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日本史の基本は平氏と平家、そして平氏と源氏。

相変わらず紀行記を執筆中なのですが、書き進む中で壁にぶち当たると、どうしても調べることに時間を費やしてしまいます💦

先日も京都・山科の「毘沙門堂びしゃもんどう」について調べると、元々の創健は行基なのですが、現在の原型を作ったのは|平親範《たいらのちかのりという記述を見付けました。

誰それ?
平清盛との関係性は?

なんせ平氏と言っても系図は膨大なもので、歴史家でもない私がすべてを把握しているわけもなく、有名な清盛と比べた系図上の立ち位置を知りたくなりました。

そもそも平氏の元は、大きく分けて4人の天皇の系統があります。

桓武かんむ平氏 [50代桓武天皇]
仁明にんみょう平氏 [54代仁明天皇]
文徳もんとく平氏 [55代文徳天皇]
光孝こうこう平氏 [58代光孝天皇]

このうち最も有名な一族に発展したのが桓武かんむ平氏で、他の系統は続かず途絶えていますので、平氏といえば桓武平氏という事になり、親範ちかのりも清盛もここに属します。

では彼らの最初の分かれ道はどこだったかというと、桓武天皇の皇子である葛原親王かずらわらしんのうの子、高棟たかむね王と高見たかみ王からのようです。

2012年の大河「平清盛」では、清盛は白河法皇(伊東四朗)の御落胤だという説が採られ、私は内心驚いたのを思い出しました。

それが真実かどうかの確証はないにもかかわらず、その後の清盛の異例スピードの出世を思うと、この説を採った方が真実味があったからでしょう。

この白河法皇こと72代白河天皇が清盛の実父だとしたら、平氏の内の平家の系図はまたややこしい事になります。


今回は、自分のためにややこしいところを記録しておきたいと思います。


平氏の中の平家

うじと家

うじとは血縁関係のある家族群で構成された集団。

Wikipedia

元々源・平・藤・橘に始まった各血族をひとくくりにしたのが「氏」であり、その中の一つの家族が「家」です。

ですから平家とは平清盛一家の家族を指し、平氏とは桓武天皇から平姓を賜ったさらに大きなカテゴリーとなります。


「平家」の祖は高望王たかもちおう

上記系図の高棟王は公家平氏となり、その弟である高見王の子、高望王たかもちおうは寛平元年(892)にたいら姓を賜わって平高望たいらのたかもちと名乗ったのが武家平氏のはじまりです。

ですから、大きく分ければ「毘沙門堂」の平親範たいらのちかのりは公家平氏、平清盛は武家平氏となります。

かなり早い段階で分岐した家系でした。


伊勢平氏の始まり

さて、ここで清盛が属す平家の祖をたどると、高望王たかもちおうのさらに3代あとの平維衡たいらのこれひらが伊勢に根を下ろして伊勢平氏となり、その孫の平正衡たいらのまさひらの系統が清盛の「平家」へと繋がるのです。

[桓武平氏(高望流)系図 -2 (伊勢平氏(平家)]


本来は二位の尼の実家が平家

あれこれを平氏一門の系図を見て気付いたのですが、面白い事に、後に二位の尼にいのあまとなる清盛の継室・時子平親範たいらのちかのりと同じ高棟王流の公家平氏に属している事です。

さらに調べてみると本来の「平家」とは、時子の弟で平清盛の義弟となった平時忠の家族を指すはずなのです。

[桓武平氏(高棟流)系図]

しかし清盛の異例の出世により公家となって以来、一般的に清盛の家族を指すようになったようです。

それぐらい清盛の出世は特例中の特例で、白川法皇ご落胤説もまんざら噂だけでは済まされない気もします。

ですからグッと俯瞰してみると、毘沙門堂の親範ちかのりと平家の長の清盛は葛原親王かずらわらしんのうを祖とする遠い親戚だったのですね。


源平合戦は源氏VS平家だった

勘違いしがちですが、源平合戦で敗れたのは「平」ではなくあくまでも「平だという事です。

清盛ファミリーが滅亡しただけで、氏族が滅んのではありません。

ひとつの家族が消滅しても、他の複数の家族で構成された平氏は残っています。


鎌倉幕府は平氏が支配

源平合戦は、実は源氏と平家というより、東国の源平連合軍 VS 西国の平家という形が見え、「源平連合軍」ということは、平家は同族の「平氏」も敵に回していたのです。

北条氏と坂東八平氏ばんどうはちへいし

東国に勢力を誇っていた高望王の5男・良文よしふみを祖とする以下の8氏を坂東八平氏ばんどうはちへいしと言います。
千葉
・上総
・三浦
・土肥
・秩父(畠山)
・大庭
・梶原
・長尾

