「道長劇場」に振り回された哀れな一条天皇
「恐れながら、崩御の卦が出ております」
と、大江匡衡(谷口賢志)が告げると、
「ご寿命のことなど聞いておらぬ」
と、道長(柄本佑)が言う。
いや、筒抜けだから!
だって帝の寝所の横でわざと聞こえるように会話していたとしか思えないから!
道長としてはなるべく自分を良く見せるためなのか、あくまでも間接的に自然な形で一条天皇を追い込んでゆく一手のつもりかもしれないが、このシチュエーションには悪意があり過ぎます。
わざと聞かせたことは明らかで、一条天皇(塩野瑛久)を精神的に追い詰めるトドメとなりました。
ちなみにこの占いをした大江匡衡は彰子(見上愛)の女房・赤染衛門(凰稀かなめ)の夫ですので、完全に道長サイドの者であり、この卦そのものも真実かどうかも疑わしい。
要するにこの会話は道長が仕組んだお芝居だったのかも?
さあ、いよいよ「道長劇場」の幕が開きました!
一条帝の死因は何?
一条帝は発病からたったの1ヶ月で崩御されました。
はっきりとした記述は残されてはいないので、その死因はよくわかりません。
少なくとも自分の寿命を聞いてショックを受けたからと言って、それがすぐに死に直結するとは考えにくい。
この時代は医学的な考え方はできず占いが全てで、治療もご祈祷が主体。
そんなもので病気が治るわけがありません。
それにしてもこんなにも急に32歳という若さで亡くなるのは不自然ですので、その理由をちょっと考えてみました。
1,近親婚による遺伝子異常
実は一条帝の両親、円融天皇と藤原詮子も従妹同士です。
詮子の父・兼家の姉・安子が円融帝の実母でした。
この時代の従妹同士の婚姻は当たり前のことで、いわば両親が違っていればOKという認識でした。
道長もこの後、自分の孫に実の娘を嫁がせるという荒行で、「一家三后」を実現させているぐらいです。
それが過去から延々と繰り返されたことにより、遺伝子になんらかの異常があったのではないでしょうか?
その証拠に一条帝は幼いころから病気がちで何度も寝込んで死にかけています。
今さら、死因となった病気はわかりませんが、身体に先天性の欠陥があったのかもしれません。
2,道長が裏で追い詰めた
ネット検索していて見つけた記事によると、道長は一条帝が生前から「土葬」を望んでいたにも関わらず、それを失念して「火葬」にしたというエピソードがありました。
いやいや~
いくら何でもそんなウッカリは考えられないでしょう。
これは「火葬」にしなければならない理由があったのではないかと疑ってしまいます。
道長は確かに自身が遺した日記や他のエピソードから、豪胆さと繊細さとを併せ持つ性格だったようで、たくさんのウッカリミスをした反面、自分本位のここぞという時には実に細かい工作をしたのも見受けられます。
深読みすれば、彼は何か企むのであれば、実に緻密に計算できた人間だったと想像します。
その上、自分で手を下さずとも周りの者に自然にそうさせるような心理作戦が得意だったのではないか?
