どこまでも黒い「三浦義村」
和田殿~~!
次回で「鎌倉殿…」の癒しキャラがついに最期を遂げる。
和田義盛(横田栄司)は源頼朝挙兵以来の功臣であり歴代の鎌倉殿に尽くし、合議制13人の一人にも選出され、初代侍所別当となる重要御家人でした。
ダークサイドに堕ちた北条義時による執拗な挑発で蹶起し、ついに滅亡してしまいます。
「和田合戦」といわれるその戦後、境川には234もの和田一族の首級が晒されたと記録にあります。
234の首ですよ~~!
ドラマ内でも妻の巴が驚くほどの数の子がいたので、総勢ではこれぐらいになるのでしょうか。
次は涙の回になりそうです。
今回は、その癒しの和田殿のお話ではなくて、彼の父方の従弟にあたる三浦義村(山本耕史)について、ちょっと深掘りしたい。
同じ一族でありながら、思いっきり暗躍して和田殿滅亡へと追い込んだ張本人のひとりです。
こいつさえ裏切らなければ、和田殿は助かったかもしれず、歴史は大きく変わっていたことでしょう。
実は義時よりもさらに腹黒く幕府一信用できない男だと、私は見ています。
彼をどうにか理解しないと、和田殿も浮かばれない。
三浦義村とは?
出身:相模国
死亡年月日:1239年12月5日(生年不詳のため、享年も不明)
北条義時や政子、大江広元よりも長い生きし、彼らの没後、2代執権・泰時の下で評定衆に選ばれ、鎌倉幕府の法律である「御成敗式目」の制定にも関与する。
暗躍した数々の事件
いつもどっちの味方かわからず、結局は裏切るのが義村の常套手段ですが、
彼が関与したと思われる事件を挙げてみました。
①「梶原景時の変」・1200年
そもそもきっかけは、梶原景時に、謀反を疑がわれた結城朝光が、義村に相談したことで、話は逆ベクトルに大きくなり、景時の排除に向けて一気に勢いが加速したのです。
②「畠山重忠の乱」・1205年
畠山重忠・重保親子の謀反など北条時政の陰謀によるものだとわかりながら、義村は人を使って重忠の嫡男・重保を討ってしまう。
しかしその後、畠山親子の無実が判明すると、彼らの討伐の首謀者として稲毛重成と榛谷重朝を誅殺する。
③「牧氏の変」・1205年
時政と妻の牧の方は将軍・実朝を廃して、自分たちの娘婿である朝雅を新将軍として擁立しようと画策し、実朝を幽閉したした事件。
北条政子・義時から命を受けて実朝を義時邸に取り返したのがこの義村で、
この事件後、伊豆へ追放となった北条時政夫妻を送り出したのも義村だった。
④「和田合戦」・1213年
北条義時を排斥しようと企む謎の人物・泉親衡が和田義盛の息子らをけしかける。(「鎌倉殿…」では源仲章演者は生田斗真)
これが発覚して合戦へと発展してしまう。
⑤「3代・実朝暗殺」・1219年
源頼家の子である公暁・は叔父にあたる3代・実朝を暗殺した後、乳母夫である義村を頼るが、義村は迎えに行くと言いながら追手を差し向け、公暁を殺害する。
⑥「承久の乱」・1221年
鎌倉幕府・北条義時 VS 朝廷・後鳥羽上皇 という、鎌倉幕府の命運を賭けた戦い。
そもそも、検非違使(警察)だった義村の弟・胤義からの倒幕の蹶起を促す書状を、あろうことか執権の義時に差し出して通報し、その上、決戦が始まると、胤義親子を追い詰めて自害させてる。
⑦「伊賀氏の変」・1224年
伊賀の方が生んだ政村を時期執権にと伊賀氏が画策するのだが、結局は北条政子によって、伊賀氏が処分された。
この事件は、義時亡き後の北条家を盤石にしたいがための、政子のでっち上げたものという見方が有力。
北条氏への忠誠か?
それとも権力の奪取か?
何を考えているやら、まるで読めない義村ですが、かれの最終的な狙いはいったい何だったのでしょう?
一般的には北条氏に忠誠だったようですが、こんなにも陰で仲間を裏切ってばかりなのに、そんなしおらしい理由なのでしょうか。
真の目的は、あわよくば北条氏にとって代わる政権の奪取だったのではないか?
