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尾形兄弟の遺したもの
トップ画像出典:光琳「風神雷神図」MUSEY
乾山「色絵桔梗文盃台」黒川孝雄の美
呉服商「雁金屋」
江戸時代中期、京都に「雁金屋」という呉服屋がありました。
場所は現在の京都御所西側の中立御門を出た通り沿いにあったようです。
尾形家は2代目・尾形道柏が江戸中期の芸術家・本阿弥光悦の姉を妻に迎えた名家でした。
慶長年間には、徳川家康や豊臣秀吉の正室・高台院、そして元々近江の浅井家の家来筋でもあった縁で、浅井長政の3人娘の淀君、京極高次夫人、徳川秀忠夫人など、当時の一流人たちの引き立てにより高級呉服商となり、身代は大きくなりました。
やがて秀忠夫人の娘・和子が後水尾天皇に入内して、東福院和子となり、彼女にも大変ひいきにされて、「雁金屋」は豪商として不動の名を得ます。
そのような裕福な豪商の家に、後の日本芸術界に名を残す兄弟が誕生しました。
次男・光琳 と 三男・乾山 です。
今回はこの2人について調べてみました。
生家没落の二人は両極端の生活
延宝6年(1678)東福門院が崩御し、それまで年間5000両以上の売上があった最大の得意先を失うと「雁金屋」の経営は一気に悪化します。
ついに経営は破綻する
米を担保に大名に金子を融資する大名貸しに手を出し、回収不能が重なり、さらに没落してゆきます。
徳川幕府の末端の武士たちは内職するほど、切羽詰まった超貧乏でしたから、そのような商売は成立しませんでした。
幕府自体が金策に喘いでいたのですから、仕方のないことでしょう。
そんな経営状態であっても、3代目の父・宗謙が亡くなった時、長男・藤三郎と光琳、乾山の3人の息子たちは莫大な遺産を受け継ぎます。
藤三郎が「雁金屋」を継いだのですが、建て直す事ができず、結局は経営破綻してしまうのです。
その後の藤三郎の消息は不明で、調べきる事はできませんでした。
両極端な二人の性格
そして、その下に続く弟たちの光琳と乾山の性格は正反対でした。
元々遊び好きの派手好きな光琳は、受け継いだ遺産で遊び惚けて遊蕩生活をした結果、ついに莫大な財産を湯水のように使ってしまいます。
最後は5歳も年下の乾山に借金までする始末でした。
一方乾山は内向的で、莫大な財産を手にしても、自ら進んで隠居生活に入り書物に囲まれた地味で静かな生活を送っていました。
光琳の才能は切羽詰まって開花
生家から莫大な遺産を引き継ぐも、見栄っ張りで派手好きな性格が災いして、とうとう財産は底をつきます。
30歳代前半で光琳と名乗る
本格的に絵を描き始めるようになったのは、経済的な理由からでした。
10代の頃から絵は描いていたものの、本腰が入ったのは、どん底になった30歳を超えてからでした。
生家の商売が成り立っていたら、本格的に描く事はなかったと思うと、何が転機になるかわからないものです。
生家の没落こそが、光琳の才能を開花させたと言えます。
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パトロンと愛人関係?
しかし相変わらずの浪費僻や遊蕩生活は止まず、広大な屋敷も人手に渡って生活がたちゆかなくなった時、タイミング良く現れたのが、銀座・貨幣鋳造所の役人で裕福な中村内蔵助でした。
内蔵助はパトロンとして光琳を支えますが、それは男色関係と噂が立つほどの親密ぶりで、光琳は内蔵助の娘・お勝を5年間養育し、自分の息子と結婚させるなど、かなりの親交があったのは確かですね。
内蔵助を通じて、屏風絵の注文を受ける事になり、数々の名作が誕生してゆきました。
画家にとってパトロンとは特別な関係になるパターンて多いですね~。
有名な伊藤若冲と支援者の大典顕常もそうですね。
(これに関しては後日まとめます。)
44歳で法橋位を得る
元禄14年(1701)兄弟で目をかけられていた二条綱平の推挙により、光琳は僧位の一つ、法橋位を獲得します。
これは医師・絵師・連歌師などに与えられる名誉ある称号で、名実ともに画家として確固たる地位を与えられ、一流の画家と認められた事を意味します。
これを境に彼の作品には「法橋光琳」の落款があります。
マルチな画家として活躍
光琳の作風は大胆な構図と色使いは今までにない発想のもので、人々を驚かせます。
俵屋宗達や狩野派の雪村に大きな影響を受けながらも、その制約内にとどまらない自由な表現の画風は、奇抜な斬新さを備えていました。
そして絵画だけではなく屏風絵や陶芸の絵付け、蒔絵、着物の柄絵にも精力的に取り組み、多種多様な作品を遺しています。
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乾山は禅と学問から陶芸を極める
乾山は仁和寺の南に習静堂を構えて禅修行と学問に励む質素な生活を送っていました。
この仁和寺門前に住む陶芸の窯元である野々村|仁清《にんせい》に本格的に陶芸を学び、「雲海」という号で、作陶を生業としました。
37歳で自分の窯を持つ
兄と同じく目をかけられていた二条綱平より京の鳴滝の山荘を譲り受け、自分の窯を開きます。
そこが都の北西の「乾」の方角だったことから「乾山」を号とします。
50歳より作陶が活発化
正徳2年(1712)京都市内の二条丁子屋町に移住して、五条や粟田口など市中にある窯を借りて、数多くの作品を手がけたのです。
この頃より、兄・光琳との合作作品も多く生まれています。
69歳の時、光琳が没しますが、失意の中であっても静かに作品を生み続けます。
81歳で没す
享保16年(1731)、江戸へと下り一時期は下野国佐野で陶芸の指導にあたりますが、81歳でその地味で質素な生涯を終えました。
「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」
乾山辞世の句
実用性よりデザイン性を重視
乾山の作風も、生活は地味でしたが、人目を引くものでした。
伝統を尊重しつつも自然を大胆にデザインしてモダンに取り入れています。
華やかで明朗な明るい気持ちになる作品が多く、今見ても、十分斬新なデザインは、毎日の暮らしを豊かに彩るもだと感じる事ができます。
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出典:市政だより きたきゅうしゅう
2人の才能の合体作品が誕生
琳派を引き継ぐ
桃山時代後期に|本阿弥光悦《ほんあみ こうえつ》と|俵屋宗達《たわらや そうたつ》が創始した流派に琳派があります。
光琳と乾山は、それを大成させました。
本来のカタチに捉われない自由で斬新な2人の作品は、もしかしたら基本を知らない素人感覚から生まれたものだったのかもしれません。
2人は幼少より、茶道や書道に触れ、着物の図案など、本物の芸術に囲まれる環境で育つ中、素直に培われた独特なセンスが花開いたのでしょう。
シブさと遊び心の共同作品
作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、乾山が器を作って漢詩を書き、光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多いのです。
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銹絵とは
鉄釉という釉薬を使い、茶色の渋い仕上がりになり、鉄絵とも言います。
シブい中にも、上手く空白を配置して、バランスよく漢詩と絵付けがされています。
角皿だし、なんだか色紙の墨彩画みたいですね。
無責任で奔放な兄と内気で真面目な弟ですが、
とても仲が良く、お互いの才能を十分認め合い、
乾山は兄の光琳を”自分の師”だと言っていたほどでした。
2人が息の合った兄弟であった事は、作品からもくみ取れます。
彼らの作品は、その波乱万丈の人生を背景に、積み上げてきた才能を集結したもので、日本における貴重な美術品として世界中から、今後も注目され続けることでしょう。
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