見出し画像

おばちゃんズ③~最終日のお散歩

前回はこちら ↓ ↓

二日目は、みんな爆睡したせいか目覚めも良く、筋肉痛あるものの、かなり体力は回復していました。

翌日の仕事を考えて、この日は近隣を少し散歩するだけの予定です。


世界遺産・天龍寺

ゆっくりとした朝を過ごしても、10時前には出発できました。

前日に世界遺産の「天龍寺」でアジサイと蓮が見ごろとの情報を得ていたので、まずは天龍寺に立ち寄りました。

蓮を堪能するには朝なので、一番に寄る事にしたのです。

それは見事に咲いていました!

限られた季節の限られた時間にしか見られない光景に、おばちゃんたちはウットリと見とれてしまいました。

 
残念ながら、アジサイの方は見ごろは過ぎていて、葉や花の先がしおれているものもあります。

天龍寺は臨済宗天龍寺派大本山の禅寺で、見事な曹源池庭園そうげんちていえんを有し、初の史跡・特別名勝指定もされています。

京都を代表する名刹で、かつては現在の10倍に匹敵する敷地面積を所有していたそうです。

2020年8月撮影:レキジョークルで訪れた時のもの。

レキジョークルでも訪れていていますので、詳細は只今執筆中の「京都・神社仏閣編」にてご案内する予定です。



竹林の小径

天龍寺の北門を出たらすぐにある「竹林の小径」も通りました。

「ちょっとみんな、モデルになった気持ちで気取ってみて~!」
と声掛けして撮った写真がコチラです。
↓ ↓ ↓

みんなカックイイ~!
いくら気取ってはみても、おばちゃんはおばちゃんで、それ以上ではないのはわかっていますが、自己満足でもよい写真が撮れたと自負しております。


テレビで得た情報ですが、竹林はほったらかしでこのように真直ぐキレイに密集しないのだそうです。
クセの強いものや成長の悪いものは、掘り起こして「間引き」し、全体に上手く太陽光が当たるように、邪魔な枝も切り落とさないといけません。

一見すると、なんの手間も要らないように見えるのですが、実は熟練した庭師による丹精込めた手入れがないと見られないものなのです。

天に向かって真直ぐに伸びた青竹の林は、何度見て心が浄化されるようで気持ちの良いものです。

しかし、ここの難点は、いつも混雑している事で、せっかくの景色も人混みのせいで色褪せてしまうのが残念です。

この日は比較的空いていましたが、それでもそこそこの人出で、必ず写真の中に関係のない人が移り込んでしまいました。

人気があり過ぎるのも考えものですね。



Steak Otsukaステーキ おおつか

次は今回絶対行きたかったランチのお店へ向かいました。

とてもモダンな店内でいただくお肉はどれも素晴らしい!
イヤ、言い過ぎました。
私は全てを食べたわけではありません。
下の左上のカルビ丼&ミニ・ローストビーフをいただきましたが、
どちらも驚きの柔らかさで、美味し過ぎるものでした。

今日も朝からはしゃいで、暑い中を歩いてきたので、疲れた体に沁みるビールとお肉は最高でした。
と、カッコ良く言いたい所ですが、私とクミはお酒が弱いので飲んでいません。

腹ごしらえが済んで、ふと店内を見渡すと、キムタク主演の映画「無限の住人」のポスターを見つけました。
「続編ができたのか?!」
と思って近づいてみてみると、なんとキムタクと杉咲花のサインがあります!