一条帝の件も、直接の原因ではないにしても、彰子の入内から始まって、御岳参りでの祈願など、道長から受けたあからさまなプレッシャーの数々は、少しずつ寿命を縮める要因になったのかもしれません。
自分の孫に皇子が二人も誕生した時から、道長にとって一条帝はもう不要。
ひたすら譲位のタイミングを狙っていたものと思われます。
それら一切の「圧」は何を隠そう一条帝本人が一番感じていたはずで、常に重くのしかかっていました。
ほんと、世が世なら叔父と甥の関係で、気さくな親戚なのに、身分が高貴なだけに厄介です。
最期の願いも叶わず
いよいよご臨終の時は、塩野瑛久さんがイケメンすぎて剃髪しても尚美しく、よりいっそうの哀れさを醸し出していて、思わず涙がにじんでしまいました。
もうこの美しさを拝むことはないのかと思うと、本当に残念です。
東宮には敦康を…
道長は、自分の孫(敦成)が皇位につくのをこの目で見たいと四納言の源俊賢(本田大輔)、藤原公任(町田啓太)、藤原斉信(金田哲)、藤原行成(渡辺大知)の前で公言しました。
このうち3人は調子よく同意していましたが、ただ一人、行成だけは険しい表情をしていたのは、実は頭の中では様々な策を巡らせていたのでしょう。
なんせ道長を崇拝してますから。
東宮に敦成を推す決定的な方法はないものか、道長のために一生懸命考えていたようです。
だからこそ、150年も前の文武天皇が第1皇子の惟喬親王ではなく第4皇子の惟仁親王を東宮にしたという先例を一条天皇に奏上しました。
その時も第1皇子・惟喬の後見・紀氏よりも第4皇子・惟仁の後見・藤原氏の長・良房の方が、外戚として圧倒的な権力を握っていたため、状況的に見て惟仁を東宮にし、のちに56代・清和天皇として即位しました。
行成が一条天皇を説得するために挙げた先例は的を得ていて、一条帝も言い返すこともできずに肩を落とす様子は、あまりにも哀れでした。
一条天皇のたった一つの願いは、定子の忘れ形見、
~敦康を東宮にすること~
道長とは暗黙のうちに意見は合わないと思っても、この行成なら味方になってくれるのではないかと期待していたのに、言い返せないぐらいの先例を言われてしまった…
確か行成が一条を説得したのは、彰子が中宮となった時にもありました。
史上初の「一帝二后」が実現したのも行成の換言があってのことでした。
行成は道長を慕い、また道長もそれを知ってるからこそ、直接に命令しなくても暗黙の指示を出し、肝心要のところでは行成を使っていたのです。
自分の手を汚さず、こんなにも鮮やかな陰謀があるでしょうか。
順当なら
次の東宮は敦康なのに
敦康は出家はしたものの一条帝の后が産んだ第1皇子。
しかも前回述べたように、兄弟である冷泉天皇と円融天皇(坂東巳之助)の2系統から交代で皇位を継ぐのが慣例でしたので、円融系の一条天皇の次は冷泉系の三条天皇という順になるわけです。
この時点で東宮を敦康に据えると、道長の孫・敦成の順番は次の次という先の事になるので、道長は焦っていました。
ドラマでは触れてはいませんが、実は道長は何度か重病に倒れ、この時もすでに糖尿病が悪化していて、悠長なことは言っていられず、何が何でもここで強引に割り込まないといけなかった。
道長は、まずは病気がちの一条天皇に譲位するよう無言の圧力をかけ、行成を主役にした筋書きで事を進めたのです。
あくまでも自分のために慣例も覆す道長くん、完全にダークサイドに急落です。
一条の事を精神的に追い込んでゆくやり方は、あれだけ忌み嫌っていた父・兼家よりもえげつないやり方です。
一条帝の母が、自分を可愛がってくれた姉・詮子(吉田羊)だという事もすっかり忘れたのか?
