織田の血は永遠に
今回は別の話題をと思っていたのですが、「どうする家康」のお市の方(北川景子)や茶々(白鳥玉季)の演技から、どうしても書きたくなったことがあります。
織田家は死なぬ
~その血と誇りは、我が娘たちがしかと残していくであろう~
お市の方の言葉にはとても重いものがありました。
現に浅井長政との間に設けた3人の姫たちは、日本史に大きな影響を与えたのですから。
茶々(後の淀君)と徳川との確執は、すでにこの時に芽生え、これが後の「大坂の陣」への大きな伏線となっています。
それにしても、茶々が秀吉に笑顔を向け、手を握った時の秀吉の狼狽ぶりは新鮮でした(笑)
この三姉妹の生涯は、その浅井・織田という高貴な血筋ゆえ、政治に利用され、翻弄され続けたものでした。
淀君は、悪女に描かれる設定のようですが、
三姉妹の運命とその後の淀君VS家康の攻防戦は、脚本家の古沢さんに委ねるとして、おそらくスルーされるであろうところをまとめます。
今回はそのスピンオフとして三女・お江の娘である豊臣完子の存在にスポットを当てたいと思います。
過去に著書にて少し触れさせていただきましたが、お市の方の血脈は完子を通じて現在の天皇家へと受け継がれてゆくのです。
こちらの過去記事でも触れています。
浅井・織田・豊臣の血を受け継ぐ
実母・お江は
3度も結婚していた
お江と言えば、6歳も年下の家康の嫡男・2代秀忠の正室となり、3代家光や千姫を含む7人もの子宝に恵まれています。
しかしそれまでには、2回も嫁がされていました。
・1回目ー佐治一成
母のお犬の方は織田家出身(信長やお市と兄妹)であり、お江とは従妹同士。政治的策略により強制離縁させられる。
・2回目ー豊臣秀勝
秀吉の姉の子で、豊臣秀次の弟。
完子をもうけるも、秀吉の朝鮮出兵・文禄の役
にて戦死。
豊臣に嫁いで安泰だと思っていた矢先に、娘・完子とともにまたまた不安定な身分となりますが、その3年後に今度は徳川の嫡男の正室として嫁くことになります。
詳しくは2011年の大河「江 ~姫たちの戦国~」で描かれていましたが、私はこれを最後まで観ることはできませんでした。
あまりも少女マンガのようで、途中でシラケてしまったのです💦
歴代の大河の中には、たまにそんな事もありました。(確か豊臣秀勝役はEXILEのAKIRAでした。)
伯母・淀君が育ての親
お江が徳川に嫁いだのは文禄4年(1595年)の事ですから、まだ秀吉は存命でしたが、徳川との関係はお互いに警戒し合う微妙なものでした。
そんな情勢の中、まさか豊臣の血を引く完子を連れて嫁ぐわけにもいかず、豊臣の姉・淀君に我が子を預けてゆきます。(後に徳川秀忠の養女)
慶長9年(1604)、12歳で九条幸家に嫁ぐまで淀君に大切に育てられました。
輿入れの用意は、京の人々も驚くほどの豪華絢爛なもので後世に語り継がれるほどでした。
淀君が完子を不憫に思い、可愛がっていた事や、自分のように戦に左右されることのない公家へと嫁がせた事から、決して自らの運命に満足していたわけでないとわかります。
そして何より、織田と浅井の血を持つ母と秀吉の甥が父という彼女は、織田・浅井・豊臣を受け継ぐ希少な血脈を持つ複雑な立場の完子を、不安定な時世の中、武家に嫁がせたくはなかったのでしょう。
このあたりにも淀君の完子への深い愛情を感じずにはいられません。
完子は、実母と幼い頃に生き別れたカタチではありましたが、寂しい思いなどすることはなく、愛情豊かに育てられたのです。
ちなみに、淀君の子・秀頼の正室として7歳で嫁いできた千姫は完子と父違いの妹であり、淀君からみれば、二人とも実妹の子であり、千姫もまた大切に育て上げるのです。
大阪夏の陣での豊臣滅亡時には祖父である家康に淀君の命乞いをしたと伝わります。
千姫もまた淀君への恩義は強く持っていたようです。
完子の子孫は
今上天皇へと繋がる
摂家筆頭に並ぶ九条家
完子が嫁いだ九条家とは、
藤原氏嫡流の家格の近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家の5つの一族のうちの一つに属しているほどの家柄です。
高貴な公家に嫁いでいたため、大坂の陣で豊臣が滅んだ後も、一切のお咎めはなく、完子の子孫は脈々と続き
ます。
本当に淀君は良い仕事した!!👍
9代後の九条節子が天皇家へ
完子から数えて8代目の九条通道孝の娘・節子は15歳で当時の皇太子・嘉仁親王(大正天皇)と婚約し、明治33年(1900)、日本初の神前結婚式を執り行いました。
完子と節子、読みが同じ「さだこ」でややこしい💧
これ以後、「神前結婚式→ホテル結婚式→披露宴」という婚礼儀式のパターンが日本国民の間で普及することとなります。
大正天皇の婚儀が最初だったのですね。
今やこのパターンも古くなっていますが…
節子はすぐに懐妊し、翌年の4月29日後の昭和天皇を出産しました。
そして明治45年(1912)、明治天皇の崩御に伴い夫・嘉仁親王が皇位を継承し、節子は皇后となります。
そして昭和26年(1951)に66歳で没した後、「貞明皇后」と追号されました。
大正天皇との間に4人の皇子をもうけたので、后としての最重要の役目を果たし、昨年の1月時点では、現在の全ての皇族でにおいての最も近い共通祖先なのだそうです。
お市の願いは叶った
お市のセリフ通り、織田と浅井の血は延々と残ったのです。
しかし、皮肉な事に彼女が嫌っていた秀吉の血も混じる事になりましたが…💦
浅井3姉妹の末娘・お江を介して皇族へと子孫が続いたのはそれだけではなく、再再婚の徳川秀忠との5女・和子は第108代後水尾天皇の皇后(後の東福門院)となるので、徳川の血も皇族へと繋がりました。
そしてさらに3代将軍・徳川家光の側室お振りの方は、なんと関ケ原で敗れた石田三成のひ孫で、そこから女系を通じて「貞明皇后」へと繋がるのです。
【追記】ー-------
お振りの方が生んだ千代姫から始まり、
二条宗基を経て貞明皇后へと繋がる。(以降は上記の系図を参照)
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という事は、
皇室には、織田・徳川・豊臣・石田の各氏の血脈が流れている事になります。
戦国期には、腹の探り合いで火花を散らした各氏ですが、その血は皇族の中で仲良く混じりあっているようです。
それにしても、悪女と伝わる淀君は、まったく悪女ではないではないか。
私には愛情豊かで情け深い女人として映ります。
武家としてのプライドを最期まで貫き通した誇り高き婦人であったと思うのです。
豊臣完子のことはスルーでしょうが、淀君をどう描くのか?
家康が主人公なので、やっぱり悪女として描かれてしまうかもしれません。
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