ここで、彼の真意を妄想してみます。
北条氏に忠誠説
自分の身内でさえも簡単に裏切る義村が、偶然なのか狙ったのかはわからないまでも、最後まで裏切らなかったのが北条義時です。
どの事件も、何だかどっちつかずに見せかけて、結局は義時側に回っているのです。
確かに彼らの母同士は共に伊藤祐親の娘で姉妹だったので従弟同士ではあります。
しかし、他の親戚や実の弟も見捨てるほどの彼が、北条氏に味方したのはなぜでしょう?
いったい彼らの絆はどういうものだったのでしょう??
政権奪取の機会を狙っていた?
ただ単に、北条氏を盾にして状況を常に見極めた立場に身を置き、隙あらば取って代わろうとしていのかもしれません。
特に「実朝暗殺」は、彼が公暁をそそのかして実行させたのではないか。
「そもそも、正統な将軍継承者は2代頼家の嫡男・公暁ではないか?
それが出家を強いられて、現世とは隔離された世界で人生を終えるのはおかしい。」と、義村なら言ってそうです。
自分の乳母父と言う強い立場を利用して、あわよくば公暁を時期将軍とし、義時を排除して自分が執権となるつもりだったのかも。
だいたい政子もいるし、うまく事を運ぶ確率は半分もなく、どちらに転んでも自分が疑われる事のないよう、綿密に幾通りもの筋書きを練っていたのでしょう。
ちょうど良いタイミングで、絶妙な態度を取るのは義村の才能かもしれません。
もしかして義時を暗殺した?
北条義時の死亡に関して、複数の説があります。
・脚気と暑気あたりで長らく体調不良だった。 「吾妻鏡」
・予期せぬ急死。 「百錬抄」
・継室・伊賀の方による毒殺。 「明月記」
ここに私はもう一つ加えたい。
それは、三浦義村による毒殺です。
あり得ない事ではないと思うのです。
それまでもどっちつかず態度で、土壇場で形勢が良くなりそうな方についてきた義村です。
そのために北条義時は必要だったのですが、彼にとってはこの辺りで用済みとなったか。
先日の「鎌倉殿…」のスペシャルトークにおいて、あっと驚く結末があると語っていました。
義村が関係しそうな気がします。
義時も、それまでの自分の罪深さを十分に理解していたので、義村に殺られるのをわかりながら、あえて殺られたのではないか?
殺害方法は毒殺でないかもしれない。
斬られるか、崖から落とされるか、どんなものかはわからないが、義時は甘んじて受け入れるのでは?
そして、三浦義村も最後の最後に一世一代の「裏切り」をするのではないか。
三浦氏宗家が滅んだ「宝治合戦」
1247年に起こった「宝治合戦」とは、ざっくりいうと北条氏と三浦氏の対立から始まった武力衝突で、そこに同じ北条氏の外戚である安達氏が加わり、三浦氏の宗家が滅んでしまった合戦です。
(三浦氏の傍流は続きます)
義時の子である3代執権の泰時が没したあと、その孫である4代・経時の時、北条氏に不満を持つ御家人たちによる反対勢力生まれるも、経時は若くして病没。
そのあとの5代・時頼によって御家人たちは処分されます。
この時の三浦氏は、義村の子・泰村が継いでおり、日和見をして動いていません。しかしその弟の光村は北条を攻めたいオーラが満開でした。
結局そこに安達氏が加担したと思ったら、あれよあれよという間に、三浦氏宗家は滅んでしい、義村があれだけ策略を巡らして守ってきた血筋が途絶えてしまうとは、なんとも皮肉です。
結局この事件は、北条氏得宗家の専制政治が確立するきっかけとなったのですから、義村の息子たちは、父のようにうまく立ち回れなかったようです。
北条にしろ三浦にしろ、家を守るためには、非情な手段をどれだけ講じてきても、滅びる時は儚いものです。
自分の息子たちの末路を、三浦義村はあの世でどう思っているのでしょうか?
そんな事もまだわからない義村の、これからの暗躍もまたみどころですね。
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【参考文献】
・歴史上の人物.com
・Break-Place
・Wikipedia
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