「法隆寺」を堪能する-第4回~期間限定公開を巡る
前回はこちらです。
前回から2週間後の11月1日、再び法隆寺を訪れました。
というのも数か所の秋季期間限定の公開が目白押しなので、それらが最も重なる日と参加メンバーの予定が合う日を選んだのです。
混雑が予想されますし、前回と同じくお天気もお昼頃から雨予報なので、いつもより30分早く地元を出発しました。
【法隆寺】
・上御堂 (釈迦三尊像) 11月1日~3日
・夢殿 (救世観音) 10月22日 ~11月22日
【法輪寺】
妙見堂特別公開と秘仏・妙見菩薩像御開帳 11月1日~7日
腰の具合は若干、いまだに右腰は重いものの、足を引き摺らずに歩くことができるほど順調に回復しているので、この日は「杖」は持たず、コルセット着用も最終日のつもりで臨みました。
やれやれです💦
隅々のお堂を巡る
今まで法隆寺内では、主に東西の伽藍エリアを中心に巡りましたが、今回は特別公開も含めてそれ以外のエリアのお堂も巡りました。
境内の端から端までくまなく見て歩き、法隆寺を満喫した紀行となりました。
🍃3日間限定の上御堂
永祚元年(989)、天武天皇の第六皇子・舎人親王によって建立されたと伝わりますが、現存の建物は鎌倉時代に再建されたものです。
中には国宝・釈迦三尊像(平安時代)や重文・四天王像(室町時代)が安置され、堂々とした貫録を示しています。
法隆寺にやってくると、江戸時代の作は「新しい」という感覚になります。
しかもそれらを拝めるのは1年のうちのたったの3日間なので、特にここに照準を合わせて予定を組み、何をおいてもまず一番に訪れたのです。
私たちはてっきり西院伽藍の外側をぐるりと回って行くものと思っていたのですが、なんと西院伽藍の最北に位置する「大講堂」の中の北の扉が開け放たれ、そこからしか行けない動線になっていました。
ここは普段はピタリと閉じられているので、「上御堂」の姿さえ見ることができません。
お堂の姿はおろか、南側の全面が開け放たれた様子自体が、大変希少な光景だと言えるのです。
後になって聞いたのですが、実はこの堂内の奥に夢殿ご本尊・救世観音の厨子があったそうなのですが、まったく気付かずスルーしてしまいました。
それよりも手前左端にあったとても古い「鼉太鼓」に目が留まり、全体が黒ずみ、模様も不鮮明になっているもので、なんでも鎌倉時代の作との事で、今でも式典などで現役だと聞き、驚きました。
今年、四天王寺で見た物と比べると半分ほどの大きさしかなく、しかもずっと古く、撮影禁止の上、私からは横向きになっていたのでじっくり見ることもできなかったのが残念です。
ただし、四天王寺・宝物館に展示されていた「鼉太鼓」はとても大きくてここのものと変わらないくらい古く、安土桃山時代作、豊臣秀頼による寄進のものだそうです。
それよりも古いのがここの「鼉太鼓」ですので、そりゃ真っ黒に変色していても仕方ないですね。
🍃夢殿・救世観音の公開
前回の春季公開の時に訪れた夢殿・救世観音もちょうど秋季公開期間でした。
とはいえ、扉が開け放たれて中に入って近づけるわけでもなく、救世観音の厨子が開帳されているのを周りの縁側から眺めるのですが、遠い位置から薄暗い堂内であっても、黄金の輝きがわかるほど保存状態が良いのにはつくづく感心させられます。
聖徳太子の祟り?
救世観音は日本最古の木造彫刻のひとつですが、法隆寺を創建した聖徳太子をモデルとして生き写しの姿だとも言われています。
哲学者であり評論家でもある梅原猛によると、「怨霊としての聖徳太子の姿」だと考え、その祟りを封じ込める媒体として作られたという説を残しています。
通常、仏像の後ろにある「光背」は本体と平行に独立したものですが、救世観音は後頭部のド真ん中に杭を打ち付けるようにつけられているのです。
これは他では見られない異常な状態と言えます。
杭や釘を打ち付ける行為はまさしく呪詛!
そこには、どうしても後頭部に打ち付けなければならない理由があったからとしか思えないというのです。
この東院エリア復興に尽力した当時の僧・行信は悪霊の呪いを封じ込めるために故意にしたのでしょうか?