お店の人のお話では「火曜サプライズSP」のロケで来店して、こちらのお肉を食べたそうなのです。

この場所は、決して繁華街ではなく普通の住宅街に、普通の住宅のような佇まいなので、そんなロケがあったなんて、わからないものです。

味は一級品なので、キムタクも花ちゃんもきっと感激したのではないかな~。



◇◇◇

ランチを食べながら、次はどこを回るかという話しになって、大覚寺でも回って帰ろうと決まりかけた時、サッコの一言で「二尊院」へと行先変更となりました。
ついでにその手前にある清凉寺も寄って、通り抜けるコースをとります。

その清凉寺にもうすぐ着くかというところで、私はメガネがないことに気付き、きっとランチの「おおつか」に忘れたのかと思い、電話確認してみてもナイとの返事でガックリしていると、誰か忘れたのですが
「ちょっとあんた、これなに??」と私の頭を指差します。

あろうことか、メガネを頭にセットしまま、その上から帽子をかぶっていたのです。

「横山やすしやないねんから~。」

若い人は知らないでしょうね。
横山やすしが相方の西川きよしにメガネを払い落とされて、メガネを探し回るベタなネタがあったのです。

路上で昭和漫才ネタを披露してお騒がせしてまった、あわてんぼうの千世でした。



清涼寺せいりょうじ

清凉寺は光源氏のモデルの一人とされる源融みなもとのとおるが晩年に隠棲した「嵯峨の御堂」ではないかと言われている寺院なのです。

位置的には「渡月橋」を真北に行くとこの寺に突き当たり、嵯峨野のちょうど中央に立つ姿は「嵯峨野の顔」とも言われ、重厚なケヤキ造りの二階二重門はハッとするほどの威厳があります。

仁王門

門は寛政8年(1796)に再建完成したものですが、仁王様は室町時代のものです。
奈良東大寺のものと比べてみれば、かなり小ぶりではありますが、険しい顔つきで立派な像です。

門をくぐってすぐに法然上人の説明を見つけ、チャコと二人で顔を見合わせ、「浄土宗やな!」ハモってしまいました。

というのも、私もチャコも息子が2人いて、学年は全く違いますが、同じ仏教高校を卒業しています。
その学校が浄土宗で、校舎の正面玄関横には、苦行中の法然上人の像がありました。

ですから、私たちは息子が在学中に何度も法然上人の話を聞かされたのです。


「釈迦堂」と呼ばれる本堂にはご本尊の国宝・生身釈迦如来像が安置されているそうですが、仏様は拝めませんでした。

寛永年間に一度焼失しましたが、五代将軍徳川綱吉とその生母・桂昌院の寄進によに豪華に生まれ変わりました。

桂昌院と言えば、庶民中の庶民、「八百屋の娘」だったのを三代将軍家光が見初めて側室となり、生まれた男子が将軍となりました。

桂昌院の実名は「たま」といい、女性がトントン拍子に出世する「玉の輿」とう語源は彼女の人生からだったのです。

その本堂の隣には豊臣秀頼の首塚がありました。

本当なのか???
この時は、どういうことなのかわからないままに写真を撮ったのですが、
ググってみたらなかなか興味深い事が書かれていました。

1980年、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見された。骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された[12]。骨は1983年、京都の清凉寺に埋葬された。

Wikipedia

もし、大阪城で見つかった頭蓋骨が本物であるなら、ここに埋められたのですねー!
もしそうなら、左耳に障害があるという記述が気になります。

秀頼は左耳が聞こえなかったのか?

徳川家康が豊臣家の財力を削ぐために、あちこちの寺を修復や寄進をさせたそうで、この清凉寺もそのうちのひとつだったのです。
その縁で、亡骸はここで供養したのですね。



二尊院にそんいん

フルネームを小倉山二尊教院華台寺おぐらやま にそんきょういん けだいじ
創建は承和じょうわ年間(834~847)
円仁による開山で開基は嵯峨天皇です

最澄の比叡山延暦寺と同じ天台宗の寺で、
「二尊院」という名の由来は釈迦如来阿弥陀如来の二体のご本尊をお祀りしているからです。

慶長18年(1613)に伏見城の薬医門を角倉了以すみのくらりょういによって移築・寄進されたもので、室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。

私財を投じて京都の発展に尽力した角倉了以すみのくらりょうい素庵そあん父子の墓はここにあります。
(詳細は拙書「奥の枝道・京都幕末編」)


