桶狭間の戦いで信長が考えた事
「レジェンド&バタフライ」と「どうする家康」で、私の中でちょっとした信長ブームが再燃しています。
ま、そうでなくても信長に関して書く事は多いのですが。。。
元々、戦国武将の中では最も人気のある織田信長ですが、あまりにも「謎」が多いのも事実です。
しかし、新たに古文書が発見されるたびに信長の意外な一面が垣間見え、パズルを組み立てるように少しづつ形作られてゆくのが、彼の一番の魅力なのかもしれません。
戦国武将として事実上のデビュー戦といえる「桶狭間の戦い」に関しても、まだまだ解明されていない部分がたくさんあります。
昨年5月にレキジョークルでの「名古屋紀行」で「熱田神宮」にも立ち寄り、境内に今も残る苔むした「信長塀」を見つけた時、「桶狭間の戦い」に関して様々に妄想せずにはいられませんでした。
どうして今川義元は敗れたのか?
海道一の弓取りとまで謳われた武将が、なぜ、不利な条件の揃う桶狭間に着陣したのか?
たとえ急な雨に見舞われたとしても、戦いに明け暮れた義元には、決してここでとどまってはいけない事はわかっていたはずです。
私にはそこが最も不思議なところでした。
では、今川義元との決戦に際して、信長はいったいどのように考えていたのでしょうか?
さまざまな説を通して、私なりの妄想話を書かせていただきます。
なぜ桶狭間だったのか?
つのだこうじさんが、
という素朴な疑問から、実に興味深い考察をされています。
当日、信長はまず「熱田神宮」にゆっくり寄って、あたかも時間稼ぎかとも思われる行動は、ギリギリまで勝機を探っていたのではないかとも言われています。
そしてその後、織田軍はどの様な進撃ルートを取ったか、あらゆるパターンを想定されているのです。
それぞれのルート詳細を考察されているのには本当に感心してしまいます。
とても面白いものですので、ぜひご一読下さい。
信長にはシナリオがあった?
先日、再放送ではありますがNHK「歴史探偵」で「桶狭間の戦い」関しての考察をまとめていました。
大国を擁する今川家と弱小の織田家。
ずっと信長はまぐれで勝ったとされてきましたが、実はそうではなく、綿密な作戦を立て、勝つべくして勝った可能性があると見られています。
そう。
信長は完全に勝つつもりで臨んでいたのです。
六角氏と協力関係にあった
新しく発見された織田軍の記録の戦死者の中に、六角氏の家来の事も書かれていました。
織田軍単隊だと思われていたのが、これは他武将からの援軍があった事を物語り、さらには南近江の六角氏と越前の朝倉氏と尾張の信長との3国が美濃国を三角に囲むように同盟が結ばれていたのが想定されます。
これは意外でした!
朝倉氏と信長はずっといがみ合っていたと思っていましたから。
信長は、東から来る今川氏との決戦に心おきなく臨むため、背後の敵たちに「攻めるな」と待ったをかけていたのです。
「大高城」をエサにおびき寄せる
今までの定説では、今川義元は京への上洛のため西へ進軍し、信長の領地はその通り道にすぎなかったとされていました。
「どうする家康」で木下藤吉郎(ムロツヨシ)が、信長の作戦の種明かしをして家康(松本潤)は驚いていましたね。
表向きには、
桶狭間の戦い=大高城争奪戦
という見方ができます。
当時の大高城は伊勢湾に面しており、尾張の経済の要である港の「津島」や「熱田」に舟で直接行き来できる抜群の好立地にありました。
織田家は実際の石高より経済的には潤っていたのも、これらの港を利用した交易があったからです。
元は織田方の城だった「大高城」には、今川方にとって基盤となる経済力を得るという大きな思惑がありました。
そこで信長は、大高城を取り囲むように4つの砦を築き、今にも奪還するような態勢を取った事で、今川方は救援に向かったというのが本当の理由だったとしています。
信長は全て承知の上で、敵が一番欲しがっているものをエサとし、まんまと義元を誘い出したのです。
