「街道をゆく」で近江国を思う
かれこれ20年以上も前でしょうか?いや25年?
随分と前に司馬遼太郎氏の「街道をゆく」全43巻を貪るように読み漁った時期があります。
司馬氏があちこちを訪ね歩き、その土地にある史実を紐解く紀行エッセイなのですが、とにかく面白くて、読まずにはいられませんでした。
それまで、私にとって歴史とは三英傑や政権交代などの大きな枠で捉えていたものでしたが、本書を読み進むにつれて、その認識はガラリと変わったのです。
実際の歴史はとても身近で、どこにでも転がっていて、それらが繋がって出来たものが大きな歴史になるのだと気付かせてくれたのが本シリーズでした。
正直、細かなところは忘れてしまっていますが、一貫した真髄は今でも心に残っています。
今年は「司馬遼太郎生誕100年」としてNHKでは様々な特別番組が組まれていますが、そのうちの一つ「新・街道をゆく」も新たに制作されて放映されています。
【新 街道をゆくシリーズ(NHKBSプレミアム)】
・三浦半島 坂東武者のこころ
(岡田准一:2022年8月6日)
・北のまほろば
(佐々木蔵之介:2023年3月26日)
・奈良散歩
(高島礼子:2023年6月14日)
そして先日も、近江への紀行が放映されていたので、やっと昨日、じっくり見てみました。
田中 泯さんのナレーションがたまらなくいい!
司馬氏の文章としっくりとマッチしていて、読んだ当時の感動が再び蘇ってきます。
現在の滋賀県、かつての近江国について、思うところをまとめてみました。
寝物語の里
幅30センチにも満たないほんの小さな溝が、近江と美濃の県境とは、驚きです。
見過ごしてしまいそうなほどの溝は関ケ原にあり、その地にはどうしても天下分け目の合戦のみを思いがちですが、こんな小さな事に着目するのはいかにも司馬氏らしい。
旧中山道沿いにあるこのあたりは、かつては旅籠も多く、両脇に建つ家屋の軒下から違う国の者同士が会話を交わすのが日常でした。
壁越しと言うのはちょっと大げさでしょうが、こんなにも小さな溝であれば、両岸の際に建つ旅籠から簡単に会話はできたはずです。
ちょうど日本の中央辺りにあるこの地は、情報、経済の流通がさかんであり、人と人が接するだけで風習の違いを知り、東西の経済流通のキッカケが生まれたのでしょう。
静御前の「賤の苧環」
今回の「街道をゆく」では紹介されていませんが、余談をひとつ。
源義経の愛妾・静御前の逸話もこの地に伝わっています。
兄の頼朝と不仲になって欧州へ向かった義経を追って静御前がこの県境の近江側に宿をとり、すぐ隣の美濃側の宿に義経の家来の源造が泊まっている事を知り、「奥州まで連れて行ってくれ」と懇願するやり取りがあったと伝わります。
(関ケ原観光ガイドより抜粋)
昨年の大河「鎌倉殿…」でもありましたが、義経とはぐれて吉野の山中をさまよっているのを捉えられて、鎌倉に連れられ、頼朝の前で舞った時の歌が、義経への愛おしい気持ちでした。
~しづやしづ しづのをだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき~
この逸話はずっと伝承され、日本舞踊の長唄として仕上がったのは、意外にもずっと後世の明治41年(1908)の事で、作詞・菊地武徳、作曲・五代目杵屋勘五郎により蘇り、静御前の「思い」は今なお生き続けています。
こんなにも小さな溝ではありますが、ここで生まれたドラマや伝承はあまりにも多いのですね。
安曇と安曇
長野県の安曇野は、ほとんどの方が知る地名として有名でしょう。
滋賀にも「安曇」と書いて「あど」と読む地名があります。
司馬氏は近江の地図を眺めて、安曇という地名を発見したときは小躍りするほどのときめきを感じたそうです。
これが長野県の安曇と同族であるとは、私も本書で初めて知りました。
海神の氏族
そしてさらに安曇氏を調べてみました。
海神である綿津見命を祖とし、航海や魚業に携わる海人族で、発祥地は筑前国とも、淡路島とも言われています。
「安曇」と言う名は、尊称である和多津見からなのか、海人津見からなのかの2つの説が有力で、和多も海人もいずれも「海」を表し、海人族をルーツとして全国に存在しています。
阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・会見・青海・安土・安堂など、漢字表記や読みを変えて伝わりました。
地名から名字が生まれ、その際にまた漢字や読みが変化し、日本の固有名は同じルーツから転じた事は多いのです。
そしてかつては、琵琶湖を「湖」ではなく「海」と認識していたようで、当時の海人族もここに新天地を求めて、安曇一族として定住したのでしょう。
司馬氏のように近所はもちろん、旅行先などでの地名や名字に着目してみるのも、なかなか奥深いものに繋がりそうですね。
全ては琵琶湖の恩恵ありき
琵琶湖の自然保全
司馬氏は安土城址に2回登られています。
一度目は中学生の時、2回目は本書の取材のため60歳の時。
中学の時の天守閣跡から見た美しい景色をもう一度見たくて、60歳の時、体力に自信がないにもかかわらず、頑張って登ってはみたが、そこからの風景はまるで違っていたと嘆いておられました。
私も今年、安土城跡に登り、実際に体感しましたが、なるほど頂上の景色から見える湖は遠かった💦
信長の時代から司馬さんの中学生時代ごろまでは、まだ安土山周辺は干拓されておらず、湖の中にそそり立つ状態だったのでしょう。
以下の通り、干拓は怖ろしいスピードで進み、景色を一変させてしまったのです。
人々の生活のためとは言うが、結局は人間の欲のためであると司馬氏は嘆いておられます。
干拓のために琵琶湖に自然生育した葦が激減し、それらが琵琶湖の水質を維持してたのですが、干拓したとたん、またたく間に水は濁り、生物たちの住処をも奪う事にもなりました。
琵琶湖の自然破壊を憂いていた司馬さん、
今の状態を見られたら、少しは安心されるでしょうか。
近江を制するものは
天下を制す
1、日本屈指の水田地帯
琵琶湖の南部、近江八幡市の西隣りの守山市には「服部遺跡」では水田遺跡もみられ、紀元前300年ごろの弥生時代前期のものと推定されています。
平安時代にはすでに現在の滋賀県の面積の8割以上を水田が占めているので、この時にはほとんどが開墾されて水田地帯の原型は出来上がっていたようです。
十分な食糧が確保される土地には人は集まり、その地は自然と発展します。
天智天皇(中大兄皇子)が、ここに遷都して「大津京」を造ったのも、古くから都として適した要素があったからなのです。
2、水運や陸運の要衝
戦国時代の織田信長が前代未聞の「安土城」を創健して都として発展させたのも、穀倉地帯であることに加えて、陸運と海運の要衝だったからです。
東海道、中山道、北陸道など主な街道が交わる地点であり、琵琶湖沿岸の要所に重臣たちに城を築かせて湖の全面を支配し、ここから日本海、あるいは瀬戸内海まで通じる水運ルートを掌握し、海外への貿易も可能にしました。
琵琶湖がここにある意味をよく理解し、その水源を元に稲作と水運は栄え、それらの恩恵で近江国は発展し、それが日本の発展の礎になる事を、はるか昔から日本人は知っていたのです。
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