参道を取り囲む木々は低く緩やかな階段を包み込み、その緑は眩しく、息を吞むほど美しいのです。

見上げれば緑のカーテンが優しく日差しを遮り、心地よい参道を演出しています。

この階段の左手には高浜虚子の句碑、
左に曲がったところにも句碑がありましたが、
コチラはどなたのものなのかわからずじまいです。


こちらは花手水はなちょうずが有名らしく、至る所で花が活けられ、
華やかさが添えられていました。

本堂の周りの縁側には、数カ所の浮き花アレンジが設えられており、一つ一つが洗練されたデザインが施されていました。

その縁側から眺める中庭は、苔で覆われた緑の斜面と白小石を小川と見立てて配され、小さいながらもバランスの取れた美しい風景が表現されていました。

全員ここの縁側に座り込んで、庭を眺めながら一歩も動けなくなってしまったようで、時折吹き抜ける緑の風に当たりながら、すっかり休憩モードに入っています。

その間に私は本堂の縁側伝いを歩いてみました。

先ほどの中庭から本堂裏にかけてを「六道六地蔵の庭」といい、真裏はちょうど小倉山の斜面が迫り、六ヶ所ある石組の上には小さな「お地蔵様」が配置されていました。

六道とは仏教に置いて人間が輪廻転生する6種の世界の事で、以下の通りです。

道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)

Wikipedia

それらの道に各お地蔵さまが導いてくれているという感じでしょうか?
小倉山の静かな佇まいがじんわり沁みる光景でした。

ちょっと愛想のないおっちゃんでしたが、御朱印はなかなかの達筆です。
そういえば、さっきの「清凉寺」で御朱印をもらい忘れたのを思い出しました。

なにやってんねん。。。



土佐四天王像

もう今日はこれぐらいで堪忍したるわ…(吉本・池乃めだか語録)
という感じで、さすがに帰る事にしました。

途中にまた竹林を通り、野宮神社を素通りして歩いていると、なんともオシャレなスポットを見つけました。

Museum李朝 cafe & gallery

残念!月曜日は休館です!
以前、ちょっとだけ陶芸をしていた私はとても興味津々で、次回は必ず寄りたい。


ふっと見るとそのかたわらに「土佐四天王像」がありました!
え?でもどうしてこんなところに??

『風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元治元年(1864)、坂本龍馬は中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に長州藩士の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという口碑を伝えている。』

上写真の碑文より

元治元年といえば「禁門の変」の年ですよね。

龍馬は神戸海軍操練所の塾長だったのに、そんな時間があったのか?
武市半平太は土佐で投獄されていたはず。
吉村寅太郎よしむらとらたろうは、すでにこの世に亡く。
中岡慎太郎だけは、可能性あるなぁ。

数々の矛盾点があり、
なんだかちょっと無理くりの四天王のようですが、
こんな所に突如として幕末史に触れれたことはとても意外でした。


◇◇◇

ちょっとしたお散歩のつもりでしたが、ざっと調べても5.1Kも歩いていました。

それだけ「嵯峨野」界隈は歩けば名所に当たるぐらい、いくらでも寄るところはあります。
まだまだ回り切れていまいところは多く、またリベンジを誓った私たちでした。

ホンマに京都はよー出来てますワ。

帰り道、クミは膝が辛そうで、とても可哀そうでした。
しかし、10日前に膝を痛めた状態で、よく参加してくれたものだと、その根性には感心します。
よほど疲れたのでしょう。帰りの電車内ではすぐに座れず、立ったまま居眠りしていました。

確かにこの日も暑い中、結構歩きましたが、昨日のハイキングに比べるとかなり充実した内容でした。

あくまでも私個人の感想ですが。。。
私はやはり「歴ガール」であって「山ガール」にはなれないとハッキリ認識できた一日でした。









いいなと思ったら応援しよう!

千世(ちせ)
サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。