緻密な情報網
織田家の「鷹狩」は他家とはまったく違い、監視役と伝達役の二人一組を10キロ圏内に放ち、各自で地元民から情報収集させ「獲物」を探すもので、実は「情報偵察」の実地訓練だったという取り方もできるのです。
来るべき時に備えて、単なる「鷹狩」の常識をも覆すという信長の周到さには驚くものがあります。
当日、信長が一番に知りたい情報は「義元の本隊の正確な現在地」でした。
戦後、信長が一番の功労者として讃えたのは、義元の首を取った毛利新介ではなく、今川本隊の位置情報を探った梁田政綱だった事からもそれが伺えます。
2人の思惑の大きな違い
「狙い」の食い違い
「大高城」を取り囲む織田方の4つの砦は完全な「捨て駒」でした。
信長は最初から大高城の奪還を目的とはしていなかったのです。
信長はあたかもそう見せかけて、それは大将・義元を誘い込むための手段に過ぎず、一方、義元は砦をハエを追い払うように簡単に落としていきました。
つまりは全ては信長のシナリオ通りでした。
土地の特性と天候
桶狭間は窪地の上、歩くと脛まで隠れるほどの深田でした。
おまけに信長は、当日は天候が急変して雨が降る事を想定していたようなのです。
「レジェンド&バタフライ」では濃姫の乳母・各務野(中谷美紀)が天候予想をしたことになっていましたが、実際は信長本人でしょう。
先に述べた実地訓練である「鷹狩」と、うつけ時代から野山を駆けまわっていた経験から、この辺りの地形と天候変化の前触れは身体に沁みつき、熟知していたと思われます。
チャンスの状況設定
今川軍2万5千に対して織田軍はたったの3千。
平地で真正面から戦えば、織田軍に勝ち目がないのは明らかです。
そんな事は信長も重々わかっていました。
しかし「桶狭間」という狭い窪地なら、大軍では通れず、ましてや義元の身回り衆だけなら、もしかした3千よりもっと少ないはずだと考えていました。
信長は、最初から攻撃場所は「桶狭間」に定めていた可能性があり、
そして近隣の百姓からの「酒肴」の差し入れは、その場所に今川本隊を留めるために、変装した家来たちを向かわせたのではないかとさえ思うのです。
そこに突然の大雨です。
信長にとって千載一遇のチャンスを自ら作り出しのです。
慢心と油断
一方、義元には信長よりはるかに勝る戦歴があり、その勝ち戦の経験から、こんな場所で、こんな悪天候の状況で、まさか襲撃してくるなど思いも寄らなかったはずです。
私はこの辺りが一番の謎です。
今川義元という優秀な武将が、その「まさか」を想定できなかったことが理解できない。
もしかしたら、信長は他に仕掛けていたことがあったのかもしれません。
謙虚な考え方
一見すると、大きな番狂わせだったまぐれの「桶狭間の戦い」のようですが、信長にとっては常に最悪事態を想定して、綿密に計算され尽くした戦いでした。
これらの事から、
どんなに強大な相手を敵にしても、必ずどこかに小さな綻びがあり、
どんなに小さな綻でもやがては大きな敗因になってしまう。
「慢心」こそタチの悪い小さな綻びかもしれません。
謙虚な気持ちで物事を見る事がいかに肝要かが証明された戦術でもありました。
信長と謙虚さとは、かなりかけ離れたイメージですが、少なくとも「桶狭間の戦い」の信長は、人生の一世一代の大事と捉え、絶対に勝つための努力を怠らなかったのです。
これは現代にも十分通じる教訓だと言えますね。
◇◇◇
それにしても、これだけ用意周到な織田信長が、これより22年後の1582年に本能寺で劇的に滅んだのはどうした事でしょう!
やはり、歴戦錬磨の経験から、義元と同じように慢心という綻びがあったのかもしれません。
【参考文献】
・ベネッセ
・歴史探偵
・教養ドキュメントファンクラブ
※トップ画像は自ら熱田神宮の「信長塀」を撮影したものです。
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