【節約生#650】みっともない「格好」と「精神」
趣味で節約生活をはじめてみた。
健康で文化的な生活をしながら節約をするというルールで挑戦中。
靴磨きをしながら思い出す
靴磨きというのはどれくらいの頻度でするものだろうか。
図書館で借りた靴磨きの本をみると頻度だけでなく1回にかける時間も長い。
100円で買ってきたクリームでも充分きれいになると思うので、そこまで本格的にはしていない。最近靴磨きをしながら母親が靴磨きをしたときのエピソードを思い出した。
淡いよい思い出ではない。
気分屋の母は思い出したように、何か月か1回に靴を磨きだして、身だしなみを整えることは大事だと主張していた。みっともない格好をしてはならないのだと言う。
みっともないのは「格好」なのか「精神」なのか
思い返すと「みっともない」というのは母の口癖だったのかもしれない。未だによく言っている。
見た目にこだわっているのかもしれないが、自分にはわからない。個性があるとかおしゃれをしているとかを感じたことはない。
ただ、世代なのか他人の目を気にする生き方をしている。みっともない「格好」はやめるようにということを常に強要してきた。特に自分が変わった服装をしているわけではないけれども、独自の基準があるらしい。
自分の感覚が世間の感覚と同化することは誰にでもあるけれども、世間とのずれは大きい。ジーンズはみっともないし、Tシャツで外出もみっともない・・・。
離れて暮らすことになってからその強要から逃れられた。
正月あたりに会わないといけなかった。そこでも同じことを繰り返していた。そこで始めて尋ねてみた。
みっともない、他人が笑うというけれど、そんなに他人の服装を自分はみていない。覚えてもいない。年がら年中道行く人の服装をみてみっともないと言って笑うひ人の精神の方がみっともないのではないか。
彼女の言い分では、世間はそのみっともない精神でいるらしい。世の中がそうなのだから(とてもそうは思えない)というので、そういうみっともない人に合わせるためのお金はないのだと答えた。
普通と世間と同じはお金がかかる
母は特殊なのだろうけれども、世間に合わせようと努力してお金をひたすら出すのは節約の道から外れる。というよりも、大事だと思えないことにお金を払うことが苦痛である。
そういえば、母も車だとか家だとかを買うものだと主張していた時期があった。自分にとって必要だとは思えないものなので購入することはなかった。世間の普通に縛られると貧乏にしかなれない。
仕事を辞めたのでお金があるとは言えない。しかし、そもそもお金を使わない生活になっているので暮らしていけている。もしも家を買ったりして借金をしていたら、仕事を辞めることもできなかっただろう。
精神をすり減らしながら働いていたのかもしれない。
見たくないなら見なければよい
みっともないの語源は「見たくもなし」から気ているらしい。昔から見た目を気にしている人は多かったのかもしれない。お金がないのに見た目を気にして、マウントをとりあう。
これもひとつの修羅道と言える。
自分を見つめて大事なものだけにお金を使えばよい。他の人を見て笑うのもおかしな話であるし、他の人を見て笑うような人のために自分を変えるのはおかしい。
お金を払って高い革靴を買ったことがあった。その頃は毎日忙しくしており、靴磨きをする時間や心の余裕もなかった。お金は今よりもあったかもしれないけれども、今の方が豊かな生活である。
その高い革靴は磨かれないまま寿命を終えた。
今は安い靴である。けれどもほこりや汚れはない。人に見せるというよりも、自分が気持ち良い。だから靴磨きをしている。そもそも、出かける前に靴を磨けるという、時間と心の余裕は計り知れない。