迷信を信じること勿れ
あなたは迷信を信じていますか?
小さい頃、おばあちゃん子だった私は「迷信」でNGを出されていた行動がたくさんありました。
当時は律儀に信じていた私も、さすがに成長とともに疑問に思いだし、何の根拠もないというものも少なくありません。
人は古来から「迷信」に振り回され、今現在もSNSなどの「デマ」に翻弄され続けています。
そして「宗教」への信心は歴史においても、時には権力者たちの脅威となってきました。
その心理は何なのか?
それら実態のないものの正体は?
今回はそれを考えてみました。
迷信に根拠はあるのか?
あらためて「迷信」の定義を調べてみると、次の通りでした。
日本だけでもたくさんの「迷信」は存在しますが、それらが古来より言い伝えられてきたのは、子供の躾け、あるいは行儀作法や社会ルールの意味を持つものでした。
そこには「迷信」の定義で言う所の「合理的根拠」、あるいは「科学的根拠」はあるのでしょうか?
簡単に例をあげて考えてみました。
☝根拠あり
ー夜に爪を切ると親の死に目に会えないー
これも私はおばあちゃんから固く禁じられていたことです。
しかし、夜に爪を切っただけでなぜそうなるのか?
子供の頃は理由さえ考えた事もありませんでした。
夜に爪を切る=夜爪は自らの寿命を縮めるという意味に繋がり忌み嫌われていました。
あるいは親の危篤に間に合わず、その最期を看取ることができないとも言われています。
実際は、当時の照明が不十分だったため、暗い中で爪を切るのは危険だったからで、その戒めが込められていました。
当初こそ納得できる根拠はあったものの、照明器具が当たり前にある現在では全く当てはまらないものとなりました。
ー夜に洗濯物を干してはいけないー
昔、死者の着物は夜に干す風習があり、夜に洗濯物を干すことはそれに当たるので縁起が悪いとされてきました。
実際には夜露で完全に乾ききらない洗濯物をそのままタンスに仕舞うと、カビの原因にもなり避けた方が良いというのが本当の理由のようです。
しかし、最近はエアコンの室外機の風で数時間で乾いたり、何より乾燥機もあるので、今や洗濯は24時間いつでも可能になりました。
ー遠くの音が聞こえると雨が降るー
これは迷信ではなく科学的根拠はあります。
音は気温の低い方へと跳ね返る性質を持っているため、低気圧や前線が近づくと、上空の気温が通常より高くなり、それより気温が低い地上で音が屈折するため遠くの音がよく聞こえるそうです。
その状態は、上空の温かい空気で湿度が高くなり、やがて温暖前線や低気圧となって雨を降らせるのです。
これは単なる迷信ではなくハッキリとした根拠はありました!
☝根拠なし
ー蛇の抜け殻を財布に入れるとお金が増えるー
蛇は財宝、豊穣の神様である七福神・弁財天の使いであるため、それに少しでもあやかりたい思いから蛇の脱皮後の皮を財布に入れて願掛けしたのが始まりです。
随分勝手で強欲な願いですが、少なくとも私は蛇皮が気持ち悪いので入れたこともありません💦
ー一そしり二褒め三笑い四風邪ー
これだけで何のことかわかった人は素晴らしい!
くしゃみが1回だと誰かが自分の悪口を言っていて、2回だと良い噂、3回なら笑われて、4回は風邪となるという、いわばまったく根拠のない迷信です。
住む地域によって、言い方も順番も違うようです。
「一に褒められ、二にふられ、三に惚れられ、四に風邪」
という風に逆の意味になる語呂合わせもあったりします。
私は「一そしり」から始めるパターンでしたが、皆さんの中で面白い言い方があれば教えてくださいね。
ー抜けた下の歯は屋根の上、
上の歯は床下に投げるー
これは私が小さい頃はしていました!
特に最初に抜けた下の歯を屋根上投げたのを憶えています。
次に生える永久歯がその方向へまっすく伸びるよう願掛けで、もちろん迷信です。
なぜ人はデマに翻弄するのか?
