湖東サイクリング②安土城址を登る
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さて、いよいよ「安土城址」へと向かいます。
安土山は標高198mの小さな山ですが、
周りには田畑が広がっているだけので、その姿のすべてを眺めることができます。
滋賀県道2号(大津能登川長浜線)を西へ向かうとトップ画像の「安土城址」と書かれた大きな石碑があり、それを見た途端に心が躍り、はやく横断歩道を渡りたくて気持ちははやります。
そして大手門を通過して、石段を見上げた時の気持ちは当日思わずつぶやいてしまいました。
私:「なんか泣きそう!」
主人:「はぁ?なんでやねん。テレビで何べんも見てるやんけ。」
少なくとも私は、実際に見てみると全然違う迫力が伝わり、ましてや先ほどまで再学習した「安土城」の城郭を目の当たりにして、なんとも言えない感慨が全身を貫いたのです。
よくぞこんな巨大な城郭を作ったものです。
当時の人々を心から賞賛したい気持ちと、まさしく信長の大きな野望と意図がそのまま表現されたような城だと感じたのです。
安土城の縄張りから見える事
安土城全体の縄張り図は以下の通りで、私が興味のあるところだけを加筆しました。
ぶっちゃけ、見どころは要所要所にたくさんあって、それらすべての写真を掲載するサイトは山ほど存在するので、私は自分の興味のあるとこだけを抜粋します。
安土城はそれまでの従来の城とは目的や性質はまったく異なり、その大まかなポイントは以下の通りです。
・信長の「天下布武」を象徴した城郭
・信長は「天主」、家族は「本丸」に居住
・戦対策より権威を見せる城
信長自身が一番高い位置の居住し、家族がその次、そして信頼の置ける順に家臣を下に従えた図式が見えます。
そういう見方をすると、徳川家康は良い位置にいますね~。
家康は後に豊臣秀吉からも重要人物として表向きには優遇されるのですが、信長のこの時の評価も関係しているのでしょう。
この時点では、秀吉邸は家康邸よりも下に位置していますので、信長にとって、自分の天下統一事業を秀吉が引き継ぐなど想定していなかったはずです。
大手門からほぼ真っすぐ伸びる大手道も、戦国の常識で考えると大胆不敵な自信の表れでしょう。
仮の摠見寺でお茶タイム
入り口で「入山料」として700円が必要で、希望するなら「摠見寺特別拝観料」として500円が別途必要です。
なるほど、発掘するのに費用はかかっていますから当然ですね。
摠見寺特別拝観には抹茶&和菓子も付いているので、和室でホッと一息するのにちょうどいいです。
まずは縄張り図の右手、徳川家康邸のところにある摠見寺の仮本堂を訪れました。
この和室で休憩したのですが、肝心のお茶セットを撮り忘れています。
主人はまったく興味ありませんし、私も食レポは苦手なので、普通にがっついてしまいました。
レキジョークルとは違い、おっちゃん、おばちゃんの老夫婦はどこまでもマイペースです。
こちらはあくまでも仮の摠見寺です。
後ほど、下山途中に元々の跡地を通るので、詳細は後述します。
「天主」を目指して
ここからひたすら天主を目指して登ります。
ふと見上げると目が眩むような石段が続いているので、心が折れそうになりますが、そこは自分を奮い立たせるのみです。
石仏を石段に使用
大手道をひたすら上っているとあちこちに結構な数の「石仏」がありました。
これらは採取した石だけでは足りず、墓石や石仏も利用したからです。
そういえば、以前、レキジョークルで訪れた明智光秀の「福知山城」の石垣にも多く見られましたし、仏に敬意を払いながらも、チャッカリ利用するという考え方は、当時の武将たちの優先順位が伺えるように思います。
というか、織田軍団が特にそうだったのかも。
表向きの理由は「材料不足」ですが、信長の場合は自身の威を示したかったのでしょう。
ここにも「俺様主義」の表れの一つが見えます。
石垣ならまだしも、階段に使うということは踏んでよいという事なので、相当な罰当たりな所業です。
現代でもさすがにほとんどの人は踏めないのですが、このあたりは本当に仏を軽んじていたのか?
ただの合理的精神だったのか?
