような富子の行動は人々から大きな反感を買います。

夫の義政による東山山荘(銀閣寺)の造営には一銭の援助もしていません。

しかしその一方、

御所が火災に遭った時の膨大な修復費用や、その他の朝廷への献金、戦乱で焼かれた神社・仏閣の修復など、その蓄財から気前よく出しています。

また、畠山義就よしなりに1000貫文を貸しつけて撤退を促し、「応仁の乱」を終結させてもいるのです。


さらに富子は当時の関白・一条兼良いちじょうかねよしから学問の手ほどきを受けています。
どんな身分にかかわらず、関白みずから女性に講義をするなど前例はなく、おそらくここにも莫大な献金をしているのではないか。

それだけ学問を重要視していた事が伺え、彼女がいかに努力をしていたかがわかります。



夫はお気楽、息子は道楽

夫の義政は優柔不断な上、将軍として踏ん張らなければならない時にサッサと隠居し、さらに応仁の乱で疲弊している時に東山山荘(銀閣寺)を造営するのに金を出せという。

そんな風流な事を言ってる場合か!

と、彼女が思うのも当然でしょう。


その後、幼い義尚よしひさの後ろ盾として、なんとか幕府の対面を保つも、その義尚よしひさも成長するにつれ、母をけむたがり幕臣の邸宅へ移転してしまいます。

その生活は日々酒色におぼれる惨憺たるものでした。
父親と同様に、まったく政治に関わることなく、25歳という若さでこの世を去ります。
(死因は過度の酒色による脳溢血?)


そしてその翌年には夫の義政もこの世を去ります。


夫と息子ができなかった後始末

跡継ぎを残さず逝ってしまった我が子・義尚よしひさ
その後を継いだのは、かつて後継者の座を争った義視よしみの子・義稙よしたねで、10代将軍となります。

当然ですが、義視よしみ・義稙《よしたね》親子は富子を嫌って両者は敵対しますが、義稙《よしたね》が河内へ出征している隙に細川氏とともにクーデターを起こし、義政の甥・義澄を11代将軍に就けました。
(明応の政変)

このあたりはなかなか抜け目なく、しぶとい。

そして幕府の基盤を整えて安心したのか、富子はその3年後の1496年、57歳でこの世を去るのです。



不甲斐ない男たちの代わりに

何の役にも立たなかった夫と息子に代わり、幕府と将軍家の体面を保てたのはこの富子の功績のおかげなのです。

富子の死後、急速に守護大名が力を付け、幕府の力は衰える一方となりますが、御台所として富子がいなかったら、室町幕府はこの時に潰れていたかもしれません。

1573年、15代将軍・義昭が織田信長により京から追放されるまで、その後77年も続く事はなかったはずなのです。


回りの男たちは不甲斐なく、自分でなんとかするしかなかった富子。
何よりも「金」の威力を知っていた富子。
努力を怠らなかった富子。

日野富子は、立派に足利家の将軍代理としての役目を果たし、室町幕府にとっては「悪女」どころか、崇めても足りないほどの「救世主」だったのではないでしょうか。




【参考文献】
プレジデントオンライン
プロワイズウェブ日野富子
応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)
Wikipedia

※見出し画像はイラストACより素材をDLし、canbaで製作しました。


【関連記事】




いいなと思ったら応援しよう!

千世(ちせ)
サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。