政を行うは私であり、
中宮様ではございませぬ
彰子が怒るのも無理はありません。
訳もわからないままたったの12歳で一条帝に入内して、皇后・定子が崩御した後、敦康を7年間も養育してきたので、血の繋がりはなくともお互いに家族同然の存在であり、情が移るのも当然だと思います。
しかも彼女にとって次期東宮を敦康にする事は、一条帝との大事な約束だったのですから。
ドラマの彼女のセリフ通り、
~敦成には次がある~
ちなみに一条帝が崩御したのは32歳、この時点で敦康12歳、敦成はまだたったの3歳でした。
敦成にはまだまだ先があったのに、道長だけが自己都合で焦っていたのです。
~政を行うは私だ~
と、言って彰子を睨んだ時の目は本当に冷たかった。
彰子は父の心の闇と絶大な権力を悟り、引き下がるしかありませんでしたが、この時を境に強くなっていきます。
さらに、この時期の公卿たちの動きもよ~く観察して、のちに宮中で大きな権力を持つことになるのは、やはり彼女も父親譲りの才能があったのかもしれません。
ここは彰子覚醒の名シーンでした。
そしてこの時の彰子は、若き日の道長にも重なります。
それにしても最期の願いも叶わなかった一条帝は、本当に可哀そうでした。
やはり藤原氏の全盛時代を築くためには綺麗事だけでは済まされません。
遅くともここらで非情な道長くんになってもらわないと、いくらなんでも辻褄が合いません。
惟規の子孫と
賢子のこれから
惟規の子孫は平家に繋がる
源氏物語さえまともに読んでいない私は、当然ながら紫式部の兄弟まで知らず、惟規(高杉真宙)がこのタイミングで急死するなど、まったくの不意打ちだったので、この展開には驚きました。
惟規はドラマではまひろの弟ですが、どちらの生年も不明なので兄だったという説もありはっきりしません。
実はこの惟規、この時点ですでに藤原貞仲の娘が妻となり、貞職という息子がいました。
この貞職の曾孫に邦綱が生まれるのですが、彼は国司を歴任して蓄財し、正二位権大納言まで昇進して異例の大出世を遂げます。
惟規の父・為時が正五位下、惟規が従五位下なので一族始まって以来の大躍進なわけです。
その邦綱の4人の娘はそれぞれ天皇や平徳子の乳母になり、そのうち安徳天皇の乳母となった輔子は、清盛の五男・平重衡の妻となります。
そう、あの南都焼き討ちで東大寺の大仏殿を焼いた重衡です。
輔子は平家一門と運命を共にし壇ノ浦で入水するも、源氏に引き揚げられて一命を取り留め、斬首された夫・重衡の亡骸を供養した後、出家して建礼門院となった平徳子に仕えて余生を過ごしました。
今、大河で描かれていることがこの先に繋がると思うと、やはり歴史は面白いですね。
さらに面白いのが、道長の子孫である九条兼実が邦綱を「卑賎の者」と誹るのですが、そもそも道長とまひろの両家は6代前の藤原冬嗣から枝分かれした同族の藤原氏。
道長とまひろも身分の差に苦悩する姿も描かれましたが、私たち後世の一般人から見れば、いわば五十歩百歩の同族のように思えますが、それだけ藤原摂関家が特別だという自負が大きかったのがよくわかります。
一族の出世頭は娘の賢子
惟規の子孫の出世で驚いていてはいけません。
賢子(南沙良)も従三位まで上りつめ、大出世を遂げるのです。
彼女はどうも母と違って社交的で華やかな女性だったようで、数々の上流貴族と恋愛関係がありました。
・道長の次男で母が明子の頼宗(上村海成)
・藤原公任の子・定頼
・道長の正妻の倫子の甥・源朝任
・道長の次兄の道兼の次男・兼隆と結婚(諸説あり)
兼隆との間に娘を産み、ちょうど道長の娘・嬉子が産んだ親仁親王(後冷泉天皇)の誕生と同時期で、その乳母に任ぜられるのです。
本作がどこまで描くのかは不明であり、賢子が道長の娘だというのは飛躍した話かもしれませんが、少なくともドラマ上はどこかで道長が賢子が我が子だと知り、甥の兼隆との結婚や孫の乳母へという道筋は、この時まだ存命中の道長がしたという筋書きになるかもしれません。
彼女は兼隆と死別後に再婚した高階成章の役職名・大宰大弐から、賢子も「大弐三位」とも呼ばれました。
双樹丸(伊藤健太郎)とも深い仲になるのでしょうか?
ただ賢子が双樹丸を家に連れて帰り、語らうところに惟規がいたなら面白いシーンになったでしょうに、これもまた残念です。
さて、ここにきて一気に目覚めたブラック道長、有頂天になってあの「望月の歌」を詠む日も近づいてきました。
【参考記事】
・プレジデントオンライン
・東洋経済オンライン
・日本実業出版社
・和楽