おそらく当時の登城する人々は手を合わす事はすれど、踏みつける者などいなかったはずです。
信長のすることは現代人の感覚から見てもぶっ飛んでいて、これに関していえば悪趣味だと取られても仕方ありません。
巨石に圧倒される
「黒金門」まで来ると、周囲の石垣に比べると、使われている石の大きさに圧倒されます。
ここから以降、天主エリアの石が大きくなります。
後の「大阪城」や「名古屋城」もそうですが、自分たちの権威を見せつけるために、一番目立つところに「巨石」を使っています。
それを思うと、その後の権力者たちの権威の見せ方もこの「安土城」における信長に倣ったのでしょう。
安土城中枢部への重要な入口である「黒金門」はその名の通り、黒と金で作られた豪奢なものだったはずです。
天主が火災に遭ったと同時に焼失しているのは非常に残念ですね。
安土山は琵琶湖の際にあった
恐ろしいほどの石段地獄を体験してやっと天主跡に到着しました。
礎石が残るのみなので、先ほど見学した豪華絢爛な天守がここにあったことを妄想するしかありません。
奥の階段を上り石垣の上に立つと絶景が見渡せます。
そういえば司馬遼太郎氏も何かのエッセイで書かれていましたが、中学の時に安土城址の頂上から一面に広がる琵琶湖が美しかったという記述を読んだことが事があります。
しかし、現在はすぐ下には田畑が広がり、琵琶湖からはかなり離れています。
司馬氏の中学時代と言えば、戦前の事なので、それから随分と干拓されてすっかり様変わりしているのは当たり前ですね。
信長が安土城を建てた頃、猊下には三つの琵琶湖の内湖が広がり、これらに囲まれて安土山自体が湖の際にあったといいます。
元々の琵琶湖にはこのような内湖が大小37個もあり、それぞれが入り組んだ入り江を成しながら繋がっていたのです。
城の立地としては三方を湖に囲まれ、しかもメインの琵琶湖から直接繋がっていないというもので、攻守の面で都合の良い場所だったわけです。
この地の人々のための稲作を目的として干拓したわけですが、ちょっと残念にも思いました。
安土城が建造物だけでなく、周りの立地条件まで跡形もなく変えられて、当時の面影などないのですから。
私も見たかったなぁ。
司馬氏が見た美しい頂上からの光景を。
天主から見える琵琶湖へと続く連なる内湖を眺めながら、信長は何を思ったのでしょう。
それまでの苦難の道を振り返ったか。
もう少しで手が届く天下統一か。
摠見寺跡から妄想する
頂上から順路に沿って下山してゆくと、かつての摠見寺跡を通過します。
仏より自分が上
有名なお話ですが、写真を撮った手前の高いところに「本堂」があり、そこには信長を仏として崇めた「石」が鎮座されていました。
これは仏様のおられる「三重塔」より信長の方が格上だということです。
これお前代未聞の罰当たりな事ですが、同時にそんな大それたことをする信長は、とてつもない大きな責任を背負う覚悟を持ったという事になります。
かつて、それまでの武将にこんな人物はいません。
自分が一番という「俺様主義」がここまで露わにすると、唖然としながらも痛快さも感じてしまい、これも信長の斬新な革命的思想だと捉えることができます。
幕末に焼失
摠見寺は安土城築城とともに近隣の寺社から建造物を移築して創建されました。
「三重塔」は近江国甲賀郡長寿寺より移築された1454年建立のもの。
「仁王門」は近江国甲賀郡柏木神社移築の1571年の建立です。
どちらも400年の時を超えて今もなお堂々とした風格を備えています。
安土城が焼失した時点では残っていたのですが、幕末の1854年の火災に遭うまで、これらを含めた22棟もの建造物があったといいますから、かなりの規模の寺院だったようです。
すっかり廃れているとはいえ、今に残るこれらの建造物は、かなり重厚で立派で、ちょっと奈良の「法隆寺」を思い出しました。
臨済宗である理由は?
私が不思議に思ったのは、捴見寺が「臨済宗」である事です。
なぜ??
とにかく浄土宗に帰依したかと思うと、その母山である「比叡山」を焼き討ちしたり、「熱田神宮」を崇拝していたようなので神道派なのかと言われるとそうでもないようです。
ここからは私なりの妄想ですが、
幼いころの信長の教育係として平手政秀が選んだ沢彦宗恩という臨済宗の僧侶の影響ではないでしょか?
臨済宗と言えば、レキジョークルでもその京都の建仁寺を訪ねた時の紀行文を書かせていただきました。
桶狭間で劇的に破った今川義元を教育した臨済宗・太原雪斎と同じなので、きっと信長も同じような教育をほどこされて育ったのでしょう。
平手政秀は信長にとって教育係兼育ての親であり、彼が自刃した時に建立した「政秀寺」も沢彦が開山しているのです。
信長にとって精魂込めた城の敷地に、自分を育てた平手政秀と沢彦を近くに置きたかったのかもしれません。
◇◇◇
実はこの時、すでに2時ごろだったでしょうか?
私たちは昼食も摂らずに、ここまで突っ走ってきました。
そこらへんで食べるつもりだったのですが、何ももなく、完全に昼食難民になっていました。
先ほどの「信長の館」の近くにレストランがあったのですが、一瞬迷ったものの先を急ぐことを選んだのです。
ここは旅の先生である「なぐなぐさん」を見習わないといけません。
史跡や田舎を訪ねる時は昼食の用意は必須です。
そういえば本丸あたりにはベンチが用意されていて、数人の方が、昼食を摂っていました。
安土周辺がここまで何もないとは思ってもいませんでした💦
まさしく「安土城はゆめまぼろしの如くなり」
【関連記事と著書】
【参考文献】
・東近江市「びわ湖の干拓」
・仏を超えた信長-安土城摠見寺本堂の復元ー
>>>続きます