それを知ると、煌びやかに黄金に輝く柔和な微笑みも、にわかに恐ろしい不敵なものに見えてきます。
ところが、
むしろ飛鳥・白鳳期の仏像ではこのタイプが多く、特に朝鮮のものにはこの痕跡があり、もしかしたら一般的な形式だったのかもしれません。
少なくとも私のイチオシの「百済観音」は名前だけは朝鮮風ですが、光背は別のスタンドで建てられています。
これもまた作者が日本人であることを裏付けているのかなぁ。
とにかく法隆寺には「七不思議」だけではなく、小さな不思議ネタが多いのも大きな魅力ですね。
🍃フェノロサと岡倉天心
聖徳太子の呪いとか祟りとかが真実かどうかはわかりませんが、ずっと時代は下って、明治17年(1884)、アメリカ人の美術研究家アーネスト・フェノロサとその助手、岡倉天心が日本美術の調査のため訪れた際、公開を希望したところ、祟りを恐れて僧侶たちは固く拒んだそうで、ご開帳させるのにかなりの説得を要したしたらしいです。
その祟りを裏付けるように、白布でぐるぐる巻きにされ厳重に保管され、門外不出の完全秘仏として約650年もの間、人目に触れることはありませんでした。
しかも法隆寺の僧侶でさえも200年ほどは拝めなかったと言われています。
それもまた大切にしていたというより、封じ込めのためだったのかもしれませんね。
しかし彼らは仏像を信仰対象というだけでなく、美術彫刻として捉えて、その価値の高さを評価していました。
岡倉天心にとってフェノロサは恩師であり、助手として各地を同行しながら多くを学び、東京美術学校(現:東京芸術大学)の校長となり美術教育に携わります。
一方フェノロサは帰国後もボストン美術館東洋部長に就任するなどして、日本美術の紹介に生涯を通じて貢献しました。
神仏分離や廃物希釈など、日本人であるはずの明治政府の面々は自国の宝をゴミのように扱っていただけに、外国人によってその素晴らしさを指摘されたことは、誇れる反面とても恥ずかしく、現代の私でさえどうにも心がざわついてしまいます。
どうして、日本人はこうも極端なのか?
自分たちの文化に誇りはないのか?
🍃ご本尊は「峰の薬師」の西円堂
ランチまでまだ時間があるので、前回行った令和6年 法隆寺秋の特別展「法隆寺を彩る動物たち」を再度鑑賞し、再び「玉虫厨子」の見事な復元に見惚れたあと、今度は西院伽藍の北西の端にある「西円堂」へと足を延ばしました。
境内全体に北へ登り坂になっていて、おまけに30段ほどの階段を上ったところにあるので、かなり眺めは良い!
あいにく雨が降り出してしまいましたが、晴天ならもっと見晴らしは良かったでしょう。
西円堂は夢殿と同じく八角円堂になっていて、藤原氏の祖・不比等の妻・橘夫人の発願で養老2年(718)に行基が建立したと伝わります。
ただし、現存の物は建長2年(1250)の鎌倉時代のものです。
ほんとかな?行基もあちこちの創建に関わっているから💦
こちらのご本尊も「薬師如来」。
別名「峰の薬師如来」と言われています。
なぜ「峰」か?
単純にこの場所が境内では小高い峰の上にあたるので、そう呼ばれたのかと思いますが、調べてみるとそれだけではないようです。
現地では気付かず素通りしてしまいましたが、中門前の案内の石柱に、以下の記述が彫られているそうです。
「左西圓堂み祢 の薬師如来」
「み祢 」とは「峰」ではなく、実は「御霊屋」という意味らしい。
おそらく発音だけで「峰」と解釈したという説もあるのです。
ちょうど場所的にも「峰」ですし、間違える可能性もあるかもしれません。
所詮、仏像とはいえ、名前などは間違ったまま今に伝わっているのも多いでしょうね。
「cafeこもど」の魅力
前回の予告通り、「こもど」でランチしました。
前は雨がひどくなってきたので、店内だけしか見ていなかったのですが、今回はちょうど止んだので庭の方を探検してみました。
「こもど」おそるべし!
なかなか奥が深い!
しかも独特のセンスがとても可愛く、見ているだけで楽しめました。
庭の小さな小屋はショップになっていて、ちいさなロボットたちが所狭しと並び、まるで「プペル」の世界でした。
ここがこんなにも魅力にあふれたカフェだとは知りませんでした。
ふと、こんなポスターを見つけ、おばちゃんたちはやる気満々になったのは言うまでもありません。
レキジョークルでの手作り企画は5年ほど前の「はにわ作り」以来ですが、これもまた面白そうです。
早速スタッフに詳細を聞きましたので、また後日予約することにします。
ランチメニューは鶏カラやお麩などの竜田揚げ。
やはり揚げたてで美味しかったです。
奈良って鶏カラが名物らしい。
結構、から揚げや竜田揚げのメニューが多いのですよ。
知らなかったなぁ。
さて、午後は法隆寺の外へと紀行します。
>>>つづく
【参考】
・隠された十字架 梅原猛著
・古寺行こう 法隆寺
・奈良県薬剤師会
・法隆寺
「法隆寺」を堪能するシリーズ
①第1回~プロローグ
②第1回~東院伽藍
③第1回~西院伽藍
④第2回~藤ノ木古墳
⑤第2回~周辺の寺々
⑥第3回~秋の斑鳩と東院伽藍の深堀り
⑦第3回~お宝と七不思議
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