デマの定義は以下の通りです。
相変わらずSNSにはデマが多い。
私もnoteの他にも複数のSNSアカウントはありますが、note記事を同時投稿しているだけで放置状態です。
なにか知りたい情報があるときのみ、ピンポントで検索しています。
悪意のあるデマに
感情的にならない
たまに「え??」と驚くような情報が目に入っても、とりあえずスルーしています。
あくまでも放置状態ですので、どちらかというとスマホに通知されるニュース記事で知ることが多く、最近では「能登半島地震」に関してのデマには怒りを覚えてしまうのは私だけではないでしょう。
志賀原子力発電所の安全性に関してや、偽住所を騙っての救助申請、まったく関係のない画像を添付したり、インプレッションのみが目当ての悪質な情報もあります。
少し前にはコロナに関してのデマも多く、特にワクチンに関しての情報は、いったい何を信じていいのかわからないぐらい混乱した方も多いのではないでしょうか。
また食品関係もデマ情報が多い。
「遺伝子組み換え」の食品が相変わらず横行していて、一時は有名チェーン店の食料も挙げられてもいました。
それらに過敏に反応して、絶対に食べないという人に限って、加工食品や添加物を摂取している人も多く、まさしく「灯台下暗し」であることを気付かれていなかったりします。
冷静にウラを取る
そんな時こそ、まずはウラを取ることが大事だと思います。
間違っても一時的な感情で拡散しないこと。
極端な意見や情報は、ちょっと時間を空ければ「そんなはずはない」と思えるもので、そのほとんどが常識的に考えるとあり得ない事なのです。
確実性のないにままの拡散は、自分自身の信用まで落とすことに繋がりなりかねないのです。
重大だと予想される情報を目にした時には拡散する前に以下のことに気を付けていただきたいです。
1、まず疑う。
2、他の情報も見てウラを取る
3、現実的に有り得ることなのか考える
4、自分の感情が冷めるまで放置する
5、確証が取れない場合は拡散しない
そのデマは犯罪に繋がるニセ情報の可能性もあるので、一時的な感情で拡散してしまうと犯罪に加担した事になるため、十分な注意か必要なのです。
宗教と信仰心
それでは「宗教」はどうでしょう??
道理的根拠のないものを迷信というのなら宗教への信仰心もそれに近いものではないでしょうか?
過去に知り合いの方が、妹さんが他界されたのをキッカケに信仰心が強くなったと仰っているのを聞いて、違和感を感じたまま数年が経ち、今度は私の妹が闘病の末、他界しました。
私はまったく逆で、信仰心の欠片も湧きませんでした。
それどころか、先日、旧友を亡くした記事の通り、
「神も仏もいない」という思いが強くなり、信仰心を持てなくなりました。
拝む対象は必要か?
法事のたびに聞く僧侶からの説話はなかなか興味深く、私も息子たちも仏教高校出身なので、配布された人生哲学めいた冊子を読むと、なるほど実に真っ当な事が書かれていました。
それらは人生経験を積まないとわからないような教訓の宝庫でもあります。
ある意味どの宗教であれ、基本は「慈愛」と「安寧」を願うものである事に変わりありません。
しかしそれらは何も宗教を通さなくても、皆それぞれが真に願う事であり、何かに対して拝むものではないと思うのです。
拝む対象が必要かどうかで宗教への向き合い方は大きく違ってきます。
「拝む対象」を「心の拠り所」として神像や仏像があり、目に見えることで安心して信じることができ、それで救われる人々こそが「信心」を持つ信者ということになります。
そういう意味では、私は宗教に興味はあっても「信心」はありません。
拝んで救われるという風には思えず、いつも自分の中で落としどころを見つけてきました。
だから宗教とは、それぞれの心の中にある積み上げた教訓と哲学であって仏や神を崇拝することとは違うように思います。
信じられるのは確かなものだけ
迷信・デマ・宗教を順番に採り上げましたが、どれも根拠のあるなしで性質は変わり、ある意味デマも宗教も定義的には迷信の部類に入るのではないでしょうか。
現実的には、今なお迷信という呪縛から解けていないのは、人間の特性上は仕方のない事で、逆に”合理的な根拠を欠いていること”を認識して、上手く生活の中に取り入れるべきなのかもしれません。
物事の真偽を見極めるには、見えないものを信じていてはなにも解決しません。
それらの全てを鵜吞みにするのではなく、自分の中で必要な情報を取捨選択できる能力を養うことこそが人生修行なのです。
見えない情報に振り回されることのないよう、常に見極める鍛錬をしたいものです。
【引用・参考サイト】
・社会人の教科書
・心理学的視点から見た迷信の功罪