これらを見ると昨年の大河「鎌倉殿…」のキャストであることがわかります。

さらに粛清された比企一族は藤原氏(藤原秀郷ひでさと)の末裔です。

そして北条氏はというと、伊勢平氏の祖・平維衡《たいらのこれひら》の兄の孫・平直方たいらのなおかたを始祖とする系統といわれ、鎌倉幕府は北条氏を始めとする坂東平氏たちが築ぎあげたものだったと言えます。

[桓武平氏(高望流)系図 -1]

振り返ってみれば、流人だった源頼朝を支えて棟梁に仕立て、あとは執権・北条氏が采配したという事は、深く考えると非常に面白く、平は滅んでも平は十分に台頭していた事を物語ります。

平氏の底力には驚きます。


源家げんけとは呼べない理由

では、平清盛一家の「平家」に対して、なぜ源頼朝一家を「源家げんけ」と言わないのか?

その理由として次の4つが考えられます。
①中央政界の権力争いで藤原氏に敗北
②保元・平治の乱で平家に敗北
③敗北により一族が全国に散らばる
④頼朝による一族の粛清

せっかく頼朝も官位を授かり貴族の仲間入りを果たしたのに、自分の兄弟を含む一族を粛清し過ぎたため、結局はたったの3代で血筋は途絶えます。

でも、年数で言うと、
平家政権は25年間(1160代 ~1185)
源氏政権は27年間(1192~1219)

平家の六波羅政権樹立の年がハッキリしないので、長く見積もっても鎌倉での源氏政権の方が長い。

という事は、上記の4つの理由に決定打はなく、

⑤中央に政権を持たなかった
⑥頼朝が地固めを完成できないまま他界した

この2つ理由も付け加えるべきかもしれません。


やっぱり黒幕は北条

この頼朝の死因も大いに疑問です。

直接の理由を簡単に言うと、
「体調を崩していたために落馬」
とありますが、密かに毒薬でも飲まされた可能性もあるのでは?

北条一族の誰かが、もはや頼朝は不要だと判断した結果かもしれません。


頼朝の死後はご存じの通り、北条氏が執権となって幕府の実権を一手に担うのですが、その北条氏も頼朝に倣って粛清を繰りかえします。

ここでは割愛しますが、2代執権・義時が没したあとも一族間での粛清や争いは絶えませんでした。

だからこそ、17代も続いたのではないでしょうか?
(実質的には14代高塒までかな?)


そして、倒幕したのは源氏

河内源氏である新田義貞が鎌倉幕府を攻め落とし、清和源氏である足利尊氏が次の室町幕府を起こすのを見るとなんとも皮肉さを感じます。

しかし、源氏が隆盛の時代となっても、有力平氏はまだ残り続けました。
現代にも平氏のご子孫はたくさんおられるはずです。

上杉謙信を輩出した長尾氏や相馬氏。
そして織田信長の織田氏や後北条氏といわれる北条氏も平氏を自称していました。

徳川家康は源氏一族の新田義季よしすえが祖だと自称しています。

あくまでも自称●●です。

系図など、いくらでも自分の都合の良いように変える事できました。
しかしなぜ、戦国時代以降の武将たちはそうしたかは、やはり平安~鎌倉期における源平の戦いにあやかりたかったというゲン担ぎに過ぎなかったのです。

そう思うと、最初に平氏としての政権を確立した平清盛の存在は後々まで、影響を与えた事になります。

しかも現在でも運動会や歌合戦などで紅白に分かれるのは、平氏の「赤旗」と源氏の「白旗」が由来しているからで、その影響は今も続いています。

平氏と源氏。

両氏は宿命のライバルとして、今なお日本人のイメージに深く定着しているのです。


【参考文献】
ウチコミ
Wikipedia「平氏」


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千世(ちせ)
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